last update 2002/09/25
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■ZILLION■
=Wherever,whenever,whatever.=
24000hitsリクエスト小説


 
 
 
 
 
 
 
 
I will follow you , wherever you go.
I will see you , whenever you meet.
I will help you , in whatever way I can.

 
 
 
 
 
 
 
 
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 私は、あなたに多くのものを与えられました。
 
 渇いた心に染み渡る あなたの優しさが、
 幾度となく綿sの支えとなったことを
 あなたは 知る由もないでしょう。
 
 …だからこそ
 
 貴方が征くところには 添い、従いましょう。
 貴方が望むのなら いつでもあなたのために現れましょう。
 私のできうる限り 貴方を支え 救いとなりましょう。
 
 総ては、貴方のために。
 
 
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◇◇◇◇◇◇◇
 
 
 
 
 
 
 
 
 『……』
 霧靄のかかったような、薄明るい空間。上も下もない。
 鵺野は何度かまぶたをしばたたかせる。
 
 ああ、これは夢だ。
 
 妙な体の浮遊感。意識ははっきりとしている。
 夢うつつの狭間、確かにそれが『夢』と認識できるときが、ごくまれにある。
 そのときは決まって、同じ夢を見るのだ。
 
 
 
『気持ち悪ィんだよ!』
 甲高い、子供特有の金切り声。ヒステリックに叫んだ声の主は、小高い土手の上から、何かを振りかぶった。
『死んじまえ!!!』
 何人かの子供が迫り出してくる。はじめの子と同じく、何かを投げつけてくるしぐさで。
『!!!!』
 鵺野は目を瞑る。
 生々しく頭部に走る鈍い衝撃。
 
 ひとつ、ふたつ、みっつ。
 
 そこまで数えて、鵺野は数えることを放棄していた。
 石礫がごろごろと足元に転がる。
 
『やめ…っ!』
 拒絶の言葉を発しかけ、そして。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「―――!!!!!」
 冷や汗が眉間を伝う感触に、鵺野は目を見開いた。
 煌煌と光る白色電球。天井がどきりとするほど白い。
 荒く乱れ打つ拍動。
「ああ、目が覚めましたか?」
 現実なのか、それとも未だ夢なのか、判断しあぐねていた鵺野を、現実に引き戻したのは、聴き慣れた男の声だった。
「…玉藻…、ッ、俺…」
 身を起こしかけた鵺野を静かに制して、玉藻は手にしていた氷嚢の口を金属で留めている。
「はいはい、じっとしていてください。一応けが人なんですから」
 手馴れた様子で鵺野を支えてベッドの角度を調節し、玉藻は困ったように苦笑いを浮かべている。
「10針も縫って、熱も上がってきているでしょう?」
 氷嚢を枕の上に固定すると、静かに鵺野を横たえる。首筋に感じた、どきりとするほどの冷たさに、鵺野は一気に現実に引き戻されるのを感じていた。
 
 …夢。
 
 未だ乱雑に響く心臓だったが、夢と納得したところで、少しずつ落ち着きはじめる。軽く深呼吸をして、いつもの調子を取り戻そうと、額の冷や汗を拭った。
 玉藻は怪訝な表情のまま、じっと鵺野を見据えた。
「…今度は何をやったんです?」
 どうせわかっていますけれど、といったような表情で鵺野を見下ろし、玉藻はため息を吐く。
「ああ、ちょっと妖怪とな…」
 鵺野は言いながら、気丈に微笑んで見せた。
「妖怪やってけても、労災っておりないんだよなー、参るよ、ホント」
 あっけらかんと笑って、話を流す。
「…ははっ…」
 どこか引きつった笑いは、実直な玉藻の眼差しを受けるうちに、掻き消えるようにしぼんでいった。
「…鵺野先生」
 玉藻は眉を寄せ、鵺野をじっと見詰めている。
 思慮深い翠緑の瞳が、魂の奥底まで見透かしそうな獣の瞳が、じっと見つめてくる。
 鵺野は、唐突にこみ上げてきた言い表しがたい感情に、胸を詰まらせた。
 
「…本当は」
 鵺野は玉藻から目をそらす。じっと視線を合わせたまま、自分の今の気持ちを言い表す自信はなかった。
 
「怖いんだよ、凄く」
 鵺野は言う。
「妖怪と対峙するたびに、怯えてる」
「…鵺野先生…」
「もとは『ひと』だったかもしれないものを、この左手で切り裂く度に――」
 鵺野はこぶしを握り締め、小さく俯いた。
「少しずつ、少しずつ、左手の爪先から、血に染まっていく気がするんだ…」
「鵺野先生!そんなことを考える必要は…!」
 柄にもなく感情的に声を荒げ、玉藻は鵺野を見た。
「…いや」
 玉藻を制して、鵺野は静かに囁く。
「考えることは、やめない」
 恐怖に、不安に、そして慙愧に揺れる紅玉髄の双眸を眇め、鵺野は言葉を連ねた。
「考えることを放棄したら、俺は本当に、あの子たちとおなじになってしまう」
「……」
「ただ、恐怖をやり過ごすためだけに、誰かを傷つけてしまう存在に…」
 握り締めた左手が、小さく戦慄いている。
「最後の悪足掻きなのかもしれない。振り切る気力も、勇気もないんだ」
 
 過去を断ち切れない。
 己の無力さを嘆くことさえもできない。
 
「妖怪が、憎いですか?」
 玉藻は唐突に切り出す。
「…」
 鵺野は玉藻を見やり、己の左手を見おろす。
「憎い…?」
 口にして初めて、言葉のもつ意味の重さに、鵺野の胸はずしりと押しつぶされた。
「…憎くない、といえば嘘になる」
 ため息は小さなものだった。
「聖人君子じゃないんだ。俺にだって、憎悪なんかの負の感情があるさ。ただ、ひと括りに、妖怪全部を憎んでるわけじゃない」
 双眸を閉じ、自嘲的に微笑んだ。
「…全部を憎んでた時期も、もちろんあったけれど」
 無駄に強い霊感に悩まされた幼少のころには、妖怪などいなければいいと思ったこともあった。抗う術を持たなかったあのころの自分にとっては、妖怪や霊が、恐怖の対象そのものだったのは確かだ。
 恐怖のあまり、相手を傷つけてまで遠ざけようとしてしまう、あの子供たちの気持ちも、今では分からなくもない。
「結局のところ、俺には何も出来やしないんだろうな…」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 それきり言葉を発しなくなった鵺野は、かかっていた麻酔や発熱のためか、いつの間にか泥のような眠りに就いていた。
 玉藻はそっとため息を吐く。
「……ッ」
 唐突にめまいのようなものを感じて、玉藻はこめかみを押さえた。
 脳裏にフラッシュバックする光景に、思わず吐き気を催す。
 
 …血の海。
 惨劇の跡。
 
 ストレッチャーで駆け込んできた患者は、出血の多さから、顔面蒼白だった。
 病院勤めの自分にとっては、見慣れた光景のはずだった。できれば、見慣れたくなどなかったにしても。
 
『鵺野先生!』
 
 これで何度目か。
 こういった状況で、鵺野が担ぎこまれたのは。
 
 彼の生徒らは言う。常に。
 鵺野は不死身なのだと。彼が妖怪に負けることなど、あるはずが無いと。
 
 まったくもって根拠の欠片さえも見当たらない。その自信がどこから来るものなのか、玉藻自身、教授を願いたいものだった。
 生徒たちは知らないのだ。だからこそ、人の生き死にを易々と口にできる。
 ヒトがどれほど脆く、儚い存在であるかということを、考えたこともないのだろう。
 確かに生徒らからの視点から言えば、鵺野は途方も無く大きく力強い存在なのかもしれない。
 ただ、医者という立場から言えば。
 日に何人もの死と直面している自分から言わせて見れば。
 今ある力強い命のともし火も、明日には消えてしまうほどに、不確かな存在なのだ。
 
 …だからこそ、ぞっとする。
 
 毎回毎回、鵺野が担ぎこまれる度に。
 
 普通の怪我人や病人ならば、さほど不安になることもない。齢400年を超える自分の叡智を以ってすれば、大抵の事は解決できる。
 が、妖怪が関わるとなると、話は別である。
 妖気に侵された体躯は、普通の治療では癒すことができない。一見特に外傷がないほうがたちが悪い。寄生虫のように、内側からじわじわと力を奪うものもある。
 
 恐ろしい考えばかりが浮かんでは消える。玉藻の心中は穏やかではない。
 
 「…せめて」
 玉藻は嘯いた。
 呟きのように。懇願のように。
 「私を呼んでさえくれれば、私はいつでも―――…」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
◇◇◇◇◇◇◇
 
 
 
 
 
 
 
 ふわふわ、ふわふわ。
 
 海にたゆたうような、揺り篭に揺られるような、奇妙な感覚。
 現実感が殆ど無かった。
 
 鵺野は目を眇め、あたりを見回した。
 薄い霧のかかった空間は、どこに果てがあるのか見当もつかない。
 
 
 『死んじまえ!』
 『化け物!!』
 
 吐き捨てられる暴言の嵐に、鵺野は小さくかぶりを振る。
 
 また、だ。
 また、この悪夢の繰り返し。
 
 眼前に広がるのは、見覚えのある川原の土手。
 夕暮れ時、下校途中の小学生の群れ。
 赤や黒のランドセルが入り混じっている。
 
 『妖怪がうつるだろッ!』
 
 投げかけられる石と誹りと。
 気でも触れたかのような、集団ヒステリーと。
 
 ちいさな少年ただひとりに向けられる、暴力。
 鵺野はああ、と嘆息を漏らした。
 
 『痛い、やめてよ!』
 少年はろくに抵抗もできず、ただただ座り込み、蹲った。
 雨あられのように降り注いでくる、誹謗中傷の嵐と、石礫の嵐と。
 『やめ…っ』
 がつり、と鈍い音。
 いずれかの小石が少年の頭部に命中する。衝撃で舌を噛んだ。
 
 同時に、鵺野の口内に、血の味が充満する。
 
 過去の出来事だと、自身に言い聞かせようとしても、感情の濁流は、理性をもみ消してしまう。
 古い映画のように、微かに色あせた過去の映像が、眼前に広がっている。記憶はひどく曖昧で、暴力を加えてきた少年少女の顔など、ほとんど背景に溶け込んで入りがごとく不鮮明だ。
 ただ、感情だけが、掻き立てられ、反響し、増幅する。
 忘れるな、と、己に言い聞かせるように。
 この痛みも苦しみも、忘れてはならないと。
 
 
 『鵺野君』
 微笑む恩師の姿がある。
 『君はこの力のために、酷く虐げられ、傷つくこともあるでしょう』
 薄亜麻色の長髪が風に流れる。
 『人間は酷く弱い生き物だから、他人を妬んだり、恐れたり…心の内に暗い感情を持ったりもするの』
 濡れ濡れと煌く、思慮深い黒曜石の双眸が、ひたと彼を見つめる。
 『でも、それと同じくらい…』
 微笑は、どこかの有名画家の描いた聖母マリア像よりもなお敬虔で尊い。
 『人は強くも優しくもなれるのよ…』
 
 妖蛇に内側から貪られ、魂すらも食い尽くされた恩師。
 『お願い』
 今際の際にさえ、微笑を絶やしはしなかった。
 『…忘れないでね…』
 
 
 
「…忘れる…?」
 鵺野はごちた。独り言のように。
「忘れられるはず…」
 喉が震える。涙が溢れる。
 
 忘れられるはずが、無いじゃないか!
 
 ひとの弱さも強さも、すべてあの人から学んだのだ。
「美奈子先生…」
 耳の奥にこだまする。
 肉の裂かれる音。骨の砕ける音。
 血の生ぬるい臭い。
 ただ逃げるしか方法の無かった、幼いころの自分。
「…どうせなら、俺が…」
 ただ逃げ出しただけで、のうのうと生き延びてしまっている自分。
「俺が、死んでしまえばよかったのに…」
 
 
 
 恩師・美奈子が無くなってから、彼に対するいじめは、酷くなる一方だった。
 美奈子が亡くなったという怒りをぶつけられたこともあるだろう。
 
 ただ、その根底に根深くはびこっていたのは、紛れも無く、彼に対する恐怖そのものだった。
 二者反律。向けられる暴虐は、畏怖の裏返し。
 
 ただひとりの少年に対して、子供たちはよほどの恐怖を抱いていたに違いない。子供ゆえの純粋さや残虐性で、虐待は簡単にエスカレートしていく。
 
 『やめてよ、やめて…!』
 叫び声は虚しく掻き消える。
 
 ずきん、ずきん。
 唐突に激しい頭痛に襲われ、鵺野は頭を抱える。
 
 目の前の情景は、いつ果てるとも無く、繰り返し繰り返し再生される。
 
「い…ゃだ…ッ!」
 喉につまったものを吐き出すように、鵺野は叫ぶ。
 悲鳴のように。
 
 泣いてはいけない。弱さを見せてはいけない。傷を晒してはいけない。
 笑わなければ。気丈に微笑み続けなければ。
 そうしなければ、崩れてしまう。壊れてしまう。
 不安が、恐怖が。
 …心が、あふれ出す…!
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
『鵺野先生…!』
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 呼ばれて、いる…?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「鵺野先生、しっかり!」
 夢にうなされ、もがくようにシーツを握り締める鵺野を揺さぶりながら、玉藻は叫ぶように彼の名を呼んだ。
「…ぅ、ッ」
 小さな呻きがもれるのと同時に、鵺野の双眸から、大粒の涙が溢れ出す。
 玉藻は思わず、ぎくりと強張った。
「鵺野先生!」
 呼びかけに気づく様子もなく、鵺野は低く呻きながら、脂汗を浮かべて、ベッドの上をのた打ち回っている。
 
 何だ、何を見ているんだ!
 
 玉藻は自身の背筋に嫌な汗が伝い落ちるのを感じた。
 妖怪と戦ってできた怪我、と鵺野は言った。
 何か性質の悪い妖怪に、呪いでもかけられたのではないか、などと、嫌な考えが浮かぶ。
「…ッ」
 玉藻は小さく舌打ちすると、白衣の内ポケットから、小さな霊水球を取り出す。
「貧狼巨門隷大…」
 詠唱とともに、神々しいまでの光があふれ出す。
「分曲廉貞武曲」
 苦悶に歪む鵺野の表情も、光の瀑布に呑み込まれていく。
「破軍!」
 
 
 
 
 
 
 
 自身の体重を感じさせない、不可思議な空間。
 玉藻はゆっくりと地面に降り立つ。
 降り立つ、というのが的確な表現なのかどうか、玉藻自身、判断しあぐねた。足元は感触を感じさせない、不思議な素材だ。
 真っ白な空間。どこまでもひと繋がりの空間。果てはあるのかないのか、それさえも分からない。
 どこからともなく、微かな風が吹いてくる。
 その風さえも、温度を感じさせない。
 色も、匂いも、温度さえも存在しない世界。
 玉藻は小さく首をめぐらせた。
 
 妖孤は時として、人の意識を操る。相手の意識を侵略して。
「…応用如何では、相手の深層心理にもぐりこむこともできると踏んだんだが…」
 玉藻はごちて、あたりの様子を伺った。
 
 …と。
 
 ふと視線の先に、見覚えのある人影を捉えた。
 膝を折り、項垂れた青年の姿を。
 
「鵺野先生!」
 玉藻は呼びかけた。
 どうやら、予想していたような惨事はないようだ。どこにも、妖気の欠片すら見当たらない。
「…鵺野先生…?」
 呼びかけに反応しない鵺野に、玉藻は怪訝な表情を見せた。
 
 …様子がおかしい…?
 
 蹲った鵺野の肩に、そっと手を乗せる。
 …震えている。
 
「鵺野せんせ…!」
 呼びかけを、最後まで発することは無かった。
 ふと、白だけだった空間に、スクリーンのように何かの映像が投影される。
 言葉を発するタイミングを失い、玉藻はあたりを見回した。
 
 茜に染め抜かれた、どこかの川岸だろうか。
 
 唐突に別世界に放り出されたような気分の玉藻は、唖然としたまま硬直している。
 
「…す、け…」
 ふと鵺野が声を発する。
「た、すけ…」
 がちがちと奥歯が鳴っている。
「鵺野先生…?」
 玉藻は鵺野の肩をゆすった。
「う、ぁあ…、あアぁッ!!!」
 悲鳴のように鵺野は叫んだ。
「鵺野先生!?」
 玉藻は驚愕し、鵺野の肩を強く揺さぶる。
「鵺…!!」
 弾かれたように、玉藻は面を上げた。
 
 目の前に、小さな少年が佇んでいる。
 顔も体も痣だらけだ。真新しい血の跡も生々しい。
「…!」
 玉藻は射すくめられたように固まったままだ。
 
 一瞬、少年と玉藻の視線がかち合う。
 茜色よりなお紅く、宝石めいた双眸に、玉藻は言葉を失う。
 だが、それも一瞬のこと。
 少年はどこか別の方を見やり、そのまま重たい足を引きずるように歩み始めた。

 玉藻は唐突に理解した。
 これが、鵺野自身の過去なのだと。
 
「…あ」
 しばらく言葉を失っていた玉藻だったが、ふと我にかえったように、声を発した。
 …刹那。
 
「…痛ッ!」
 少年の体が仰け反る。
 何かが飛来する。
 がつり、と鈍い音がする。
 
 よろめき、倒れかけた少年に、容赦なく石礫が投げかけられる。
「……!」
 玉藻は石の投げかけられるほうを見やった。
 
 微かに小高い土手の上。
 草原に、何人かの子供たちがたむろしている。
 
『死んじまえ、化け物!』
 
 浴びせかけられる罵声に、少年は堪らず駆け出した。
『痛い、やめてよ!』
 悲鳴をあげて、走る少年に、石はなお投げつけられている。
 
「…ッ、やめろ!」
 玉藻は叫んで飛び出した。
 少年少女たちに掴みかかる。
 だが、手の届く数歩前に、彼らは霧のように掻き消えた。
「…!!?」
 あたりを見回すが、あたりは最初のころのような、ただの白い空間だった。
 静寂が痛いほどに。
 
「…何なんだ…?」
 玉藻は嘯く。
 
 
『痛い、やめてよ!』
 
 遥か後方で、再び叫び声があがる。
 玉藻は振り返りざま、信じられない光景を目にした。
 
 先ほどまで見ていた情景が、再び映し出されている。
 
 鵺野は相変わらず、じっと俯いたままだ。
 
 
 
「…なんということだ…」
 
 繰り返し。
 繰り返し。
 
 彼は見続けているというのか。
 この、絶望の荒野のような過去の情景を。
 
「…っ、」
 これが、彼の心的障害、トラウマ。
「先生…」
 
 玉藻の呼びかけなど耳に届かず、鵺野はうつむいたきり、顔を上げようとはしない。
 ぽつぽつと地面に落ち、染み込んでいく涙の数滴。
 
 …分かっているのだ、と玉藻は思う。
 彼は絶望しながら、同時にどこまでも単純に理解している。
 理解しているからこそ、過去の自分に手を差し伸べることができない。
 
 過去は過去。
 忘れようとしても、掻き消そうとしても、事実を違えることなど、出来はしない。
 
 ここで、この過去のイメージを打ち砕いて、過去を捨て去ることは簡単だ。
 ただ、それでは何も変わらない。
 何も始まらないし、何も終わらない――…。
 
「…鵺野先生…」
 
 玉藻は呼んだ。彼の魂に届けと願いながら。
 
「目を開けて、前を見なさい、鵺野先生」
 うなだれたままの鵺野の前に方膝をつき、鵺野の顔を覗き込む。
 前髪に隠れ、暗く翳る表情は伺えない。
 ただ、小刻みに震える両肩の頼りなさが、玉藻の心を揺さぶる。
 
 今の彼に必要なのは。
 忘れることではない。消し去ることではない。
 
 乗り越えるための勇気と気力なのだ。
 
「鵺野先生、前を―――」
 
 『――前を――』
 鵺野の胸に、小さく響く言霊。
 
「私は、いつでも、あなたの傍にいますから」
 地面を掴むように、固く握り締められていた拳のうえから、玉藻はそっと自身の手のひらを重ねた。
 びくり、と鵺野の方が揺れる。
「あなたが必要とするのなら、どうか私を呼んでください」
 固く握られていた拳が、氷のように頑なだった拳が、玉藻の手のひらによって、かすかに解ける。あたかも、暖を得た花のつぼみの様に。雪解けの、せせらぎのように。
 
「…辛かったでしょう」
 鵺野の震える手のひらを、両手で包み込むようにうやうやしく支え持ち、玉藻はその手のひらを自身の額に押し当てた。
「あなたの双肩にかけられたものの重さは、あまりにも大きい」
 
「私もともに征きましょう」
「あなたの運命を、私もともに辿りましょう」
 玉藻の告白は、どこまでも真摯で、情熱的だった。
「…どうか、忘れないで…」
 
「…あ…」
 鵺野は見上げた。
 優美な、厳かな、妖孤の眼差しを。
 危険で、残虐で狡猾な闇の者である妖孤。だが今は、どこまでも透明でどこまでも清らかで、自由奔放な、光に満ちた存在だった。
 
 …光。
 
 鵺野の双眸から、とめどなく涙があふれる。
 それは夕日の茜を照り返して、彼の瞳の光彩そっくりの紅玉に煌いている。
 
 見開かれた双眸や、溢れ返った涙のためか、彼はひどくあどけなく幼く見えた。
 彼は今、幼子同然だった。姿形は大人のなりだとしても。
 傷つきやすく、壊れやすく。どうじにどこまでも優しく強い存在なのだ。
 
 いとおしさのあまり、玉藻は彼を掻き抱いた。
 鵺野はされるまま、身をゆだねる。
 撓る背の細さが、玉藻の庇護欲を掻きたてるようだった。
 
 
 「――私が、いつでもあなたの傍に――…」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
◇◇◇◇◇◇◇

 
 
 
 
 
 
 
「お加減はいかがですか?」
 玉藻は言いながら、カップに注いだ水を差し出した。
「ああ、だいぶイイよ」
 鵺野はカップを受け取り、水を啜る。
「でも」
 不意にカップを口から離し、鵺野は言う。
「何か、ところどころ記憶が飛んでるンだよなー…」
「熱が高かったからでしょう。まだ完全に下がったわけではありませんし」
 そういって玉藻は、鵺野の額に張り付いている前髪を整えてやる。
「…何か不安でも?」
「いや…」
 玉藻の言葉に、鵺野は思わず言葉を濁す。
「そうじゃないけど…」
 何か、引っかかるものがあるのは確かだ。
「…大丈夫ですよ、あなたは一人ではない。私がここにいますから」
「何だよ、クサいセリフだなー」
 今時三文小説でも使われないような安っぽいセリフに、鵺野は思わず笑ってしまった。気恥ずかしさをごまかすように、わざとらしく咳払いをする。
 邪険にあしらいつつも、心の奥底ではやはり嬉しさを隠しえない。
 胸の中を駆け抜ける、寂寥感にも似た、甘酸っぱい感じ。
 鵺野は双眸を眇め、玉藻を見上げた。
 どこかで同じような台詞を聞いたような気がするのは、気のせいではないと思いたい。
 
「…鵺野先生」
 玉藻はじっと鵺野を見詰めた。いつにも増して、真剣な面持ちで。
「傷を隠さないでください、先生」
 玉藻は静かに宣った。
「心の傷はね、先生。消せないんですよ」
 普段の彼からは想像できないような穏やかさに、鵺野は思わず面食らっていたが、心地よい語り掛けに、いつしか安堵の眼差しを送っていた。
「それでも、癒すことはできます」
 玉藻の言葉は、心の奥底にしみこんでくる。
 ごく当たり前に、ごく自然に。
「痛みを知り、そして、その痛みを乗り越えるからこそ」
 獣の双眸は、どこまでも限りなく穏やかだ。
「人は強く、優しくなれるのではないですか?」
「…」
 普段とはまったく逆の立場のような物言いだ。
 これまで玉藻は、人間を卑下することはあっても、褒めるといったことは無かったようにおもう。人との関わり合いの中で、少しずつ玉藻に、良い意味での『人間臭さ』が現れるようになったのかもしれない。

 
 『ヒト』に限りなく近い妖孤。
 『ヒト』でありながらも、それとは随分とかけ離れた存在である自分。
 
「珍しいな、お前がそんなこと言うなんて」
「…そうですか?」
 
 玉藻は微笑んだ。
 ただ、たおやかに。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 だからこそ。
 
 
 
 あなたはもっと、強くなれる―――…。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
END

■あとがき
 まったく申し訳ない文章でス…ガフッ(吐血)
 なんだかやたら玉藻がいい人クサイのが、
 疑わしいところですが、ご容赦ください。
 リク小説ですが、まったくもってリクをこなせてナイんですぅ〜
 あっはぁん★
 本来出るはずだった《ZILLION》という同人誌がポシャッたんで
 ここで出してしまいましたが、おかげでタイトルと内容が
 かみ合ってない〜〜〜!ゲフン!
 元来漫画で描こうとしていたものですから、無駄にラブってます。
 ええ、高宮、実は漫画は基本的にラブ、
 小説はシリアスと書き分けてんですね。
 小説で書き表せるものと、漫画で描き表せるものって、
 結構違うんですよね。
 まー、何書いても言い訳に過ぎませんが。

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