現在と過去の音色






「甄よ、これから時間はあるか?」

 夕餉が終わり、官女と共に部屋へ向かっていた甄姫を、曹丕は呼び止めた。振り向いた甄姫は不思議そうな表情を浮かべ、薄く微笑んだ。

「どうなさったのですか、我が君。ええ、あなたの為の時間は、たっぷりと空いてましてよ」
「そうか。ならば庭園に来るがいい」

 それだけを言い残し、曹丕は来た道を戻っていった。甄姫の周りにいた官女はポカンと二人を見る。その一人がおずおずと甄姫に声をかけた。

「あの、甄姫様。もし外へ出られるのなら、何か掛け物でもご用意いたしましょうか?」
「いいえ、結構です」
「え?」

 クスクスと笑いながら、甄姫は嬉しそうに言った。

「これは我が君のお誘いですから。私は何も持たずに行きますわ」




 庭園へ向かうと、既に曹丕が縁側に腰をかけて待っていた。すぐさま甄姫はかけよっていく。それに気付いた曹丕はすくっと立ち上がり、妻がこちらに来るのを待っていた。

「あなた。お待たせして申し訳ありません。今日は早いのですね」
「ふっ、毎回甄を待たせていたからな。今日は特別だ」

 声はいつもと変わらぬはずなのに、何故か暖かく感じる。甄姫は頬を染めて俯いた。

「どうなさったのですか。珍しく呼び出したりなんかして」
「甄に笛の音を聞かせたくなった」

 その言葉に甄姫は驚いた。
 曹丕の楽はよく傍で聞いていた。なのにもかかわらず、目の前にいる夫は笛を聞かせたいと言っている。
 普段はそんな事を言わないので、余計に驚いたのだ。しばらく黙っていると、曹丕は不機嫌そうに顔を逸らした。慌てて甄姫は言葉を繋ぐ。

「あの……、我が君……っ!」
「今宵は良い月が出ている。演出的には問題なかろう?」
「は、はい。ですが何故――」

 突然に? と聞きたかったが、言葉になる寸前で止めた。

「ここに茶を用意している。好きに飲むがいい」

 曹丕は甄姫の話を全て聞くことなく、自分の言いたい事をいうだけ言って、四・五歩歩いた先にある小さな人工池の付近まで行く。
 言われるがまま、甄姫は縁側に座り茶を器に移していた。……この香りは甄姫が好きなお茶だ。曹丕が知っていた事にまたまた驚きを隠せない。

「我が君。お茶、頂きますね」

 一言断ると、曹丕は口元だけで笑った。
 その何気ない仕草が、甄姫にとっては嬉しかった。
 もしかしたらこのお茶は、甄姫の好みを調べてから用意したのでは、なんて思ってしまう。それは自惚れだと思い、その考えを振り払った。

 間もなくして、曹丕の笛の演奏が始まる。
 しかしこの音は聞いた事がない。何度も何度も曹丕が奏でる音楽に触れてきたが、初めて聴くものだった。
 どこか情熱的な音だった。トロンとした目をし、甄姫は聞き惚れた。

(何だか……我が君と出会った事を思い出しますわ……)



 あの時、甄姫には夫がいた。それなのに、曹丕は「惚れた」「連れて帰る」と一歩も譲らずに口説いてきたのだ。彼に着いていくとなれば、夫の死をも意味するのに、甄姫は心の中でこの人と歩んでいきたいと思ってしまった。

(その後間もなく曹操様の手によって、袁家は滅んでしまった)

 裏切り者という罪悪感はあった。しかし……――――



「甄」
「っ!」
「どうだ?」
「え、ええっと……」

 過去の事を思い出していたなど言えず、言葉に詰まっていると、曹丕は黙って甄姫の隣に腰をかけた。程よい香の匂いがした。

「私が演奏していたというのに、呆けていたのか」

 怒らせてしまったかと思い、甄姫は首を左右に振る。

「そんな! ……実はあの音を聴いて、あなたと出会った事を思い出していたのです。情熱的なあなたの言葉……、今でも甦ってきますわ」
「……そうだったか」

 一拍置いた後、曹丕は言葉を続けた。

「この曲は私が作ったのだ。甄の為にな」
「我が君が!?」

 今日は驚いてばかりだと、甄姫は思った。
 妻の素っ頓狂な声を聞き、曹丕は思わずぷっ、と吹き出した。
 笑われてしまった事に対し、甄姫は恥ずかしさから顔を赤くしてしまった。

「今日は何の日か知っているか?」

 そう言われても思い当たる節がなかったので、首を横に振った。
 やや得意げに曹丕が言う。

「夫婦水入らずの日……だそうだ」
「まあ!」

 その言葉を聞き、甄姫は嬉しくてたまらなかった。そのような事に興味を持つような人ではなかったからだ。さらに曹丕は続ける。

「甄は勘がいい。そうだ、この曲は私とお前が出会った事を想って作ったものだ。伝わっていたのなら……、それでいい」

 ふっと曹丕は視線を逸らし、どこか照れたような態度だった。

「我が君……!」

 甄姫は曹丕の首に腕を回して抱きしめた。そして曹丕もまた、当然と言わんばかりに甄姫の腰に手を回す。

「有難う御座います、我が君……。最高の贈り物ですわ」
「フッ……。だが、今回限りだ」



 そして再び、あの出会った頃と同じ音が夜空に響き渡った――
 笛を吹く夫を眺めながら、いつまでもこの幸せが続くようにと甄姫は願った。
 この国どこ探してもここにしかない、ただ一つの曲。
 今日が過ぎても、また聴かせてとねだったら、我が君は演奏して下さるかしら? と密かに考えたのだった。






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 08/11/22…初出
 09/02/01…加筆修正