last update 2001/04/06
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■朝■
=The speech cheered me.=


■■■■■■■■■








夜毎現れる夢は、
急き立てるように
繰り返し、繰り返し
血の海を作り出す。







■■■■■■■■■





 静寂。




 自分の荒い呼吸が、やたらと大きく聞こえた。眼を見開けば、まぶたに焼きついたかのように明滅する、夢の残光が伺えた。それは目を閉じたところで消えることもなく、いつまでもちかちかと煩わしい。
 ウィルは小さく息を吐いた。何をそんなに緊張していたのかわからないが、呼吸をすることを失念していた。どくどくと心臓は乱雑に脈打ち、拍動に呼応するように、頭痛が走る。
 背中は汗で濡れ、底冷えするような寒さを感じさせた。
 ウィルは身震いしながら、シーツを手繰り寄せた。
 フォーゲラングの夜は、日中と打って変わって、酷く冷え込む。水や緑樹の少ない砂漠地帯では、昼間に上がった気温を保持できない。熱を逃がしやすい岩砂に囲まれた地域であるからこそ、昼夜の気温の差は激しい。
 窓の外に目を向ければ、満天の星が望めた。気温が下がっているせいでもあるだろうが、空気が澄んでいる。掃き散らしたように広がる星々が、ちらちらと瞬いている。
 急に目が冴えてしまった、とウィルは心の中で呟いた。
 気休め程度に寝返りをうってみると、隣のベッドでは、ナルセスが表紙のやたらと厚い書物を手に、何か考え事をしているようなふうていで、どこかわからないどこかをじっと見据えている。
 ウィルのたてたシーツの擦れる音にはっと顔を上げ、ナルセスは手にしていた本をを隠すように閉じた。
「…眩しかったか…?」
 ナルセスは何事もなかったかのようにそう言うと、枕元においてあったランプの火を弱めた。
 だが、ウィルにはそれが何であるか、はっきりと察することができた。
 あの表紙。乾燥に耐えられるように頑丈に作られた、厚手の羊皮紙。かすかに古ぼけた年輪を感じさせる、茶褐色の…。
「父さんは、どんな気持ちでエッグを手にしたんでしょう…」
 ナルセスはしまった、と思いつつもそれを表情に出すことはしなかった。あくまで平静を装ったつもりだが、かすかに眉根が顰められた。
「…さぁな」
 隠していた宿帳を取り出して、ナルセスは何とはなくぺらぺらとページをめくった。日付はサンダイル年期1224年とある。インクはかすかに色を失って灰褐色に似た色に変色していたし、紙も黄ばんでいたるところに、何かの染みのようなものができていた。


 エッグを見つけたこと。
 それを持ち帰るかどうか、考えあぐねていたこと。


 字体は乱雑とは違う崩し方で滑らかにかかれている。まるで草書体のお手本だ、とナルセスは思った。
 年代を見ると、自分がシルマールと共にここを訪れたときよりも、わずかに早いことが伺えた。
「…私がきたときには、もうエッグは持ち出されていたのか…」
 唇のうちで小さく呟くと、ナルセスは宿帳をベッド脇のチェストの上に置いた。その反動で風が起きたのか、ランプの火がゆらゆらと揺れた。
 ウィルはナルセスの声が届かなかったのか、睫毛を伏せたまま言葉を発しない。
 ナルセスは指で目頭を抑えた。薄闇のなか、心許ないような明るさの灯火の光の中で活字を追ったせいか、酷く目がかすんだ。
 幾度目かの浅いため息をついて、ナルセスはあのメガリスの様相を思い浮かべた。


 ヒトの血管にも似た、無限に広がる葉脈のような、薄紫色の筋が無数に走り、中央の台座に集まってきている。
 異様な台座の上に鎮座した、毒々しい鉛箱の中には、何も入ってはいなかった。ビロードのような、サテン生地のような布で裏張りされた箱の中には、何かが入っていたようなへこみもない。
 黴や埃のにおいとは違う、もっと心臓を締め付けるような、異様な臭いが充満し、息を吸うたびに、肺がきりきりと軋んだ。
 今まで訪れてきた、どんなメガリスとも形容が違う。
 ほかのメガリスは、もっと清冽な、怜悧な空気が漂っていた。
 何が違うのか。
 アニマがまったく感じられなかった。
 メガリスからだけではなく、周辺のアニマも乏しいように思われた。草木が生えにくいのは、アニマが不足しているからだろうか、とナルセスは思った。
 それとも、あのメガリスが、アニマを食らってしまっているのだろうか…?
 もっとも恐ろしい考えにたどり着いて、ナルセスは思わず身震いした。もともと、寒さには弱い体だったが、何もそのためだけではない。
 空気は淀み、滞り、腐る。
 風の吹かない地域や、渓谷の奥深くなどは、傾倒的に空気が濁りがちだ。新鮮な空気を補給することもなく、ただじわじわと濁りが増してゆく。
 同じ意味で、砂漠のメガリスも、内包される気質が濁ってしまったのかもしれない。
 アニマの循環のない、妙に密閉された空間の中で、その中の気質はどろどろと瘴気を増したのかもしれない。ただ、あそこまで濁るのに、一体どれほどの年月がかかるのだろうか。

 ひとり瞑想にふけるように考え込んでいたナルセスは、いつの間にか身を起こしていたウィルの姿に気づいた。
 ウィルは生気のない、暗く沈んだ表情で、俯き加減に自分の指先を見つめている。
「…夢を、見るんです」
 小刻みに震える指先を叱責するように握り締め、ウィルは搾り出すようなかすれた声でそう言った。
「父さんと母さんが殺された時の夢です」
 ウィルは感情の篭らない、だがどこか痛ましげな声色で言う。
「もう、長いこと見なかった夢なのに…」
 ナルセスは何を言うわけでもなく、じっとウィルの言葉に耳を傾けていた。
「…あのメガリスに行ってから、思いつめていたことが、どっと押し寄せてきて、無限に広がる荒野みたいに、いつまでもどこまでも、夢に現れてくるんです」
 気丈に目を見開いているが、ウィルの翠緑の瞳は、不安と苛立ちと、何よりも愛惜の念ゆえに、酷く揺れ戸惑っていた。
「真っ赤なんです」
 ウィルは片手で顔を覆った。掻き毟るように爪を立て、何かを必死でこらえているようでもある。
「血の海なんて、知りたくもなかったけれど、僕は確かに、その光景を目の当たりにしてたんです」
「……」
 ナルセスは言葉を継ぐことができなかった。ウィルはいつものとおり、饒舌に話してみせている。
 だが、どこか歯車がかみ合わないようなぎこちなさが拭い去れない。
 無意味な慰めの言葉など、掛けられるはずもなかった。
「赤、というより、もっとどす黒くて、人間の血は、こんなにも冷たくなるものなんだと、変に実感しました。転がっている死体が、両親のものだということは理解しましたけど、どうにも脳が拒絶するんです。モノのように打ち捨てられたようなそれが、両親であるはずがない…と」
 ウィルは泣いていた。
 ただ、とどめようもなく涙を流していた。
 嗚咽を洩らすでもなく、言葉を途切れさせるでもなく。
「朝がきて、僕だけが生きているんです」
 彼の体の中には、深い傷がある。
 それゆえに彼は、言葉をとめることができなかった。
 明けることのない夜のように、繰り返される悪夢がある。
 それゆえに彼は、いかなる慰めをもってしても、癒されることはなかった。




 階下の酒場では、夜を徹しての騒ぎが沸き起こっている。酔いに乗じて声を張り上げて、呂律の回らない口で歌いだすもの、その歌にやんやと喝采が折り重なり、歓声になり、どっと笑い崩れたり。


 だが、その喧騒も、酷く遠く感じられる。


 今ごろタイラーは、振舞われる蒸留酒をあおりながら、夢見ごこちの気分で出来上がっているだろう、と、ナルセスは心の端で思っていた。今のウィルの状態を、他の者に見せるわけにはいかないような気がした。ウィル自身それを望んではいないだろう。
 なぜ、自分にだけ話したのだろうと、ナルセスは思案を巡らせた。
 隣の部屋にはコーデリアとニーナがベッドに就いている。物音もない。こんな夜更けだ。とっくに眠りについているはずである。とりあえずは、他の誰にも見咎められることもない。




 ナルセスはひとつ息をつくと、ベッドから降りて、ウィルの側へ歩み寄った。そのまま、捻じ伏せるように、半ば強引にウィルをベッドに押し倒す。
「ナ、ルセス、さ…っ!?」
「…眠れ」
 そう言ってナルセスは、掛け布をウィルの襟元まで、きっちりと掛けてやった。
「…僕は…」
「いいから眠るんだ」
 シーツの端を整え終わると、ナルセスはウィルの枕もとに腰掛け、掌でウィルの双眸を覆った。
「明けない夜はない。醒めない夢もない」
 そう言うやいなや、ナルセスは唇のウチでそっと呪詛を唱えた。…『スリープ』…と。
 唐突に沸き起こる睡魔に、ウィルは当惑する。必死で眠気に抵抗するように、ウィルは口早に言葉を連ねた。
「こんな話、叔母さんにはとても出来なくて…コーディやタイラーさんに言えば、絶対励ましてくれるだろうし…」
 ウィルは目を覚まそうと、小さく首を振った。しかし、ナルセスの術は、確実にウィルの脳を蝕んでゆく。
「僕は、励ましが欲しいわけじゃ無い」
 まぶたが徐々に閉じてゆき、呂律も回らなくなってくる。
「…みんなが思っているほど、僕は大人じゃない…」
 また涙の筋が走る。
「…子供扱いしてくれるのは、ナルセスさん、だけ、だった…か、ら…」
 ウィルは縋るようなまなざしで指の隙間から見えるナルセスを見、そして真っ黒な天井を見、再びナルセスを見遣った。
「…ただ、ナ、ルセスさん、に、話を、聞いて、欲しかった、ん、で…す…」
 言葉尻はかすれて、寝息と共に唇の内に吸い込まれていった。
 泣きつかれた赤ん坊のように、ウィルは深い眠りに就いた。
 ナルセスは吐息を洩らし、ウィルの頬に走る涙の跡を、服の袖口で拭ってやった。



「…おまえは、おまえ自身が思っているほど、子供でもないさ…」


 窓の外の空はもう、かすかに白みはじめていた。








■■■■■■■■■








 朝が訪れる。
 恐ろしいほど眩しい光を投げかけてくる太陽が、もうだいぶ高くまで上っている。寝過ごしてしまった、とウィルは慌て、掛けられていたシーツを跳ね除けて起き上がった。
 部屋の中は隈なく陽光に照らし出され、どこもかしこもやたらときらめいていた。室内を舞っている微細な埃が、光の中、雪の粒のようにきらきらと散っている。
 朝、というものが、確かに形を成して、目の前にあるように思えた。
 窓の外、さらさらと聞こえるのは、花に水をやっている水音だろうか。
 室内には階下から上ってくる、朝御飯の良い匂い。
 街中の人々の雑談が、木々の葉擦れの音が、そよいでくる風の匂いが…。
 確かに眩しく、活気に満ち溢れ、自分の魂までもが、明るく照らされるような気がした。


「…ウィル」


 不意に掛けられる声。
 ウィルは振り返りざま、酷く胸が熱くなった。
 ナルセスは何事もなかったかのように、いつものようにさっさと身支度を整える。弓の弦の張り具合や、矢尻の数を指差して確認する。

 呆けたようにベッドの上で身を起こしたまま動かないウィルを見やって、ナルセスは言う。
「どうした。もう他のやつらは下で朝食をとっているぞ」


「…あ…」


 ウィルは言葉を失い、ナルセスをじっと見つめた。
 ナルセスも別段気にした風でもなく、ウィルの荷物を手早くまとめている。


「ナルセス、さ、ん…」
「…何だ」
 朝日に良く似た、きらきらと輝く紅玉髄の双眸が、ウィルを見遣る。


 感傷の糸に繋がれて、いつまでも繰り返される悪夢は、あまりにも無意味だった。
 いつまでも、嘆き悲しみ、ただ傷つき叫ぶだけで。
 また性懲りもなく、同じ悪夢を繰り返す。
 ああ、なんてもどかしい!
 こんなことが今の今までわからなかった自分に、少し腹立たしささえも感じた。
 あの巨大な悪の卵を打ち砕くには。
 嘆くだけでは駄目なのだ。
 後悔するだけでは駄目なのだ。



 祈りだけでは足りない。
 誓うだけでは足りない。







「お、おはようございます…」
 ウィルは全身全霊の力をこめるように、そう言った。
 ナルセスはわずかな間黙っていたが、唐突に破顔し、普段はあまり見せないような優しい表情を見せた。


「おはよう」


 その言葉が、自分を悪夢から守ってくれる呪文のように、ウィルには感じられたのだった。















END

■あとがき
■ウィル編『大砂漠のメガリス』直後くらいの話。
 とりあえずウィルに愚痴らせてみたり。
 あんまりナルセスさんって、慰めてくれなさそう。
 そんぐらい、自分で何とかしろ〜!って。
 でもこっそり支えてあげたり。
 などと思いつつ書いてました。

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