幸福の代償

モクジ

 司馬昭と元姫の間に子供が出来ました。名前は司馬攸という男子でした。
 しかし司馬攸は昭と元姫の子供ではなく、密かに関係を持っていた昭の兄・師との間に出来た子供だったのです。
 攸が成長していくにつれ、昭は自分の子供ではないのではないかという疑念に突き当たります。
 ――ある日確信をしてしまいました、彼は自分の子ではないと……。

 父親である昭は悩みました。
 元姫は昭との間に出来た子供だと思い、懸命に攸を育てていました。
 二人の間に子供が出来た途端、師は元姫と逢うことも少なくなり、己の職務に没頭するようになったのです。
 ……しかし、勘の良い二人なら気付いている可能性は否定出来ません。

 その間に、師は別の女性と婚姻を結んでおり、既に子供を四人もうけていました。
 しかし師には嫡男がおらず、彼の妻が産む赤子は全て女児、姫だったのです。
『私の血を分けた男子は、もう出来ぬかもしれんな』
 そう残念そうに呟いた兄の横顔を昭は忘れられませんでした。

 ――違う、兄上。兄上の子は…………!

 深く悩んだ昭はある決断をしました――――






「子上殿、……今、なんと言ったの?」

 夫が言い放った言葉を信じられないと言わんばかりに、妻である王元姫が目を見開き昭に詰め寄った。
 しかし昭は冷静を取り繕うようにして、再度同じ言葉を放つ。

「…………元姫、攸を兄上の養子として送ろうと思う」
「なぜ……!!」

 この間二人の間には、司馬炎の他もう一子生まれていたが、三歳という幼い齢でこの世を去ってしまった後だった。
 王元姫は深く悲しみ、いつしか炎と攸に対し愛情を注いで育児をしていた矢先、昭から養子の話を持ちかけられたのだ。
 そして彼女のお腹にはすでに新しい命が授かっていた。このタイミングを見計らっていたのだろうか? 元姫の中に絶望という二文字が暗い闇夜のように渦巻く。

「……元姫、一つ聞く。炎が生まれた後、兄上と関係はあったのか?」

 突如かけられた言葉に、元姫ははっと息を呑み昭を見つめた。その様子を見、すぐ勘付いた昭は溜息を一つつき、ポツリと漏らす。

「やっぱり……な」

 切ろうとしても切れない縁【えにし】とは、まさにこの事だろうと実感する。
 昭が留守の間、師と元姫は密かに逢い、肉体関係を結んでいたという現実。
 それをどうしても確認したくて、昭は重い話題を切り込んだのだった。話す方だって聞く方だって辛いのは承知の上で。
 攸の成長を見る度に、胸の奥に鈍い痛みが溜まっていくのを感じていた。
 自分の子にしては聡明すぎて、まるで兄の幼い頃を見ている感覚に捕らわれたから。だから疑念を持ってしまった。そして今問いただせば想像が現実へと形づけられてしまった。昭もまた絶望へと蹴り落とされたのも同然の立場。痛みは双方に与える結果となる。

「子上殿……っ、ごめんなさい……、ごめんなさい……!」

 血の気を失い、元姫は寄りかかるように体を預けて、苦しげに言葉を吐き出す。
 昭はただただ彼女を抱きしめ、落ち着かせるように背中をさすった。

「……元姫を責めている訳じゃあないよ。ただ、白黒はっきりさせたかっただけだ。辛い思いをさせて、悪かった……」

 二人の関係は当初から容認していたので、受ける【痛み】は【知らないでいるより】わずかに少ないのが救いだ。それでも痛いものは痛いのだが……。
 ――しかし一番辛い事は、攸をここまで育ててきて引き離そうとしている現実なのではないか?

「元姫も判るよな。今の兄上には嫡男がいないということ、生まれてきた子供四人が女児であることを」
「ええ……」
「このままだと兄上の家は断絶してしまう。誰か、引き継ぐ者がいない限り……」
「……それで、攸を送るの?」

 今の元姫の表情は師を思いやる【女】の表情ではなく、一人の【母親】の表情で昭を真っ直ぐに見やっていた。その気持ちに答えるように、昭もまた真っ直ぐに彼女を見つめる。
 瞼を伏せて静かに頷くと、元姫は俯いてしまった。今どのような表情を浮かべているか伺う事は出来ないが、想像ならつく。きっと泣くのを我慢しているに違いない。彼女はそういう人間だから。

「攸は俺たちにとって三男だ。嫡男として炎がいる。……俺は次の代を攸に継がせたかった。――だが、俺の子供ではないと判明してしまった以上、【本当の父親】の元へ預けた方がいいんじゃないかって……思ったんだ」

 未だ元姫は昭の方を向かないまま俯いており、細い肩が小刻みに震えていた。
 それでも昭は続きを告げる義務が残っている。一つ一つ言葉を選び、語りかけるように話を続けた。

「兄上と一緒に攸を育てられないのは、申し訳ないと思っている。だがこれはお家の問題でもあるっていう事を理解してほしい。……今すぐ、とは言わない」
「子上殿っ……!!」

 昭の胸に言葉に出来ない衝撃が伝わるのと同時に、元姫が赤子のようにしがみついて寄り添うと大泣きした。今までにないくらい大きな声で、切なくなるくらいに。
 普段ならこんな弱い部分を見せるはずのない彼女が、子供に戻ったかのようにわんわんと泣いている。思わず昭も目頭に熱いものを感じ、それが流れぬよう天井を仰いだ。
 攸と離れるのは、昭だって辛い。けれども決断しなければならなかった。

「ごめん、元姫……。ごめん……」

 昭は泣き止まない彼女に謝る事しか出来なかった。他にかける言葉が見つかればいいのに、とすら感じていた。




 翌朝。朝議の終わり際に多忙の師を呼び止め、話す機会を設けることが出来た。

「どうしたのだ、昭。珍しく呼び止めて」

 昨日夫婦間で話合ったことを伝えるべく、昭はいつもにない真剣な表情に切り替えて師にきっぱりと伝えた。

「兄上。我が三男である司馬攸を、養子として送ろうと思います」
「っ!?」

 師もまた昨日の元姫と同様に双眸を大きく見開き、微動だせずにこちらを見つめている。

「元姫とも話合った結果です。攸を、兄上の嫡男にして下さい」
「昭、本気で言っているのか!?」

 兄の表情が険しくなる。だけどそれは想定済み。いつものようにヘラッと笑うと、昭は話を続けた。

「……攸にも、簡単ですけど話しました。そしたら、伯父上のところだったら安心して務めを果たしますってさ……。まーったく、俺とは真逆の性格ですよ」

 攸の言葉を思い出し、苦笑しながら昭は言う。師も彼の覚悟を直感的に受け止めたのか、厳しい口調で言葉を紡ぐ。

「後悔しても遅いぞ? 戻してくれ、といっても戻すことは出来ぬぞ?」
「ええ、大丈夫です。その方が兄上も気が楽になりますでしょ?」
「…………」
「攸は、俺と元姫の子供ではありません。……兄上と元姫の子供なんです」

 さらにそう告げると、目眩をおこしたように師がその場に膝を折って座り込んだ。信じられないと言わんばかりに目を泳がし、出てくるはずの言葉が複雑に絡み合っているが為に言葉に出来ないような素振りだった。
 こんなに動揺している兄を見るのは初めてだった。
 それでも、現実として受け止め、話さなければならない。苦い思いをぐっと呑み込み、昭は言葉を続ける。

「……元姫はもう、攸を育て上げる事は出来ません。だから、せめて、兄上。貴方の手で彼を立派にしてあげてください」

 そう言い切ると、昭は廊下を全速力で走り抜けていった。その場に残されたのは未だ信じられないといった表情をまま固まっている師と、立ち去っていく弟の沓音のみだった。
 ぼうっとしていると突然後ろから声をかけられ、師がゆっくりとその方向へ振り向くと、幼い攸がこちらを見ていた。
 ぎこちなく柔和に微笑みかけているその姿が、どことなく元姫の面影と重なる。

「伯父上……。いえ、父上。あの、これから宜しくお願い致します」
「攸……」
「私、父上の名に恥じないよう頑張ります。だから――」

 こんな小さい子供が運命を受け入れている。なのに自分は戸惑いを隠しきれず、どうしたらいいか迷っていた。何とも情けない……!
 ふと気が付けば師は攸の体を力一杯に抱きしめていた。
 切れ長の双眸からは、とめどなく涙がこぼれ落ちてくる。
 『父』と呼ばれた事に対する事だろうか、それともこの運命を受け入れなければいけないという責任からだろうか?

「ちちうえ……?」
「……っ、何でもない。恥ずかしい場面を見せてしまったな。……これからよろしくな、攸」
「は、はいっ!」

 攸は元気な声で返事をし、元姫にも似た愛くるしい笑顔をこちらへ向けてくる。
 その姿が愛おしくて、愛おしくてたまらなかった。
 昭にも元姫にも恥じぬような、この子の立派な父親になろう。――師はそう決意する。






【了(2012/06/17 {2012/06/24加筆修正})】

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