魅惑テンプテーション
川辺付近の小さな丘に座り込んで、一人の若い仙人が釣りをしていた。
その表情は楽しんでいるものではなく、ただただ無表情だった。
よく見ると仙人が手にしている竿の先に付いている針は、曲がってはおらず真っ直ぐなままだった。当然、魚は食いつかない。それでも仙人は水面に垂らし、釣りをする真似をしていた。
「坊や。魚も釣れぬ針で釣りをして、楽しいか?」
釣りをしていた仙人の後ろの方から、どこか冷たい落ち着いた女の声がした。
声の主を知っているのか、振り返らずに仙人は返事をする。
「何用だ、女カ」
女カと呼ばれた女は、無言で釣りをしている仙人に近づいてきた。辺りは暗く、表情が読めない。
しかし彼女から発せられる雰囲気は、圧倒的な威圧感があり、ただ者ではないと即座に判明する。
「相変わらず可愛げの無い態度だ」
「…………して、状況はどうなっている?」
「つれないな」
クスクス笑いながらも、女カは偵察についている曹操について話し始めた。思った以上に一筋縄ではいかない相手だと思う。
「なかなか面白い男だ。もしかすると、私の考えを見透かしているかも知れぬ」
「……フッ、落ちたものだな」
少し仙人がからかうと、女カの声はさらに冷たく低くなった。
「…………。坊や、今すぐにでも塵にしてやるぞ?」
仙人は押し黙り、それから二人の会話に間が空いた。
「だが安心しろ。全ては計画通りに進んでいる。……今はな」
「我らの計画が狂うと思っているのか?」
仙人――――太公望が怪訝そうに眉頭を寄せて言った。
全ての計画は絵に描いたように進んでいく、そう思っていたからだ。そして何より女カからそういう言葉を聞くとは思いもしなかった。逆に不安になるではないか、と太公望は思った。
「坊や。一つだけ言っておいてやろう。お前が思っている以上に人間は力を持っている。妲己もそれを知っている。……もしかすると手こずるかも知れぬという事を、頭に入れておいた方がいい」
「馬鹿な事を言うな。私の知謀にかかれば、簡単に片づく。……さては女カ。人の毒気に当たったか?」
自信たっぷりに、そして最後は皮肉たっぷりに太公望が言うと、女カはわざとらしい聞こえるような溜め息をついた。癪に触ったのか、太公望は鼻を鳴らして河の方へ視線を戻した。馬鹿にされたようで面白くないのだ。
「何イライラしておるのだ」
「……何でもない」
二日前に出会った劉備とその仲間――――。
利用せんと近づいたはいいが、思うように動いてくれない。
人間の無能さに太公望は呆れ、そして苛立ちを募らせていった。
(私一人ならもっと早く出来るものの……!)
しかし、妲己は多数の手下を抱えており、さらにはたちの悪いあがきをしていく。一人で挑むには今は危険すぎる。
(人の子とは、面倒なものだ)
「ふふっ、もしかして坊やは溜まっているのか? なら発散の手伝いでもしようか」
突然の言葉に、太公望は耳を疑った。
「気が狂うたか?」
「私は本気だぞ」
女カは太公望に近づいていき、おもむろに胸を華奢な背中に押しつけた。これには太公望も驚き、小さな声を上げた。
声を上げたあとにふと思った。これではおなごみたいではないか、と。
「何をする! つ、釣りの邪魔になるっ! さっさと戻らぬかっ」
「ウブだな」
先程まで氷のように冷たい声も、今は吐息すら色っぽい声が響く。
時間が経つにつれ、太公望の心臓の動きが早くなっていく。そうしている間に、女カの手は太公望の顎に触れ、持ち上げた。
「……どうだ? モヤモヤするなら、少しスッキリした方がいいんじゃないか?」
「こ、断るっ!!」
きっと顔も体も真っ赤になっているに違いない。太公望は顔を見られないように、必死に女カから逸らした。
「面白くないな、坊やは」
そう笑って、太公望の体を解放する。二人分あった背中の体温が離れ、急に涼しくなったような気がした。
しかしそれどころではなかった。
「じゃあな坊や。我慢出来なくなったら、いつでも言うのだぞ」
そう言い残し、女カは淡い光を発しながら、その場から一瞬で去っていった。
彼女が去った後、残された太公望は上体を折り曲げ、大きく息を吐き出した。
まだ心臓が高鳴っている。表情を歪ませ、太公望は歯を噛み締める。
「おのれ女カめ……! 私を弄びおって……っ。私だって、男なのだぞ……っ!」
いつまでも顔を赤くさせ、延々と恨み節を吐き捨てていた。
あんなに挑戦的に攻めてくるなら、今度は押し倒してやるとさえ考えていたが、寿命が縮まりそうな気がしたので撤回した。
----END----
08/12/07…初出
09/01/12…加筆修正