last update 2000/06/07
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■春■ |
=Spring has come= |
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散り行く花弁は、まるで涙のよう。 ■■■■■■ 『そうねぇ、あと何回か、この桜が咲いたら…』 『…きっと、帰ってくるわよ…』 そう言って、微笑んでくれる人がいたんだ。 (重すぎるんだよ) (双肩にかけられたものの重さが…) ■■■■■■ さらさらと聞こえてくるのは、葉擦れの音だろうか? それとも川のせせらぎか? 鵺野は重い瞼を抉じ開けるように、その紅玉髄の瞳を開いた。 目の前に広がるのは、宵闇に薄く霞んだ、群青と濃紫を混ぜたような、深い色の空だ。 ちらちらと瞬いているのは出たばかりの星々だ。 あたりは宵の暗さとは異なった、もっと沈んだ闇の色を孕んでいる。 それもそのはずだ。 周りは覆い被さるような樹幹に囲まれ、見上げれば競り出た枝に、若葉が覆い茂っている。 葉々は、月明かりを遮り、完璧なまでの闇を作り出そうとしている。 ……しかし。 わずかに目を逸らしてみれば、そこに広がる、まばゆいまでの白を見出すことが出来た。 微かなそよ風に巻き上げられ、さらさらと舞い散るものがある。 (……ああ) 鵺野は小さく嘆息をついて、その舞い散る白を見つめていた。 (また春が来たのか…) 白雪のように軽やかに舞うその花弁を見ながら、鵺野はひとり、嘆息を洩らしていた。 肺いっぱいに空気を吸い込むと、あたりに茂る若葉の香りと、そして、なによりも、その花の香りが身に染み入るようだった。 「こんなところにいたんですか? もう閉院時間ですよ」 不意に掛けられた、だが馴染みの深い声色の方に、鵺野は頭をめぐらせた。 「玉藻」 樹木の陰から、長身の男の影が現れる。濃い闇の中でも、その男は、後光を発しているかのように、霞むことなくはっきりとみとめられた。 鵺野は、短く名前だけを口にして、鵺野はそのまま口をつぐむ。 込み上げてくる感情の激流は、咽喉を震わせた。滲みかける涙を叱責しながら、鵺野は毅然に桜の大木を見上げていた。 (待っていたんだ) (ずっと) (待っていたのに…!) 「……鵺野先生?」 怪訝そうに玉藻は鵺野を見つめ、そのまま唇を閉じた。 その表情に顕われる、途方もない孤独。苦痛。……そして哀惜。 揺らめきながらも、その光を失わない、紅玉髄の輝石。 侵し難い威光。 玉藻は息を呑み、押し黙るほかなかったのだ。 さらさら、さらさら。 なおも桜は舞い散るばかりである。 まっすぐに桜の巨木を見つめる鵺野の姿は、どこか儚く、現実味を帯びていない、夢の産物のようである。 うちひしがれたような、虐げられたような眼差しに、玉藻は小さく首をすくめていた。 「悪い。もう帰るから」 掠れた弱々しい声色で言いながら、鵺野は脇に置いておいた上着を着なおす。 「いえ、別に構わないですよ」 玉藻はそう言って、そのまま鵺野の傍らに腰を下ろした。 舞い散ってくる桜の花弁を見つめ、翠緑の瞳を細める。 「……桜、ですか?」 「うん」 微かに吹いている風が、頬を撫でるように吹き抜けていく。 「でも、桜の木でしたら、わざわざ病院の中庭でなくても、小学校にあるでしょう?」 不意に浮かんだ疑問を、玉藻は何とはなしに口にした。 鵺野は少しばかり眉をひそめ、何かを逡巡しているようである。 そうして、少し間を置いてから、鵺野は唇を開いた。 「桜を見ると、泣きたくなるんだよ。…すごく」 悲しげな微笑を洩らして、鵺野は言葉を続けた。 「昔さ、小学生だったときに、担任の美奈子先生に言われたことがあるんだ」 「……」 「桜の花が、何十回か咲いたら、お父さんは帰ってきてくれる、ってさ」 平静を装って、鵺野は作り笑いを浮かべた。大抵の人間なら、だませる代物かもしれない。 だが、玉藻は、鵺野の心の奥にある、その爪月のような傷跡を見逃さなかった。 その、痛ましげな微笑を、見過ごせなかった。 「鵺野先生」 かといって、その名を呼んでやること以外に、何を成すことが出来ただろう。 「でも、帰ってこないんだって、はっきり悟ったのは中学の頃かなぁ」 『ねえ、先生。僕のお父さん、いつ帰ってくるのかなあ…』 『…そうねえ…』 『桜の花が、あと何十回か咲いたら』 『きっと……』 「おふくろはとっくに死んじまってたし、頼りになるのは親父だけだったから、辛かったけど…」 (ただ) (あたりまえの生活がしたかっただけなんだ) 「親父が帰ってくるはずない、って。そう悟ったときも、桜を見ていたっけ」 (日々の暮らしが忙しなく過ぎていく中で) (忘れかけていた) (でも、決して忘れることのできなかった事実) (……それが……) 「鵺野先生」 再び玉藻は、その名を呼んだ。 しかし、鵺野はただ、悲しげな表情を湛えているだけである。 玉藻は胸が締め付けられるのを感じていた。 触れてはならない鵺野の心の傷に、無意識のうちに触れていたような気がしたからだ。 鵺野がそうはっきりと表情に出しているわけではない。 むしろ、その傷を覆い隠そうと、毅然と立ち振舞っているではないか。 ……しかしながら。 その瞳が。 紅玉髄の輝石が孕んでいる孤独の大きさを、玉藻は心の奥底で感じ取っていた。 強いて言うなれば、同情や哀惜とは異なった感情で。 鵺野はひとつため息をついて、上着のポケットから何かを取り出し、暗い夜空に掲げて見せた。 それは、赤い、鵺野の瞳に良く似た、丸い小さな石である。 数珠か何かの類のいちぶであろうか。 数珠にしては、少し大きめの磨き込まれたそれは、おそらく紐を通してあったのだろう、穴がひとつ通っている。 良く見れば、無数に細いひび割れが走っており、所々欠けた痕跡も残っていた。 「…親父が帰ってきたんだ」 鵺野はそこまで言ってから、わずかに眉を引きつらせた。 まつげが痙攣したように震え、頬がわなないている。 「…でも…」 声そのものははっきりとした意思をもっている。 「死んだ」 決然と前を見据えたまま、微動だにしないその眼差し。 さらさら、さらさら。 舞い散る花弁は、まるで涙のよう。 「……死……?」 玉藻はわが耳を疑い、その言葉を反芻した。 鵺野を見、そして、握られた数珠を見、そして、再び改めて鵺野を見つめなおし、その表情の奥にある、途方もない悲しみを見つけたような気がした。 「…俺と、ゆきめを庇って、人柱に…」 ことの経過を短く説明して、鵺野は小さくうつむいた。 「結局、こんなものしか手に残らなかったんだ」 鵺野は、掌の内にある紅玉の数珠を握り締める。 「いろいろあって、逃げ帰ってくる中じゃ、こんなものを拾うくらいしか余裕がなくてさ」 泣き笑いのような、その痛ましげな表情に、玉藻は思わず眉根を寄せていた。 「鵺野先生」 「…わかってる」 気力のこもっていない、乾いた笑いを浮かべて、鵺野はそう言った。 「落ち込んでてもしょうがないし、第一おれが落ち込むなんて、全然似合わねぇもんな」 その空元気は、どこからくるのだろう。 玉藻はわが身に起きた出来事のように、鵺野の苦痛を感じ取っていた。 「生徒にこんな情けない顔、見せられないから…ここで頭、冷やしてたんだ…」 「先生!」 玉藻は思わず、叫びにも似た声で、鵺野を呼んだ。 「でも……ッ」 食いしばった奥歯から、嗚咽が漏れる。 鵺野は背を丸め、堪えるようにうずくまった。 「…鵺野先生…」 「だからって、簡単に、『はい、そうですか』って、立ち直れないから……!!」 鵺野の頬に、熱い涙がほとばしった。 「……」 玉藻は何も言えず、そのまま口を閉じた。 かれの名を呼ぶことさえもが、はばかられるような気がしていた。 (春も) (夏も) (秋も) (冬も…) (ずっと、待っていたんだ) (ずっと、呼んでいたんだ……) 美奈子先生がいなくなってからは、彼自身、独りきりで、妖怪と対峙しなければならなかった。 (助けて、誰か!) (お父さん!!) 多くを望んだわけではないのに。 「俺は」 ただ、貧しくても、家族で平穏に暮らせていたなら、どんなに幸福だったか。 (…どんなに…) さらさら、さらさら。 舞い散る花弁は、まるで涙のよう。 「もう、昔のように弱くもない」 左手を握り締め、鵺野はその握り締めた手を、じっと見据えた。 「鬼の手を手に入れて、悪霊を滅する力も手にした。……でも」 (肝心なときに、いつも大事な人を 守り抜くことが出来なかった…!) 『お母さん』 『美奈子先生』 『ゆきめ』 『お父さん…!!』 呼びかけは、届かなかった。 願いは、叶えられなかった。 桜が泣いている。 無限の花弁を、涙をこぼして。 『…鳴介…』 『その雪女と幸せに……』 降り止まぬ、雨のように。 そうして。 春は終わりを告げる。 END |
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■あとがき■ はい、どうでしたでしょうか? 一応シリアスな話のはず…?? 自信は全然ないですけど。 時空パパの話が軸になってるんですが、 本来は漫画で描こうとしてて、コンテまで切っておきながら、 なぜか小説になってしまいました。 時空パパ、結構好きなのになぁ。 あたしは、パパの話と、玉藻の期限の話、かなり引きずってます。 早く千羽鶴も何とかしないとな…。 |
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