血涙玉秘話


 

自分を醜い醜いと連発する「面白くない相手」との戦闘の後、志波岩鷲は自分の荷に残った砲弾を頭の中で数えながら、過去のつまらない思い出を反芻していた。

 

 

「なあ岩鷲。お前もひとつ砲弾でも作ってみねえか?」
姉・空鶴に初めて持ちかけられたのは数年前。
花火師である姉の火薬庫に近付く事は長い間御法度であったし、いくら頼んでも打ち上げの場に立ち会う事すら許されなかった。
例え口実を作ってその中を覗こうとした所で
「ガキの来る所じゃねえ」
と、文字通り一蹴し不貞腐れる弟を無視して背を向け、戸を固く閉ざしてしまう。
その日もまた余りに見慣れ、聞き慣れた拒絶を受け入れようと身構えた瞬間、姉は唐突に弟に火薬庫へ入る事を許した。
岩鷲にとってそれは僥倖であった。長く子供扱いされた自分が初めて一人前と認められた様で誇らしかった。
「おい、何やってんだ」
長く許されぬ間に上背だけが伸び、憧れ見上げ続けた火薬庫の戸の梁は、既に少年期を過ぎようとしていた岩鷲の額を直撃する。軽く舌打されるが、舞い上がった気持ちには届かない。
初めて入る姉の火薬庫は、そこここに材料の瓶が所狭しと並べられ、壮観であった。
「まあ、最初は火薬の名前を覚える事から始めろ」
好奇心からあちこちに手が伸びようとする弟の手の甲を手刀で叩き落としながら、空鶴は事もなげに言った。


二ヶ月もすれば火薬庫にも慣れ、拙い手付きながらも助手としての働きをある程度こなせる様になる。姉からの叱責は既に慣れた。元々外見の無骨さに反して岩鷲はそれほど不器用ではない。
そんな矢先であった。
―――――姉が調合台の上に残して行った一枚の調合メモを見つけたのは。

まだ姉の目の届かぬ場所での調合は禁じられている。
しかし、誰にでも最初はある。物事に始まりはある。
目の前に「それ」が置かれていた事そのものが、岩鷲に与えられた「天からの機会」に思え、夢中でメモを読み、空鶴印にて封印された瓶から材料を取り出した。
その砲弾の名は「血涙塊(けつるいこん)」。
唐辛子の配合を増やし、敵の目潰しをする催涙発煙弾であった。

火薬を調合し、素手で大量の唐辛子を剥いてすりつぶし、混ぜて固めるだけでかなりの汗が出た。間違ってその指のまま汗にしばたく目を擦り、その痛みに飛び上がり、それでも夕方には歪ながら立派な砲弾がひとそろい完成した。
初めて姉の手を借りる事なく完成させたそれを、唐辛子の滲みる血走った目で何度も表にしたり裏にしたりして眺め、大切に布にくるんで懐に仕舞う。その日の岩鷲は得意の頂点であった。
明日、これを見せた時の姉の顔を思い浮かべてみる。
「ガキはすっこんでろ」が口癖の姉がぽかんと口を開け、その顔がやがて少し切ない優しさを含んだ女の顔になり―――――
岩鷲は幾度も反芻した空想をなぞる。
若くして消えた兄貴が開けたままのこの家の風穴を、俺が大人になって塞いでやる。
天才と呼ばれた兄貴以上の男になって、姉ちゃんを守ってやる。
よくやったな岩鷲、お前ももう一人前だな
そう言って笑う姉の目に光る涙。
何故か陳腐な想像はいつも、悪夢のように奇妙な結末を齎す。
兄のように、父のように抱き締めた筈が、姉の乳房を胸のあたりに感じた時、岩鷲は夢中でその唇を探って吸い、柔らかい腹に勃起した一物を押し当てている。
岩鷲にとって母であり、父の役目をも引き受け、兄すら吸い込んで君臨する姉とは、もしかするとそういう理不尽な感情をも含んだ少し疚しい存在なのかも知れない。

岩鷲は調合台を元通りに片し、火薬庫を閉じ、奇妙な昂揚とどこか後ろめたい気持ちを抱えたまま、夕食の膳の席に顔を出した。
―――――
赤い顔をして目を合わせない弟を、姉が薄笑いを浮かべて見下ろしている事にも気付かず。


やがて真夜中、オブジェも麗しい住処を震わす叫びが起きる事。
志波空鶴にとっては全てがお見通しであり、悪質なまでの悪戯であった事を、幼く自恥に塗れる程度に清らかな弟は身をもって知る事になる。

股間を押さえて転げる岩鷲の尻に空鶴は一発蹴りを入れる。
「オレの言いつけ守らずに火薬庫で何してやがった! そろそろ何かしでかす頃だと思って罠を張っておけば、こっちの思惑どおり簡単にかかりやがって! そいつは『別名・血涙玉』ってな、大量の唐辛子が手の皮膚に染み込んで三日は落ちねえ。粘膜に触れりゃ腫上がる、目なんか擦りゃあ一発で血涙が出る、作り手泣かせの砲弾なんだ」
ひりひりと熱を持つ「其処」に歯を食いしばり、恥ずかしさも手伝って涙をだらだらと流すまま言葉も出ない。文字通りの「血涙玉」と化す局部は腫上がって暫く劣情を感じる事もなかろう。
「ったく、このバカ… 早く風呂へ行って冷たい水で冷やして来い」
姉の声は蔑みから、呆れ果てた調子へと変化する。
しかし、布団に脂汗を浮かべた額を擦り付ける弟・岩鷲には、その声がどこか懐の深い優しみを称えているようで、少し違う涙が出た。

 ねえちゃん、ごめん

それが岩鷲にとって、姉への奇妙なコンプレックスを越えた瞬間であったのかも知れない。

 

 

「いたぞぉ、こっちだ!」
「げ、来やがった!」
塀の向こうから黒衣の集団がこちらに向かって押し寄せて来るのに気付き、岩鷲は慌てて荷の紐を結び直して飛び上がった。
さっきの戦闘で付けられた背中の傷を構う暇は無い。そのうち勝手に血も止まるだろう。
土埃を上げてこちらへ向かって来る形相に向けて、腕に擦りつけて発火させた「それ」を投げつける。足下に転がり、軽い爆発音に続いて上がる煙が煙幕となる。
涙を流して咳込む黒衣の男達を置いて塀を越え、岩鷲はまた回想し、ひとり笑う。

 泣いて喜べ
 こいつは俺様の手作りの特別製よ

追う人数と怒号は増える一方で、塀の向こうに別れた仲間の呼ぶ声がした。
岩鷲は振り返り、それに応える。
「一護、ここだ!」

まだ何も始まってはいない。
まだ何を知ってもいない。
岩鷲は全てをその皮膚で理解したいと思う。
あの、血涙塊にまつわる間抜けな事件のごとく、大バカ者の自分にはそれしかない。
追う黒衣の死神達を引き連れる様に角を曲ると、その先はまた同じような壁面に囲まれた路地であった。


瀞霊邸侵入より数時間。

彼はまだ入り組んだ迷路のような道を、まっすぐに走り続けている。

 

 

                        ―――――終



後書:
少し前の『探偵ナイ@スクープ』で中華の料理人さんが「唐辛子を剥いた後にその辛味成分が手に染み込んでしまって、WCで●●●を掴んだ後、シミて大変。どうしましょう」って持ちかけてた相談が元になって升。
そんな間抜けネタを岩鷲にフッてしまう自分の業は深い(血涙
ちなみにその辛味成分を中和するモノとしては「コーヒー」がよいそう。逆に「酒」はもっての他だそう。
空鶴ねえさんなら「酒で洗って来な」くらい言いそうですが。