last update 2001/03/30
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■微笑みの意味■
=We are wearing a broad smile.=





■■■■■■■■■








昼間はあんなにもひどい言葉で私を傷つけた唇が、
今は意味のないうめきの形に開かれている。








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「ある町に良質のクヴェルがあるという話を情報屋に流したんです。出所が私ですから、情報屋はすっかり信じてました。そいつが海賊の手先なのは、調べがついてます。 これで海賊がその町にやってくる。その隙に私はエッグを探します」
 ウィルは事のあらましを、掻い摘んでナルセスに説明した。その話を聞いた途端、ナルセスの表情が険しくなる。
「ウィル、今の話は本当か?」
 ナルセスは訝しそうに眉を寄せ、ウィルを見据えた。さらさらと癖のない金色の前髪の向こう側、濃い睫に縁取られた緋色の双眸が、威嚇するように煌いている。
「お前どうかしているぞ。海賊は遊びに来るわけじゃない。 その町の人がどんな目に会うと思っているんだ」
 肉親を理不尽に失わなければならなくなることの辛さを、もっとも理解しているのはウィル本人である。
「情報がなくても、海賊はどこかの町を襲うんです。他人を心配するなんて、ナルセスさんらしくないじゃないですか!」
 ウィルは当然のように言い放つ。何の迷いも、ためらいも見せずに。
「私が心配しているのはお前だ」
 ナルセスは冷静に反駁した。ウィルの行動が常軌を逸しているのは明白である。ここにいるメンバーの中で、唯一ウィルに歯止めを効かす事が出来るのは、自分だけだと、ナルセスは充分理解していた。
「その卵が絡むと、お前はまともじゃなくなる」
 実際、親の敵であるアレクセイの所在をつかんだときも、ウィルの精神状態は軌を逸していた。両親の死が、叔母の死が、仲間の一人だったコーデリアの死が、ウィルの心を蝕んでいる。
 ナルセスも充分、ウィルの苦悩を理解しているつもりだった。だからこそ、寄る年波をこらえてでも、ウィルの為に出来うる助力を惜しんだことはない。
 ウィルの宿敵である魔卵【エッグ】の情報を得るために、かつての恩師であり、よき友でもあるシルマール師を紹介したりもした。
「ナルセスさんには関係ありません」
 ウィルの言葉が、ナルセスの胸の奥に突き刺さる。
「こんなときだけ正義漢ぶって、いつものすかした態度はなんですか?」
 普段から人との付き合いは不得手であったため、多少のいさかいは、ナルセス自身、馴れというものがあった。しかし、一端心を赦してしまった相手に、関係ないと、はっきりとした拒絶を突きつけられたことはない。
「いつものナルセスさんみたいに、放っておいてくれればいいんですよ」


 『いつもの』
 『私のように…?』


 確かにナルセスは、一見突き放したかのように相手と接することが多かった。
 だがそれは、あくまで相手のことを信頼しているからであって、過干渉になる必要はないと考えていたからである。


「…お前は以前、人の意見をちゃんと聞くやつだった」
 ナルセスは腹のそこから、唸るような低い声を洩らす。
「タイクーンとか呼ばれて、相当いい気になっているな」
 いくら年老いたとはいえ、稀代の術士といわれたシルマールとともに学んだことのあるナルセスだ。間髪入れず、術力を迸らせ、ウィルを打ちのめすだけの実力は、まだ充分に備わっている。
「来い、ウィル。私が根性をたたきなおしてやる!」
 無言のまま、ウィルは足を一歩進める。
 2人の間には、一種形容しがたい緊迫感が張り詰めた。

「やめろ、ウィル」
 しばらくの間傍観していたタイラーだったが、さすがにこれ以上事を荒立てることは得策ではないと、ウィルを制した。
「ナルセスさんは病み上がりなんだ」
 酒場の中に居たほかの客たちも、何が起きたのかと不穏げにこちらを伺っている。


「ウィル、お前の計画だと、その町を守る役が俺達なんだろう? お前が海賊船に忍び込み、俺たちが街を守る。そういう筋書きだな、ウィル?」
「タイラーさん…」
 ウィルが縋るような視線を向けてくる。いつもの仲間思いのウィルのまなざしだ。だが、どうしてナルセスに対して、あのような暴言を吐いたのか、タイラーには理解できなかった。
「よし、町のことは任せろ! いいな、パトリック、レイモン」
 テーブルに就いて酒を酌み交わしていた2人に、タイラーは声を掛ける。
「了解」とパトリックは片眉をそびやかしてみせ、「もちろん」とレイモンは唇の端に微笑を浮かべた。
「…ありがとう…」
 ウィルは喉に詰まるような声でそう言うと、タイラーに背中を押されながら、酒場の扉を潜った。
 その瞬間、ウィルはわずかにナルセスのほうに眼を遣った。
 ナルセスは立ち尽くしたまま、微動だにしない。
 ウィルは奥歯をかみ締めて、振り払うように眼を背けた。









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 豪雨はさらに強まる一方だった。波は狂ったようにうねり、船は波にもまれるまま、くるくると廻り、だんだんと沈んでいった。
 エッグとその所有者であった海賊の一人は、暗い波に呑み込まれ、そのまま浮かんでこない。折り重なるように覆い被さってくる荒波を全身に浴びながら、ウィルは辺りを見廻した。
 空はどこまでも暗く、時折稲光がちらついている他、明るいものは見当たらない。怒涛のように押し寄せてくる幾重もの波は、空とはまた違った暗さを孕み、深淵のそのまた奥、混沌とした暗闇だった。
「この嵐じゃ、僕も海の底かな…」
 ふと気が緩むと、ぼろぼろと涙があふれてきた。エッグを追い続けてきたこの数年間、涙など、1度も流すことはなかったのに。
「…父さん、…母さん…」
 瞬間、座礁したのか、船体が大きく傾いだ。
 ウィルは船の揺れで、大きく船外に放りだされる。
 宙に浮いている時間が、やたらと長く感じられた。海も、空も、どこまでも広がる、ひとつながりの暗黒の世界。水面は差し招く掌のように、うねり、渦巻いている。


 かっ、と稲妻が走った。
 船のマストが一瞬のうちに炎をあげる。めきめきと音を立てて、帆柱が海面に突き刺さるように落下した。
 火の粉を浴びながらウィルは海にたたきつけられ、一瞬、その衝撃で呼吸が止まった。ざあざあと塩辛い水が覆い被さってくる。上へ上へと浮上していく無数の気泡が、頬を撫でるように通り過ぎていく。
 手足をばたつかせてみるが、水はひどく重く、抵抗を赦さないとでもいいたげに、ウィルの動きを絡め取った。
 ちかちかと空は所々で明滅し、降りしきる雨のように、稲妻が降り注いでくる。
 金色の、切っ先の尖った刃物のように、稲妻は闇空を切り裂き、轟音をとどろかせて過ぎ去ってゆく。
「…ナルセスさ…ん」
 ウィルはふと思いついたようにそう呟いた。


 なるほど、思いついてみれば、ナルセスと稲妻は、似ていなくもない。
 さらさらと癖のない金糸の髪。双眸は紅蓮。雪のように白い頬と、すらりと通った鼻梁のラインは、細身の体とよく調和していた。
 ヴェスティアの酒場で初めて彼の姿を目にしたとき、ウィルは言い表しがたい思いを抱いた。
 出窓のある壁のすぐ傍。カウンターの一番右隅に、彼は悠然と腰を据えていた。そこが彼の定位置なのか、慣れた風にカウンター越しのマスターが、彼のグラスに酒を注いでいた。
 差し込んでくる陽光を照り返した金髪は、夢のように儚く、もろい存在のように見えた。濃い睫に縁取られた瞳は、夕日のような茜色で、グラスを持つ指はやたらと細くしなやかだった。
 服装から術士らしいことは推測できた。
 ウィルはふわふわとおぼつかない足取りで彼に歩み寄った。
「あなたは探索行に加わらなかったんですか?」
 緊張のあまり、呂律が廻らない。ウィルは少し咳払いをした。
「この酒場に来る奴は、みんなクヴェル探しが目的だとでも思ってるのか?」
 彼はグラスを置くと、ウィルを振り返り、辛辣な口調でそう言った。
「そうですね。そうとは限りませんよね。僕はウィルといいます。新米のディガーです」
「私はナルセス、術士だ。クヴェルの探索行に加わるためにここに来た。だが、リーダーが気に食わない奴だった。だからやめた」
「なんだ、やっぱりクヴェルを探しに来たんですね。僕と行ってくれませんか? ナルセスさんは経験も豊富なようだし」
 ウィルは嬉々として、そう提案した。
「ようだ、ではない。豊富なのだ。取り分が半分なら乗ろう。普通は6・4でディガーの取り分が多いのだが、お前は新米だからな」
 ナルセスはそう言うと、空になったグラスといくらかの貨幣をカウンターに置き、立ち上がった。
「よろしくお願いします」
「私にまかせておけ」
 そう言うとナルセスは、唇の端に薄く笑みを浮かべた。
 その姿はまるで、どこかの有名画家の描いた天使のように、美麗で尊かった。


 ナルセスは確かに辛辣な男ではあったが、決して悪い人間ではなかった。まだ年端もいかないウィルの面倒をよく見てくれたし、実際、大人としての風格も備わっていた。あまり多くを語る性分ではなかったにしろ、必要なことはウィルが理解するまで根気よく話してくれたし、パーティの中でも信頼のおける良き先達であった。
 博識で、物事に精通しており、世界のありとあらゆる情報を知り尽くしているようだった。もちろん術士としての腕前も、稀なほど秀でていた。どうして宮廷術士として仕官しないのかと聞けば、人との付き合いがわずらわしいと、一笑にふされた。
「仕官してしまうと、上司を選ぶことが難しい。国のためだの何だのと、守るものが大きすぎる。術士同士で手柄の取り合いになることもあるしな。そんな面倒なことをするくらいなら、ヴィジランツとして気侭にやっているほうが、後腐れがない」
 宮中に仕えることが出来るほどの実力を持ちながら、自由奔放に世界を駆け巡るヴィジランツの道を選んだナルセスの気持ちを、ウィルは何となく判るような気がした。
 術社会である現在、高度な術を使役できる人間はは、ほとんど例外なく、位の高い役職につくことが出来る。だが、それを敢えてせず、ナルセスはいつも佇んでいた。
 酒場の奥。右端の壁際のカウンター。
 黙して語らず、ひとり、そこに居る。
 彼はただ椅子に腰掛け。
 彼はただ群集からひとり隔離されたように静寂で。
 決しておのずから、ウィルの方に声を掛けてこない。
 ただ時の流れを遮るように輝く金糸の髪は、まあたらしいクラウン金貨のように燦然としている。
 そうして、声を掛ければ、いつもの調子で、辛辣な言葉を紡ぎながら、満更でもないような、はにかむような微笑を洩らす。
 そうして当然のように、当たり前のように傍らに居て、いつも見守っていてくれる。厳しい口調のなかに、どこまでも深い思慮が隠されていることを、ウィルは充分理解していた。


『私が心配しているのはお前だ』
 紅玉色の双眸でこちらをひたと見つめ返してくるナルセスの面差しに表れているものは、絶えずウィルを翻弄した。敢えてこの感情に名前をつけたとしても、それはあまりにも軽い意味合いしか持ちはしないだろう。その感情のより深い部分にあるその感情を、ただ覆い隠すほか役割は無い。
『…お前は以前、人の意見をちゃんと聞くやつだった』
 だが、言葉にならないまま、ナルセスの眼や唇から直接放射されるものこそが、ウィルの心を抉り、切り裂く。
『来い、ウィル。私が根性をたたきなおしてやる!』
 ナルセスのそんな鋭さのわけを、ウィルは自分の中に探そうとするが、すでにその勇気すらも失われている。
 ウィルは思う。自分は、ただの一塊の土くれのように、身動きもできずに、ただ風化し、崩れゆくのみなのだと。


『こんなときだけ正義漢ぶって、いつものすかした態度はなんですか?』
 ああ、あんな酷いことを言わなければよかった、と、実際そんな仮定が出来る状況であったがために、ウィルは心のうちで、過去を消し去ろうと努力する。
『いつものナルセスさんみたいに、放っておいてくれればいいんですよ』
 ざあざあと覆い被さってくる波が、頬を打ち据える感覚。
 眼を瞑っているからといって、その感覚がなくなるわけではない。
 どうせなら、あのままナルセスに殴り倒されてでもいれば、少しは気が晴れていたのだろうかと、ウィルは思った。
 荒波は身体中から体温が奪われてゆき、感覚が麻痺してくる。
 眼を瞑っても、消え去らない感覚…。
 それは過去も同じだ。
 どうせなら上手に後悔をしようと、ウィルは何度も心の内で謝罪の言葉を反芻した。しかし、このまま、暗く深い闇底へ沈んでゆく身にとって、それはどれほど意味のないことだろう?
 ナルセスとのかけがえの無い、壊れやすい信頼関係を裏切った自分。
 繰り返し、繰り返し、身に降り注いでくる波が教えてくれる。
 ただの一度も、本当に繰り返して起こる事象はないということ。
 やりなおしの効かない、現実だということを。
 言葉も何もなく、ただひたすら叫ぶことで、今の思いをナルセスに伝えることが出来るのなら、いつまでも慟哭しながら耐えることもできるというのに。









■■■■■■■■■








 ナルセスは船室の中、あつらえられた椅子に浅く腰掛け、苛立ちを隠せないかのように、何度もせわしなく視線をさまよわせた。
 部屋の中に備え付けられている暖炉には、大量の薪がくべられ、真っ赤な炎をあげて燃え盛っている。室温は蒸し暑いほどまでに上がっていたが、ナルセスの指先は、氷のように冷えきっていた。額に浮かんでいる脂汗は、高い室温のためではない。
「…ナルセスさん…」
 タイラーが気遣わしげに声を掛け、グラスに注がれた水を差し出したが、ナルセスは小さく首を横に振った。
「でも、何か口にしないと…。ナルセスさんの方が、先に参ってしまいますよ…?」
 身体もかつての全盛期のころに比べれば、幾許か痩せ衰え始めていた。術を使い過ぎてしまったためか、体は酷く気だるい。
 タイラーは心配げにナルセスを見つめていたが、しばらくして諦めたように、近くにあった卓に就いた。
 ナルセスは小さくため息をついてから、額の汗を拭い、掌で頬を擦った。
 タイラーが心配するほど、自分は蒼白な顔でもしているのだろうか、と、自嘲的な笑みが浮かぶ。
 薪の爆ぜる音が、いやに大きな音で、部屋に響いている。揺らめく炎は、部屋の中に居る人間の顔を舐めるように照らした。どの表情も、沈痛な面持ちである。
 山のように盛られた食事や酒も、誰もほとんど手にしないため、もう冷めきってしまっていた。
「すまん、ナルセス。我々がもう少し早くここに来ていれば…」
 苦虫を噛み潰したかのように表情を歪めた長髪の男…ネーベルスタンが、重々しい口調でそう言った。
「…いや…」
 今回のことが誰のせいでもないのは、ナルセスにも良く解っていた。
 むしろ、救助されたことの方が奇跡に近い。


 目の前のベッドに横たえられた青年…ウィルの青白い顔を見つめて、ナルセスは、もう幾度目なのかわからないため息をついた。
 室温を上げても、一向にウィルの身体は温まらない。
 嵐の中、海に投げ出された衝撃で、身体中には痣が出来ていたし、水温の低さから、脱水症状を引き起こしていた。
 ほとんどの傷は、ナルセスの生命の水の術で治すことが出来たが、如何せんウィルの怪我や症状が重過ぎたため、どうしても術だけでは完治させることは出来なかった。
 ウィルは苦しげに唇の端を歪め、浅い呼吸を繰り返している。


「…せめて」
 ナルセスはうつむき加減になりながら、吐き出すように言った。
「…一言でも相談してくれれば良かったんだ…」
 そうすれば、あのような嫌な別れ方をせず、こうして、嫌な再会をすることも無かったろうに。
「そう言っても、作戦は秘密裏に進めなければならなかったんだ」
 ネーベルスタンは言った。
「お前やタイクーンが、いくら朋友とはいえ、情報を洩らすことは危険だった。どこの誰が聞いているのか解らない…。確かに、お前に相談すれば、こんな事態は免れたろう。賢明なお前がついていればな。だが、事は国の軍事力を使役した、立派な侵攻だ。国家が動いていると知れば、海賊は警戒する」
 タイラーやパトリック、レイモンも、暗い表情のまま、ネーベルスタンの話に、じっと耳を傾けていた。
「タイクーンの辛い立場も解ってやってくれ」
 ナルセスはうつむいたまま顔を上げない。
 ただ、小さく呼びかけた。彼の魂に届けと願いながら。
 『…ウィル…』と。









■■■■■■■■■









 ゆらゆら、ゆらゆら。
 横たわった体は、ゆりかごの上にいるように、一定のリズムで揺れていた。


 霞み掛かったように、辺りはおぼろげにしかうかがえない。
 遠くからひとの話し声が聞こえるような気がした。
 どこか懐かしい、耳に心地よい声色だ。
「…ィル…」
 肩をつかまれ、かすかに揺さぶられる。焦点の合わない目を凝らしながら、ウィルは、その人物の方を見据えた。
「…判るか、ウィル…?」
 その声は水の皮膜の向こうから聞こえてくるようにちいさく、かすれて頼りなく聞こえた。ウィルは腕を動かそうと試みたが、全身がだるく、どこに力を入れても、まったく動かせない。指先さえもが、鉛のように重い。今出来る精一杯の動きは、呼吸と瞬きくらいだ。
「まったく、いつもお前は…」
 声の主は小さく舌打ちすると、ウィルの額に手を翳した。
 淡い、暖かな光が辺りを照らす。心地よさに身を任せるように、ウィルは瞼を閉じた。
 全身を巡る血潮が、ふつふつと熱くなる。心音が、せかされるように速くなる。冷え切っていた掌に、熱い血が怒涛のように広がり流れると、かすかにくすぐったいような感じがした。頬が高潮し、頭が少ししびれたようにじんじんとした。だが、それは決して不快な感覚ではない。


 ああ、これは『生命の水』…?。


 ふと心あたりのある術の名前が思い浮かんだ。
 掌が退く。
 はっきりとした視界。
 心配げにこちらを覗き込む、その顔。
「…ナルセスさん…?」
 ウィルは掠れる声を絞り出して、かすかに咳き込んだ。
「どうしてこんな無茶をするんだ」
 ナルセスはそういいつつも、安堵のほうが大きいのか、叱責するような口調ではなかった。
 横たえられていた寝台は豪奢な造りだったが、派手さはあまり感じられない。片手をついて身を起こすと、部屋を一望することが出来た。ナルセスの後ろ側、いくつかの人影が見えた。
「気ィついたか、ウィル坊!」
 駆け寄ってきた男を見て、ウィルは微笑を洩らした。
「タイラーさん!」
「ったくよー、運良くネーベルスタンさんの船が拾ってくれたからよかったものの、お前、海に放り出されてたンだぞ!」
 言われてから初めて、ウィルは自分の置かれている状況を理解することができた。
 エッグを葬るために海賊船を沈め、自分もまた海の藻屑と消え去るはずだったことを。
「いや、ご無事で何よりです、タイクーン・ウィル」
 ディガーの最敬称であるタイクーンの名で呼ばれ、ウィルはその声の主の方を見やった。
 幾つもの戦いを乗り越えてきたものだけが有する特有の雰囲気というか、気迫のようなアニマを発する長身の男が歩み出た。
「あなたのおかげで海賊共を一掃することが出来たのは、こちらとしても好都合ではありました。しかし、自分の命を粗末に扱うことは、あまり誉められるべき行為ではないでしょうね」
「お前には言われたくないぞ、ネーベルスタン」
 ナルセスは長身の男を一瞥し、小さく伸びをした。
 その折、ちょうど船室のドアが開いた。
「ああ、気がついたのか」
 甲冑に身を包んだ男が、言いながら後ろ手にドアを閉める。
「街のほうは無事だ」
「ギュスターヴ様!」
 入り口辺りで悠然と佇む騎士を見て、ウィルは跳ね起き、ベッドからまろぶように降りた。足がもつれ、よろめきかけたところをタイラーが支える。
「ああ、起きなくていい。体に障る」
 ギュスターヴはウィルを片手で制して、ナルセスのほうに向き直った。
「お手数をかけました、ナルセスさん。ハン・ノヴァまで行けば、宮廷術士やシルマール先生に頼んで、タイクーンの傷を癒すことも出来たのですが、彼の様子から、早急な手当てが必要でした。船に待機させていた術士では、少しばかり役不足でして、そこでタイラーの提案であなたのもとにこうして、参じさせていただきました」
 年上の者に対する礼儀からか、普段のギュスターヴの高圧的な態度とは打って変わった、穏やかな物腰である。
「あの街からは、地理的にもハン・ノヴァよりヴェスティアが近かったので。それに、シルマール先生と共に旅をした方なら、かなりな術士だと確信していましたから」
「こちらこそ」
 ナルセスは深く頭を下げる。
 一国の主であるギュスターヴに対する、正当な態度であろう。
「ウィリアム・ナイツの無謀な策に御助力を頂いて…。貴殿の御力添え無くしては、今回の策は、成し得なかったでしょう」
「頭を上げてください、ナルセスさん。私がシルマール先生に叱られます」
 ギュスターヴはそういって微笑むと、年齢に比べて無邪気な表情を見せてきた。
「これでも結構、今回の戦闘を満喫したんですよ」
「陛下は玉座に腰を据えて、資料と奮闘するよりも、戦地を駆け巡るほうが性に合っているようですからね」
 ネーベルスタンは改めて納得したように、ギュスターヴにそう言った。
「それは言わないでくれ、将軍。肩身が狭くなる」
 ギュスターヴはそういいながら、ふと思い出したように室内に集まっていた人間を促した。
「ああ、そろそろ祝宴を挙げようと思って呼びに来たんだった」
 指で隣の船室を指し示す。
「よろしければ諸君、ささやかな宴の席に集っていただけるかな?」
 言うが早いか、ギュスターヴはタイラーたちを促して部屋を出る準備を始めていた。何やら気でも合うのか、ひどく親しげなそぶりである。
「タイクーンには消化にいい食事をお持ちしましょう」
 ネーベルスタンはそう言って、戸口に控えていた衛兵を調理室へ遣わせた。
「ナルセスはどうする?」
「私は、いい」
 ネーベルスタンの誘いを断って、ナルセスは近くにあった椅子に腰掛けた。
「もともと人の集まるような場所は、それほど好きではないからな」
「…そうか」
 ナルセスの性格を熟知しているネーベルスタンは、拍子抜けするほどあっさりと引き下がる。部屋に残っていた他の人間を促して、部屋から出ていった。





 今までの喧騒が嘘のように室内は静まり返る。
 ナルセスは何も言わず、ただ腕を組んだまま椅子に座り、微動だにしない。
 ウィルもまた、何も言い出せずにいた。
 ナルセスの顔を直視することも出来ず、視線をさまよわせる。
 隣の部屋からは、笑い声や歓声が響いてくる。だがそれも、なぜかひどく遠い世界の出来事のように、ウィルには感じられた。
 沈黙はひどく息苦しく、重たかった。
 お互いの呼気の音さえも聞き取れるほどに。
 寝台の脇に置かれたランプの灯心から、ちりちりと焦げる音が聞こえてくる。


 …と。


「…何故、ギュスターヴ公の事を云わなかった」
 ナルセスは瞼を伏せたまま、独り言のような嘯きを洩らした。
「云っても私が納得しないと、そう思ったからか?」
 穏やかな、諭すような口調だったが、いつものナルセスの覇気はこもっていなかった。
 ウィルはしばしの間、逡巡した。その沈黙を肯定の意味に取ったのか、ナルセスは自嘲的な笑みを浮かべた。
「まぁ、私の性格からして、お前がそう思うのも仕方が無いとは思うが…」
「違います!」
 ウィルは叫ぶように否定した。その声の大きさに、自分自身で驚いたように、すこし咳き込んで誤魔化した。
「…違うんです…」
 いつしかその声は、嗚咽が混じり、何とも弱気な、力のこもっていない声色と化していた。
「本当は、ナルセスさんにも、タイラーさんにも、本当のことを言おうと思っていました。でも」
 涙が溢れ出し、視界が潤んで、ウィルは何度か瞬きをした。その拍子に何滴か雫が零れ、シーツに染み込んでいった。
「ナルセスさんに『海賊は遊びに来るわけじゃない』って云われたときに、すごく胸が苦しくなって…」
 胸のつかえを吐き出すように、ウィルは言葉を連ねた。
「そんなことは、最初から判っていたし、だからこそギュスターヴ様に援助を頼んだのに、例えそれが万全な守備を配置したとしても、やっぱり何処かで誰かが傷つくかもしれない事実を改めて痛感したら、自分のしていることが絶対正しいことじゃないから、ナルセスさんに話ずらくなって…」
 両手で顔を覆い、ウィルはとうとう嗚咽を洩らした。
「何を言っても、どんな万全な作戦を立てても、結局、ただの都合の良い言い訳になるから…」
 ナルセスは無言のまま立ち上がり、ベッドの脇、泣き崩れるウィルの傍らにひざをついた。
「当然のように続くはずだった日常を奪われる悲しみも怒りも、僕が一番わかってるはずなのに、僕は、…僕は…」
「ウィル」
 ナルセスはささやくようにそういうと、自身の顔を覆っているウィルの両手の上に、自分の手を乗せた。やさしい仕草だったが、勇気づけるように力強くもあった。
「お前を責めるつもりで、こんなことを云っているわけじゃない」
 そう云ってナルセスは小さく笑った。
「『お前は以前、人の意見をちゃんと聞くやつだった』なんて云ってしまったがな」
 少しさびしそうな表情を浮かべ、ナルセスは云った。
「お前が裏で、こんな画策を施していたことを聞いて、お前が人の意見を聞かなくても、ちゃんと自分で考えて、最良の行動をできる人間になっていたことに感心したんだ」
 ウィルの指が微かに震え、指の隙間から、うめきのような声が洩れた。
「ごめん、なさい…」
 消え入りそうなほど小さな声で、ウィルは懇願のような謝罪をする。
「『いつものナルセスさんみたいに、放っておいてくれればいい』なんて云って…。本当はあんなこと、言うつもりじゃなかったのに…」
 世界的人物として名を馳せるタイクーン『ウィリアム・ナイツ』…。
 普段の穏やかな物腰や威風は、今のウィルから、微塵も感じられなかった。今あるウィルの姿は、泣き縋る子供のそれである。
「……ご…めん…なさ……」
「…ウィル…」
 ナルセスは、ウィルの肩をそっと抱いた。
 肌を合わせてみると、見ていた限りでは判らなかったが、ウィルの震えが、じかに伝わってくるのが判った。
「…ナルセスさんが、僕のことを放っておいたことなんて、1度だって無かったのに…」
 ナルセスは子供をあやすように、ウィルの背をさすった。
「いつだって、ナルセスさんは僕のことを考えてくれてたのに」
 ウィルは抱きしめてくるナルセスの肩口に顔をうずめ、啜り泣きを洩らした。
「自分の身を削ってまで、僕のことを助けてくれた事だって、何回もあったのに…」
「ウィル」
 ナルセスは、その名を呼ぶ他、ウィルに声を掛けることを憚られているような気がした。ただ、その名を呼ぶことが、少しでも慰めになればと、ウィルの名を呼びつづける。うなだれるように肩に顔を寄せてきているウィルの頭をそっと撫でる。指先で少し癖のあるウィルの髪を梳りながら、ナルセスは瞼を伏せた。
「…ごめんなさい…あんな酷い言い方をして、本当は…あんな風に、ナルセスさんを傷つけるような事を言うつもりじゃ…」
 ウィルは自分で言ったことに傷ついたように、いっそう声を震わせた。
「ウィル、もう、いい…」
 そんな陳腐な慰めの言葉が、ウィルを癒すことが出来ないのは明白だったが、ナルセスはそう言わずにはいられなかった。
「…判ってる。ちゃんと、判ってるから…」
 今朝方、暴言を吐いた青年とは思えないほど、ナルセスにはウィルは小さく、幼く見えた。暴言を吐くことで、吐かれたナルセスよりも、吐いた本人であるウィルのほうが深く傷つき、苦しんでいる。
 天井に眼を向けると、所々点々としみている雨漏りのよな、潮の染みのようなものが見られる。格子窓から見える星空は、先ほどの嵐とはとはうってかわって穏やかである。散りばめられた星々に負けないほどのにぎやかさで、隣の部屋からは歓声があがり、ざわめきが絶えないが、2人を紛らわすほどのことでもなかった。
「……」
 ナルセスはそれ以上を語らず、ただ抱きしめる腕に力を込めた。
 言葉でウィルを慰めることがで見ないと良く解ったからこそ、彼はあるだけの力を込めるように、それが伝わるように抱き竦める。それがウィルに触れるただひとつの方法で、それでもウィルの心を穏やかにすることは出来なかった。
 ナルセスは、自分にもせめて流せる涙が、ひとしずくでもあればいいと願った。そう願ったとき、ナルセスの脳裏には、閃光のように、ウィルと共有してきた時間の思い出が、浮かんでは消えて行った。


 そのときナルセスはにわかに気づいた。
 自分たちを隔てているのは、こんなにも薄く、こんなにも乾いた自分たち自身の皮膚なのだと。
 眼は星の輝く闇空を見、耳はウィルの啜り泣きを聞き、自分はこの静寂の一部であるかのように、薄闇の中に溶け込んでしまっているのに、そう思ったとき、何故だかナルセスは底知れず優しく豊かな気持ちになった。
 ナルセスはゆっくりと、そっと、ウィルの掌を掴んだ。強固な仮面のように、顔に貼りついているかのように思えたウィルの両手だったが、それは以外にもあっさりと外れた。
 あたかも、暖を得た春の野花の開花のように。
 泣き濡れたウィルの頬を、ナルセスは服の袖口で拭ってやる。
 僅かに赤く腫れた瞼は、痙攣しているかのように、ぴくぴくと細かく震えていた。


 ナルセスは微笑んだ。
 こうしてウィルの傍らに寄り添って、彼の呼吸の静まるのを待っている間、この尊い静寂の中から、何を言い出すことができようか。
 ウィルは幾度か瞬きをして、目尻に溜まっていた涙を散らせた。
 気丈に唇を微笑ませる。
 ウィルの頬に微かに浮かぼうとする微笑。



 …お互いの頬に浮かぶ微かな微笑み。



 その意味は、問えば失われてしまうだろう。












END

■あとがき
■ナルセスさんの超かっこいい見せ場
 『ウィル対エッグ』を元にしたお話です。
 んもー、ナルセスさんがマジで怒る姿が絶品…ほぅ(ため息)
 ウィルも普段大人しくて(?)聞き分け良いくせに、
 この時だけやたらとナルセスさんに反発しやがって…。
 くゥ〜〜ッ、もう、ある意味痴話げんかのようで…ウフフ〜。
 しかしまぁ、とりあえず暴言吐きまくりだったウィルが、
 ナルセスさんに謝るシーンってのが、
 ゲーム中出てこなかったんで、
 今回謝らせました。
 ウィルは息子(リチャード・ナイツ)
 の面倒まで見てもらってるんだから、
 たぶん2人はどっかで仲直りしてたんでしょうがね…。

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