甄姫が薄暗い塀に立て掛けられた槍を見つけたのは、今さっきだった。
 このような目の付く所に槍がある事に、昨日まで知らなかった。いつの間に置かれたのだろうと不思議そうに眺めていると、後ろから低く据えた声が届いた。
「甄よ、どうかしたのか」
 振り返ると甄姫の夫である曹丕が、片手を腰に当ててこちらを見ていた。
「我が君」
「……槍を見ていたのか」
「ええ。ずっとこのような場所にあるなんて、気付きませんでしたわ」
 すると曹丕はフッと、鼻で笑う。槍の方まで歩き、使い古された持ち手に触れる。
「そうか、まだ甄には話しておらんかったか……。この槍は、以前私が使用していた物だ」






      守る為の二択






「我が君が使っていたのですか?! ですが今は――、」
「そうだ。剣を使っている」
 槍と剣では使い勝手が違う。
 槍はどちらかというと至近距離から中距離の間で戦う武器であり、剣は殆ど近距離でないと扱う事が出来ない。雑兵でも多く使われる、使い勝手の良い槍を手放し、何故曹丕は剣を選んだのか……。漠然と甄姫はそう思った。
「曹操様に薦められたのですか?」
「違うな」
 曹丕はかぶりを振って否定した。
「父は私に槍の方が合うと言っていた。こう見えても、槍の扱いは上手かったのだ。父もそれを認めていたのだろう」
 槍を奮う曹丕の姿を想像し、甄姫はしばし上の空になってしまう。その勇姿を一度見たかったと思うくらいだ。
「曹操様、羨ましいですわ……」
「何か言ったか? 甄よ」
 心の中で呟いた筈が、思い切り口に出して言っていたらしい。慌てて甄姫は取り繕い、上品な仕草で何でもないと伝えたが、曹丕は小さく笑って流した。
「で、ですが何故武器を変えたのです? 使い慣れている物の方が宜しいかと思うのですが……」
「ふっ……。その時の気分、だ」
 ふと見た曹丕の横顔は、僅かだが憂いを帯びていたのを甄姫は見逃さなかった。
「我が君。夫の過去を知るのも、妻の役得かと思いますわ。もし差し支えなければ話して下さい」
 曹丕の片腕に暖かい温もりが伝わる。視線だけ動かし甄姫の姿を双眸に焼き付けると、短い呼吸をはいて曹丕が呟いた。
「全てを知っても下らぬだけだ」
「いいえ。私は我が君の事をもっと知りたいですわ」
 たとえ今から話される内容が二人にとって不和の原因になろうとも、愛する夫の事を少しでも知りたいという気持ちの方が大きかった。それに甄姫は、曹丕の妻となって長い月日が立っていない。
「甄は己の意見を曲げぬな。……ますます気に入った」
 抑揚のない声だったが、甄姫は心の底から喜んだ。
「あれは私がまだ初陣を飾ったばかりの頃だった」
 遠くの町並みを見渡しながら、曹丕は静かに語り始めた。





 曹丕が初陣に参加する日の事。
 庭に出て、自分の背丈よりも長い槍を振り回し、戦に備えていた。
 槍を教えてくれた師匠(せんせい)からは天性の槍の才能だと言われる程、曹丕の槍裁きはキレのあるものだった。確実に相手を追いつめとどめをさし、動きも機敏で隙がない。
「…………」
 少し休憩を取ろうと、曹丕は短い石階段に腰をかけた。
「子桓」
 聞き慣れた声が響く。だが、振り返りたくはないというのが本心だった。そうもいかず、曹丕は顔だけ横へ向ける。
「父上」
「随分と熱心だな。お前らしくない」
 曹魏の主である、曹猛徳。曹丕の父である。戦前だというのに、いつも落ち着いており焦りが感じられない。
 曹操は曹丕が体を慣らすという事はしないと思っていたらしく、その姿を眺め目を細めて笑う。
「そんなに珍しい光景ですか?」
「ああ、すまんな。だがその意気込みは大事だぞ」
 表情を崩すことなく、曹丕は瞼を閉じて曹操の視線から逃れた。
 いつかはこの父親を超えなければならない時が来る。己の考えを持つようになってくる年頃になった曹丕は、いつも漠然とだがそう考えるようになった。周囲の声も、以前と比べたら大きくなりつつあり、それが鬱陶しいとさえ思ってしまう。
 皆は私――曹丕を一人の人間としてではなく、曹操の嫡男(ちゃくなん)・曹子桓としか見ていない。
 このまま一生、一人の人間として見られる事はないのか――――?
「父上、お願いが御座います」
 閉じていた双眸を開き、目の前にいる曹操を見据える。
「どうしたんだ? 子桓」
「私と勝負しませんか……?」
 息子の突然の申し出に、曹操は驚いたがすぐに悦びへと変わっていった。滅多に父親と接しようとしない曹丕からの誘いに、彼の頭を撫でながら曹操は承諾する。
「いいぞ子桓。わしでよければ相手になろう」
「では父上は使い慣れた剣をお使い下さい。私はこの槍で勝負します」

 先程まで二人のいた距離が離れていき、曹操は剣を、曹丕は槍を構えた。
 戦直前の為か、遠くから兵士達が訓練する掛け声が聞こえてくるが、曹丕にとってはその声が邪魔だった。剣を構える父の姿は、魏を治める王だけあって偉観な雰囲気を出している。思わず後ろへ退けてしまいそうになってしまう。
「いつでも来い、子桓よ!」
「言われなくとも……っ!」
 曹丕は間合いをとりつつ、曹操の脇腹付近を狙って槍を突き出した。金属音を響かせ、予想していた通りに曹操は槍先をはじき返す。それもつかの間で、次に曹丕は大きく後退し体勢を立て直し、半月を描くように振り回した。
「言われるだけあるな」
 曹操は曹丕の猛攻を直に見、余裕のある笑みを浮かべる。それを見た曹丕は僅かに眉尻を上げた。
(まだ余裕だと言うのか?! 父上っ……!)
「くっ!」
 振り回すのを途中で止め、槍先を思い切り上へと上げるが、それもいとも簡単に交わされてしまう。曹操の方が一手も二手も先の行動を読んでいるのが明白だった。曹丕は徐々に焦り始める。
(何故攻撃を仕掛けて来ないのだ、父上!)
 曹丕が一方的に攻めるばかりで、曹操は攻撃を止めるか防御に徹するばかりだ。
 確実に相手が不利になる場所を狙って攻撃していた。他の者と手合わせした時、毎回連続で曹丕は勝負をつけていた。相手をしてくれる師匠に槍も使えるのだから、剣舞も習ってみたらどうかと薦められた事があったが、頑なに断り続けた。その時の曹丕は、槍だけでやっていく自信に満ちあふれていて己の力に信用しきっていたのだ。
 だが今は違う。あれだけ信じ切っていた曹丕の力は、父・曹操の前では無力と化している。
 何度目かの間合いを置き、曹丕は呼吸を乱す。――――こんな事になったのは初めてだった。
「子桓! その程度ではわしを倒せぬぞ」
「っ……」
「それにな。一点ばかりを見るではない。敵に背後を取られたらどうする! 瞬く間にお前は斬られるぞ」
 曹操の言っている事は頭の中で解っている。判っているが、らしくない感情が先走ってしまい行動に隙が生まれてしまう。
「父上は何も判っていない! いずれ貴方の後継者となる私の気持ちなど……っ、判る筈がない!!」
 これで終いにしよう。
 そう決心し曹丕は両手で柄(え)を持ち、剣を握っている曹操の手に向けて突進する。
「はああぁぁっ!!」
 あと数センチのところで、曹操の手……そして姿が消えた。
「?!」
 まさかと思い振り向こうとした時には遅かった。防御しようと槍の柄を突き出そうとしたが、疾風の如くの剣裁きで遠くへ弾かれてしまう。更に柄(つか)の部分でみぞおちを入れ込まれた。
「が……っ!」
 曹丕は腹を片手で抱えたまま、その場に崩れ落ちた。
「甘いな……、子桓よ」
「父上……。もしや私の行動を読んでいたのですか?」
「いや、そこまで細かくは読めぬ」
 父親に無様な姿を晒してしまい、曹丕はグッと唇を噛み締める。じんわりと血が滲んできた。
「子桓」
 曹操は背を向けたまま語り出した。
「お前には時間と様々な選択肢がある。全てがわしに通じているとは思わずに、己の覇道を歩め」
「父上……」
「今お前の戦っている姿を間近で体感し、……安心したぞ」
 そのまま曹操は陣のある方へと歩いていき、二度と戻ってくる事はなかった。再びお互いが顔を見せ合わせたのは、合戦場であった。




「その時に父が教えてくれた……。己の人生は自分で決めるものだという事をな。それから私は剣舞を習うようになった」
「ではそれ以来槍には触れてませんの?」
 いや、と否定し曹丕は言葉を続ける。
「触れたはいいが、剣の方が楽になっていた。すぐ抜けるしな」
「やはり我が君は素晴らしい方なのですね。私、ついてきて良かったです」
「ふ……、そう言ってもらうと嬉しい。それに」
「それに?」
「剣の方がお前を守るに相応しいと思わぬか?」
 思いもかけない台詞に、甄姫は頬を紅潮させ長い睫を伏せる。
「もう、あなたったら」
 照れる甄姫を横目に、曹丕は薄く微笑んだ。





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 08/06/20







 ずっと書きたかった曹丕×甄姫です。
 大半が曹操と曹丕の過去についてばかりですね(汗)。曹丕は甄姫の前だといつも微笑んでいそうです、はい。