憎しみの矛先






 関ヶ原の合戦が始まる二日前。
 小西行長が戦支度を陣内で行っていると、後ろから幼い男子の声がした。

「こんにちは。小西殿」

 振り返ると、小早川秀秋がにこりと微笑んで立っていた。突然の訪問者に、行長は驚きを隠せない。
 秀秋とは仲がいいとまではいかず、殆ど接点という接点がなかったからだ。

「これはこれは小早川殿……。何かご用ですかな?」
「いいえ、ご用って程でもないんですが、ちょっと来てみました」

 これを聞いた行長は、あまりいい思いはしなかった。
 今は商売人の魂が燃えさかっているせいか、時間が一分でも惜しい。

「用事がないんでしたら、早くご自分の陣へお帰りになられたら如何ですかな?」

 どことなく冷たく返した。
 それでも秀秋は笑顔を絶やすことなく、話を続けようとしている。

「小西殿、なぜ西軍についたのです?」
「へっ?」

 今更の質問に、行長は呆気にとられた。戦はあと二日もすれば始まるというのに……。

「そりゃあねぇ。こっちの方が何かと得をする気がしたので」
「なぜそう感じたのです?」
「まずは兵の数ですな。東軍と比べたら、西軍は一万以上も兵が多い。兵が多いほど戦は有利になる。これは譲れませんな」
「それ以外で得をすることは?」
「うーん、特にないですなぁ……。当日全軍を操る予定の石田殿は、いささか不安があるし……」

 そう行長が言うと、秀秋の口元が妖しく歪んだように見えた。しかしそれは一瞬で、いつもの秀秋の顔になっていた。

「……小西殿は石田殿を信用していないのですか? 信用してないのに西軍につくと?」

 なぜこの青年はここまで聞くのだろうか。怪しく思った行長は話の流れを切り、逆に質問を返した。

「では小早川殿は、石田殿を信用しているんですか?」

 一瞬秀秋の顔が真顔になったが、すぐにやんわりとした笑みを浮かべて「はい、信用してます。幼い時からの仲ですから」と、きっぱり答えた。それが逆に、行長の脳裏に違和感を植え付ける結果となったのだが……。しかしすぐにそれは忘れ去られる事になる。

「言っておきますけど、私は石田殿の采配に命を預けているんです。何があろうとついて行くつもりでおりますよ」
「……それは、西軍が不利になって、小西殿に危険がさらされてもですか……?」
「っ!? そ、それは……」

 そうなった場合は逃げる。当たり前の事ではないか――――
 決して口にはしなかったが、代わりに目で訴えた。また秀秋の口元が歪む。

「石田殿には悪いですが、僕はこの戦、徳川殿に勝てる気がしません」
「な、何を言い出すんです!?」

 これ以上言わせないようにしようとしたが、堰を切ったように秀秋はたたみかけ話す。

「あの方には人望というものがありません。しかも多数の人に恨みを買っている。……そう、いつ裏切りが起こってもおかしくないのですよ」
「……、あえて聞きます。それはどういう意味ですかな?」
「ふふっ。どういう意味でしょうね?」

 ただただ笑うばかりの秀秋。自分よりも一回り以上年の違う少年を、行長は恐ろしく感じた。

「あ、安心して下さい。僕は秀吉様に恩を返さなくてはなりません。そんな事考える訳ないじゃないですか。ただ、噂を耳にしたまでです」
「そ、そうですか……。なら安心しましたわ」

 もし小早川が裏切れば、兵の大半を失う事になり、一気に西軍は不利となる。利益がでない。そんな戦いに行長は参加したくない。
 雑兵が行長を呼んでいる声が響き、早く去りたいと言わんばかりに行長が手を合わせて叩いた。

「ほ、ほな今日はここでお開きですわ! 小早川殿も陣に戻らぬと、他の者が心配しますぞ?」
「ええ、そうですね。それでは失礼します」

 ぺこりと頭を下げ、秀秋は陣内から去っていった。
 見送った行長は左右しっかりと確認したのち、大きな息をついた。何だか異様に疲れた気がしてならない。ただ数分間話していただけなのにも関わらずだ。
 戦も商売も損得を見極めるのが肝心。確かに西軍には心許ない部分があるかも知れない。だが、だからといって東軍につく気もない。

「わしはあの男がいる限り、あちらには味方などしたくありませぬぞ!!」

 誰も聞いていない一言を、行長は声を張り上げて言った。
 そして駆けつけてきた雑兵に向かってこう言った。

「皆の者! 準備はしっかりと怠らないように! 備えあれば憂いなしですぞ!!」
「は、はい!」

 話の繋がりが見えない雑兵は、訳がわからぬまま返事を返すのみだ。
 この時ばかり行長は、損得という信条を忘れていたのだった。




 自分の陣へ戻る途中、秀秋は行長の言葉を思い出していた。

『他の者も心配しますぞ』

「……へっ! 他の奴なんざ、ただの捨て駒なんだよっ!!」

 先程とはうってかわり、目つきを尖らせ、低い声色で吐き捨てるように言った。
 あの日、父だと思っていた人から捨てられて以来、秀秋の心は変わってしまった。人を恨み、いたぶるようになった。人を人だと思わないようになってしまった。
 そして胸の内では、あの人をかばう石田三成を憎悪していた。それだけではなく、色々と思うところもあるのだが、それは二の次。
 ギリッと奥歯を噛み締め、秀秋は真っ直ぐに伸びる路を睨み付ける。

「見てろよ石田三成……。俺があっという間に捨てられたように、貴様をいとも簡単に捨ててやる。そして絶望するがいい!!」

 頭を抱えるようにして、秀秋は奇声を上げて笑い狂った。
 青年の頭上に広がる暗雲が、彼の心の中を映し出しているかのように、重く重く広がっていく。


 もちろん、石田三成はその事を知るはずもなかった。






2009/01/08 up date