「叔父上、関ヶ原にも連れてきたのですか? 鬼ぼんたん」

 豊久は義弘の腕に抱かれている、丸々と太った大きな猫・鬼ぼんたんに視線を向ける。義弘は「さよう」と言ったきり、言葉は発しなかった。
 鬼ぼんたんはというと、くわあと大きなあくびを一つした。

「島津は戦には参加せぬ。鬼ぼんたんにも危害は加わるまい。それに幾つもの修羅を抜けてきた猫じゃ。そうそう怯えたりはしない」

 みゃーんと甘えるように鳴いた。
 豊久の表情がみるみるうちに暗くなっていく。それに気付いた義弘は「どうした」と声をかけると、言いにくそうに豊久が話し始めた。

「いや、叔父上。実は鬼ぼんたんが苦手……なのです」
「む、初耳じゃ」
「そりゃあそうです。今まで誰にも話した事がないのですから」

 苦手というのは語弊がある、と、豊久は言い直した。

「こちらに敵意はないのですが、どうも懐いてくれなくて……。叔父上のように抱こうとすると、必ずといっていい程噛まれ引っかかれ……」

 ちらりと鬼ぼんたんの方を見ると、ふしゃーと言っていた。明らかに敵意むき出しだ、誰も叔父上を横取りしないのにと豊久は思った。
 これこれと義弘が頭を撫でると、先程までの威嚇はどこへやら。すっかりご機嫌になっている。

「ふむ……」
「叔父上?」

 数歩歩いたのち、義弘が再び話し始めた。

「豊久は鬼ぼんたんと仲良くしたいのか?」
「い、いえ! そんな、仲良くなど……っ」
「わしは知っておるぞ。席を外している時に、鬼ぼんたんを猫じゃらしで誘おうとしていたら、逆に手を噛まれていたのをな」
「っ!! 何故それを!」
「仲良くしたいんじゃな?」

 義弘の語気が強まっていく。さすがの豊久も逆らえなかった。

「は、はい……」
「さようか」

 そしてこの時から、鬼ぼんたん克服修行が始まったのだった――――




「豊久殿、どうか義弘殿に会わせてくれないか?」

 島津隊を動かす為に、石田三成が陣まで足を運んできた。隣には少女までついている。
 豊久は頑として三成と少女を、義弘に面会させる事を拒んだ。

「貴様に叔父上を会わせる訳にはいかん」
「なんじゃ、豊久。騒々しい」
「義弘殿!」「叔父上!?」

 違和感を感じると思ったら、いつも腕に抱かれているはずの鬼ぼんたんの姿がなかった。
 豊久が訪ねると、しばらくの間任せたとだけ義弘は言い、三成と共に去っていった。

「お……鬼ぼんたんを任せる、ですか?」

 豊久は陣の中にいる鬼ぼんたんに目を向けると、フーッ! としっぽを立てて威嚇された。今にも飛びついてひっかいてきそうな勢いだ。

「早く帰ってきて下さい……、叔父上……」

 戦場では血気盛んな豊久だが、今は一匹の猫に対しビクビクと怯える男となっていた。
 数十分の間だったが、豊久と鬼ぼんたんにとって長い時間が今始まったのだった……。



続く




 義弘の姿が段々と遠のいていく。三成に対して恨み辛みが増したのも、この時だとか……。
 かくして豊久は鬼ぼんたんの面倒を見る事となった。

「鬼ぼんたん? どこへ行った」

 先程まで陣の入り口で逆毛を立てていた鬼ぼんたんの姿が見えなくなっていた。
 きょろきょろと辺りを見渡すと、図体のでかい猫は、義弘が座っていた椅子の上でまるまっていた。

(端から相手にしないという事か……)

 ほんの少し安心し、豊久も椅子に腰掛けようとした時だった。

「ふしゃあぁぁ!!」
「うわあっ!」

 突然、鬼ぼんたんが飛びかかってきた。体は大きいのに、動きはそこらの猫と大差変わらなかった。
 豊久の体は、たちまち地面へと叩きつけられた。

「こ、こら!」
「ふーっ!!」

 今にも引っ掻いてきそうな勢いだ。
 胸の上に鬼ぼんたんの前足がのっているのだが、既に爪を立てている。その一部が豊久の皮膚を食い込んでいた。
 多分このまま降ろそうと手を伸ばしたら、確実に噛まれるだろうと思った。

「鬼ぼんたん……、そこをどいてくれないか?」

 聞いているのか、はたまた聞かないふりをしているのか、猫は動こうとしない。そして威嚇している。

「いつまでも寝ている訳にはいかぬだろう?」
「ふぎゃーっ!!」

 むぎゅっと、豊久の頬が鬼ぼんたんの前足によって踏みつけられた。当然、爪は立っている。

「いたっ! ちょっ……、足をどけるんだ鬼ぼんたん!」

 どこか楽しげな表情を浮かべながら、猫は足をどけない。むしろ色々な場所を踏みつけていっていた。
 豊久は諦めかけていた。
 やはり義弘以外が鬼ぼんたんを手なずけようとしたのが、そもそもの間違いだったのだ。ほら、こんなにも鬼ぼんたんは敵意剥きだしで睨んできている……。

「みゃーご」

 胸に感じていた重みが一気になくなり、顔に当たっていた肉球の感触が消えていった。
 不思議に思った豊久が視線を正面へやると、鬼ぼんたんの姿はなかった。代わりに隣から鳴き声が聞こえた。

「お、鬼ぼんたん……?」
「みゃーご、みゃーご」

 いつまでも地面に寝ている訳にもいかず、豊久は体を起こし、鬼ぼんたんを見つめる。
 ついさっきまでとは雰囲気がいささか違う。敵意は薄らいで、どこか柔らかい表情になっていた。

「ど、どうしたというのだ、一体……」

 その一件以来、義弘が帰ってくるまでの間、鬼ぼんたんは豊久を襲うという事はしなかった。
 微妙すぎる距離を保ったまま、静かに豊久を見つめていた。




「叔父上!」
「さよう」

 話を聞くと、三成には島津の兵は動かさないと伝えてきたという。もしかするとまた来るかも知れぬ、と、義弘は言った。

「しつこいですね。石田三成は」
「さよう」

 みゃーん、と、後ろから鳴き声が響く。

「豊久。鬼ぼんたんとは仲良くできたか?」
「は、はあ……。それが……」

 豊久はこれまでの経緯を事細かに伝えた。
 すると義弘は腿を叩いて、大きな声で笑い出した。豊久はただ目を丸くするだけだった。

「お主、それは認められたという事じゃ」
「認められた……?」
「さよう。あの鬼ぼんたんの威嚇にも動じなかったという事は、大したものだ」

 動じなかったというより、重くて動けなかったといった方が正しいような気がしてならないが……。
 動かそうとしても、手を噛まれるのが目に見えていた。

「その器量にこやつも豊久を認めたのじゃろう」
「そういうものですかね……?」
「さよう」

 いささか疑問に思うところがあるが、とりあえずは鬼ぼんたんに近づく事を許されたらしい。
 みゃー、と鳴きながら、鬼ぼんたんが義弘と豊久の傍まで近づいてきた。

「鬼ぼんたん、これからも――――」
「ふぎゃぁぁ!!」

 豊久が手を伸ばしたその時、がぶりと噛まれた。
 まだまだ、鬼ぼんたんに近づくには時間が必要みたいだった。






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