『あなたの夫は、他の者を顧みようとしない野蛮な方なのですね。さぞや苦労していると見受けられますわ』

 漢中での出来事だった。
 諸葛亮の妻・月英と対峙した際に言われた言葉だった。
 夫である曹丕を野蛮だと思った事はなく、そう言われた時すぐに血が上った。曹丕に窘(たしな)められたが、戦いが終わっても甄姫の怒りは収まる事はなかった。



「ああっ! 何たる侮辱……っ」

 自室に戻っても腹の虫は収まらず、机を手で叩(はた)いてしまう。
 品がなくみっともないと思えど、ではこの怒りはどこへやればいいのか。

「我が君は、そんなお人じゃありませんわっ」

 他の誰よりも理想が高く、早急に国を一つにまとめようと各地を奔走しているのだ。多少の犠牲は付き物だろう。
 それのどこが野蛮だと言うのか。甄姫には納得出来なかった。
 すると部屋の扉を叩く音が聞こえた。甄姫は立ち上がり扉を開けると、そこには曹丕の姿があった。

「我が君……」
「甄、時間は平気か?」
「ええ」

 どことなく曹丕の表情は憂いがあった。……というより、うんざりしているような感じだった。
 やはり漢中でのあのやりとりが気に障ってしまったのだろうか? 甄姫は言い出せず、得体の知れない恐怖感に包まれた。
 黙っていると、曹丕から話し始めてきた。

「私は頼りない奴か?」
「えっ?」
「甄の目から見て、私は頼りない奴かと聞いている」

 想像もした事ない台詞だった。何故こんな話をしているのかさえ判らない。
 ぽかんと見つめていると、曹丕は小さく溜め息をついた。

「どうなさったのですか? 我が君。そんな事を仰るなんて、らしくありませんわ」
「……」
「一体、何があったのですか」
「甄は――」

 甄姫の名を強く言い、いつもと変わらぬ威厳のある口調で続けた。

「私が夫である事を恥だと思っているか」
「っ!?」

 思ってもいなかった台詞に、甄姫は身を固くさせる。すぐに我に戻り、頭を左右に振って否定した。

「何を仰るのです、我が君! わたくしはあなたが夫である事を恥じた事など、嫁いだ時から一度たりとも心に思った事などありませぬ!!」

 言い切った後に甄姫は頬を赤くし、そのまま俯いて「すみません」と謝った。熱く言ってしまった事に対し、曹丕はみっともないと感じてしまっただろう。そう考えると、次に語る言葉が出てこなかった。
 おそるおそる顔を上げると、曹丕は表情一つ変えずに甄姫の姿を見ていた。
 気のせいか硬くなっていた目元が柔らかくなっている。

「……そうか。それならいい」

 曹丕は甄姫に自分の隣に座るよう促した。甄姫が座ると、彼女の肩を抱き寄せ静かに抱きしめた。そのまま曹丕の胸に埋まるようにして、甄姫は顔を付けた。

「どうなさったのですか……?」
「漢中での戦いの最中(さなか)、諸葛亮の妻の言葉がどうも引っかかってな」
「まあ、いつもなら他の者の言葉など耳に入れないのに?」

 少しだけ月英に嫉妬してしまう。それだけ彼女の言葉には、誰かを動かす力があるというのだろう。

「奴とお前のやり取りを耳にして感じた事がある。……私の知らぬところで、甄に迷惑ばかりかけているのではと思ったのだ」

 あれだけ曹丕の事を悪く言われても、甄姫は毅然と夫を立てようと奮起していた。曹丕が周りからどれだけ攻められようとも、彼女は気丈に振る舞い続けて手助けしてくれている。
 その時はなにも感じなかったが、今回は戦いが終わった後、漠然とした不安が過ぎって離れなかった。
 ――このような夫を持たなければ良かった。

 そう、甄姫は思っているのではないか?

 ――甄姫に嫌われてしまうのが怖かった。

「我が君……」
「どうも私は目の前の事に囚われると、他が見えにくくなるようだ」

 自嘲するように曹丕が言う。
 甄姫は埋(うず)めていた顔を上げ、曹丕の頬に手を伸ばし触れた。

「それが我が君です。わたくしはそんな貴方について行こうと、あの時から決めたのです。迷惑なんて思っておりませんわ」
「甄……」
「ですから……亡き曹操様の悲願でもある、この魏国を共に一つにまとめ上げましょう」

 曹丕は甄姫の手を取り、手の甲に唇を当てた。
 その表情は読めなかったが、ここへ来た時のような強張りは消えていた。

「感謝する……、甄」
「いいえ」

 甄姫を抱きしめる腕の強さは増していき、二人は見つめ合い唇を重ね合わせる。
 この時甄姫は、少しだけ月英との言葉の応酬に感謝した。




 09/03/05