この病にかかってから、一つまたひとつ出来ない事が増えてきた。
 私はその分落胆はしたが、一番落胆をしていたのは友である三成だった。


「三成、私はもう目が見えぬ。お前の姿を見る事も、この先の物すら見えなくなった」


 そう私が言うと、上から下へと叩きつける音が聞こえた。服と足袋が擦(こす)れるような音がしたから、多分三成がしゃがんだのだろう。……いや、崩れ落ちたと言った方がいいか……。

「冗談だろう?」
「私が下らない冗談でも言うと思ったか?」
「い、いや……」

 三成の声が震えていた。
 なぜ君がそこまで落ち込むのだ……?

「心配するな。慣れれば日常生活くらい大丈夫だろう」
「俺は慣れない」
「三成……」
「昨日まで同じ景色を見て笑っていたのに、もう……二度と……」

 当然ながら、三成の表情は掴めなかった。
 しかし、私には判っていた。きっと君は泣いているのだろう。





 明くる日、縁側で茶を飲んでいた時だった。
 邸で働いている侍女が、私にこう伝えに来たのだ。

「吉継様、お客様がお見えになっております」
「誰だ」
「石田治部少輔三成殿で御座います」
「治部が……?」

 私が立ち上がろうとすると、侍女がここに連れてくるとだけ言い残し、去っていってしまった。
 三成が邸に来るのも珍しいと思いながら、茶をもう一口口に運んだ。

「吉継」

 隣に気配を感じる。三成が座ったのだろう。私はその方向へ顔を向けた。

「どうしたのだ、三成。私の邸に来るのも珍しい」
「ああ。今日は連れて行きたい場所があってな」
「ふふっ、本当に珍しい事もある」

 どこの風の吹き回しだろうと思いながらも、口にはしない。三成の声が、昨日よりも明るかったからだ。
 やはり、笑っている三成の方が好きだ。

「で、どこへ行くのだ?」
「それは……、えーっと、秘密だ」
「ほう……。それは楽しみだ」

 私は思わず笑ってしまった。
 嘘が苦手な三成にしては、上手く丸めたものだと思ったからだ。
 早速私は出掛ける準備をし、三成と共に邸を出た。



 やはり暗闇の中を歩くというのは、並大抵の事ではなかった。
 前後左右、何がきているのかが全くわからない。一歩進むのがこんなに勇気のいる事だなんて、初めて知った。
 普段当たり前の行動が、今の私にとっては難しいものへとなっている。思わず歩みを止めてしまった。

「吉継?」
「すまぬ……三成」

 私らしくない声を出してしまった。これでは三成にまで不安を煽ってしまう。すると、私の手が何かにギュッと包まれた。

「久方ぶりだな、手を繋ぐのは」
「……」

 包帯に包まれた私の手を、三成が握ってくれているようだ。

「三成、あまり私に触れぬ方がよい。病が……」
「お前も他の連中と同じ事を言うのか? そんなの関係ない。なぜなら、吉継は俺の友人だからな」

 馬鹿者、と言ってやりたかったが、どうしても口に出てこなかった。
 それよりも繋がれた手がとても嬉しくて、胸がいっぱいになっていた。人のぬくもりの良さを改めて実感する。

「…………感謝する、三成」



「どこへ行くのだ、三成」

 手を引かれるまま、私は歩いていた。たまに人とぶつかっていたが、三成のお陰で転ぶ事も面倒事が起こる事もなかった。
 私がいくら三成に尋ねても、彼は行き場を言う事はなく、漠然とした不安がよぎる。

「みつな……」
「今日は逆だな」
「え?」

 ああ、そういう事かと理解したが、あえて黙っていた。三成はどこか嬉しげに声を弾ませて話す。

「今までだったら俺のいる位置に吉継がいて、どこへ行く、何をするとか聞いても、全く答えてくれなかった。しかも一人で先に進むしな」
「ふ……、そんな事もあったな。現場に行ってから説明したくてな。それに、話しながら歩くというのは苦手だ」
「それは俺も同じ」

 柔らかい笑い声が耳に届く。

「そろそろ教えてくれてもいいのではないか?」
「まだだ。そこに着けば、吉継ならすぐ分かってくれる」

 私がすぐ言い当てられる場所……?
 思い出せず、口を噤(つぐ)んだ。それは私と三成との想い出の場所なのだろうか。

「覚えているか? 吉継。あれは俺が相当落ち込んでいた時だった」

 三成は出会った時から、かなり傲慢な性格をしており、誰とも構わずに見下すクセがあった。それ故、多くの敵を作っていた。
 そんな彼が、同情してしまうほど落ち込んだ時期があった。

「ああ、覚えているさ」
「その時吉継は、理由もなにも聞かずに、ただ傍にいてくれた。そして、夕日が綺麗に見える丘へ連れて行ってくれたよな」
「さて、そこまでは覚えておらぬぞ?」
「ははっ。そういう事にしておく」

 三成を連れて行った丘は、私の気に入りの場所でもあった。誰にも知られていないため、雑草は生え放題の荒れ地だったが、私にとってはそこが楽園のように思えたのだ。
 夕方になれば、そこから見える景色はまさに絶景。
 山や町が赤く染まり、やがて黄昏に暮れて一番星が昇る。
 この空を見ていると悩みなど小さく見え、また明日頑張って過ごそうという気分になるのだ。

「あの景色は綺麗だった……。吉継が言ったように、全てが緋色に染まり、時間が経てば黄金色に染まる。初めて見た」
「気に入ってくれて何よりだ」


 ……だが、私はもう二度とあの景色は見られぬ。
 光を失い、余命幾ばくもない。
 もう……三成と共に、素晴らしい景色を楽しむ事など……。


 人の気配が薄れ、足元が不安定になっていた。
 ここは……、知っている。そう、ここは……――――

「吉継。俺、考えたんだ」
「三成……」

 胸の奥が、目の前が熱い。自然と声が震えてきた。

「吉継の目が見えないなら、俺が全てをお前に伝えようって。どんなにこの世が歪んでも、ありのままを伝える。素晴らしいものを見たら、お前にその感動を伝える。……俺、上手く伝えられないかも知れないが、吉継の為だったら何だってする。お前は……、吉継は……、俺の大事な友だからだ」

 握られている手に力が込められる。
 ああ、判る。判るとも三成。お前の言葉に偽りはない。
 これは慰めでも何でもない。……三成、どこまで真っ直ぐなのだ……。

「これから迷惑をかけるかも知れぬ。それでもか?」
「ああ」
「恩に……っ、着る……」

 次の瞬間、私の目から止めどなく涙が溢れてきた。
 ――私は不安だったのだ。
 病にかかり、視力を失い、命の期限がある事に。
 自分は何をして余生を過ごせばいいのか、全く判らなかった。そのような事想像した事もない。
 光を失い、一寸先すら見えない状態になり、さらに絶望した。
 皆に心配かけまいと気丈に振る舞ってきたが、もう限界に近かった。隣にいる男が全てを見透かしてしまったからだ。

「吉継、この場所覚えているか?」
「もちろんだ、三成……」

 ここはお前と私だけが知っている、あの夕日の丘だ。

「空は赤いぞ。あの時と全く変わらぬ」
「そうか」

 何も見えないはずなのに、赤い空が見えるような気がした。
 そして、三成の笑顔も……。





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