周瑜の元に一通の密書が届いた。宛先人は不明であったが、立場が近い人物という証拠の判が押してあった。その場から席を立ち、そっとその手紙の内容に目を通した。
読み終わる頃には、周瑜の双眸は大きく見開かれ、わなわなと手を震わせていた。
「陸遜が内部の情報を漏らしているだと……?!」
にわかには信じられなかったが、思い当たりそうな事があったため、全否定は出来なかった。
陸遜は宿敵である、蜀の軍師・諸葛亮の知勇に陶酔している。前に一度周瑜と陸遜、そして諸葛亮と顔を合わせた事があったが、彼の尊敬の念は凄まじいものがあった事を覚えていた。
――それは呉を裏切りかねないくらいに。
周瑜はその事を心配し、念を押しに押して陸遜に問いつめた。すると「人生の先輩として尊敬しているだけです。孫呉を裏切るような事は絶対に致しません」と、まだ幼さが残る双眸で語った。それ以来、周瑜もしつこく聞くような事はしなくなった。
「まさか……、気が変わったというのか?」
ここ数日は毎日のように顔を合わせていたのに、その裏で謀反を考えていたとは思いたくない。
周瑜は頭を振って、悪い考えを起こさないようにした。……が、やはり不安は大きいらしく、全身から動揺を隠せないでいた。
もし、陸遜が裏切りでもしたら呉は大変な事になる。
周瑜ですら陸遜の可能性はどこまで続いているのか判らない。なのにもかかわらず、諸葛亮の元、蜀の元へ行ってしまったらどうなるだろうか? 呉だけではなく、魏すら丸々と呑み込んで支配しかねないだろう。想像するだけでも恐ろしい。
「これ以上思い通りにはさせぬぞ……、諸葛亮っ!」
その場で密書を破り捨て、周瑜は足早に去っていった。
「わかったよ、陸遜様っ!」
「宜しくお願いします、小喬殿」
自室へ向かう途中、周瑜の妻・小喬と陸遜が会話しているところを目撃した。
先程の事もあり、周瑜は何気ない光景にも神経を尖らせた。
陸遜が立ち去った後、小喬のもとへ真っ直ぐに向かい、彼女の腕を掴んだ。
「きゃっ! しゅ、周瑜様!? 痛いよぉ!」
「今陸遜と何を話していたのだ」
「大した事じゃないよぉ〜、放してよ周瑜様っ!」
何かを逸らそうとする小喬の態度に、周瑜は眉をひそめ強い口調で言う。
「陸遜は今、嫌疑にかけられているのだ! ……私は彼の無実を証明したい。お願いだ、小喬。陸遜と何を話していたのだ……」
「ご、ごめんなさい……。言えないよ……。でもね、悪い事じゃないの! 陸遜様はただ――」
「もうよい!!」
強く握られていた小喬の腕は解放され、代わりに周瑜の怒号が響き渡った。いつもは優しい夫の変貌に、びくんと体を震え上がらせる。丸く愛らしい瞳には、じわじわと涙が溜まっていった。
その姿を見た途端、周瑜に後悔が押し寄せてきた。彼女と目を合わさず、行き場を失った視線が宙を漂う。
「しゅ……周瑜様……っ」
「…………すまぬ、少し頭を冷やしてくる」
「ごめんなさい……っ、今は、今は言えないの……」
すすり泣く小喬の声が胸に痛い。
周瑜は「すまない」という言葉をかける事と、彼女の傍から去る事しか出来なかった。
それから三日後――
陸遜の不審な行動は他の者にも広がっているらしく、この日何度か周瑜に提言したいと言ってくる者が出てきた。
やはりあの時、もう少し小喬に問いただしておけばよかったかと、後悔する。
最近は後悔してばかりだなと、周瑜は心の中で自嘲した。
「私は……、どうすればよいのだ」
孫策なら何て言うだろう?
「黙ってないで、恐れずに聞けばいいじゃねぇか」とでも言うだろうか……。
怖いのだ、とても。陸遜が呉を離れていってしまうのではないかと考えるだけで、胸が張り裂けそうな程恐怖に押し潰されるのだ。
いずれ周瑜も死んでしまうだろう。その前に自分の後継者を作っておかねばならない。そこで目に付けたのが陸遜だった。
しかし、ここで諸葛亮という影が出来てしまった。
せっかくここまでやってきたのに、とられてしまっては水の泡になる。周瑜の教えてきた事全てを否定されるようで怖かった。
……それでも、それでも孫策ならなんと言うだろうか?
「孫策……。私は……」
「周瑜殿?」
後ろから何者かに声をかけられ、周瑜は息を呑んだ。
振り向くと、不思議そうな顔をしている陸遜の姿があった。
「どうかなさいましたか?」
「あ……、い、いや。何でもない」
「少し、お時間よろしいですか?」
「あ、ああ」
「では、こちらへ来て下さい! さあ、早く!」
そう言って、陸遜は周瑜の手を引っ張った。
「そう急かすな! 陸遜っ」
「早く早くっ! 小喬殿もお待ちかねですよっ」
「小喬が……?」
ますます周瑜の頭の中が混乱していった。
陸遜の案内で部屋へ辿り着くと、目の前に大量の料理と包みが飛び込んできた。それを見るやいなや周瑜の目は大きくなり、ぼうっとなった。
「周瑜様っ! 誕生日おめでとう!!」
「おめでとうございますっ、周瑜殿!」
小喬と大喬の明るい声と、手を叩く音がこだまする。間を置き、周瑜はボソリと呟いた。
「何だ、これは……」
小喬が近寄っていき、笑いながらこう言った。
「忘れちゃったの?! 今日は周瑜様のお誕生日でしょ?」
「あ……」
多忙な日々に追われていたせいか、すっかり忘れていた。思い出したように「そうだったな」と言うと、小喬は頬をむうっと膨らまして「しっかりしてよぉ!」と怒った。
大喬が手に笛を持って、周瑜の前にやって来た。
「陸遜様が各地に飛び回って、色々なものを手に入れてきたのですよ。ほら、この笛は蜀の領土の近くで作られているもので、とても音がいいんですって」
「陸遜が……? 蜀の付近まで行って、これを……?」
「大変危険だとは思いましたが、周瑜殿には日々お世話になっているので……。このくらい平気です!」
それを聞いた周瑜は、今までの事が全て合点いった。その途端に体中の力が抜けていき、ヘナヘナとその場に座り込んでしまった。
「周瑜様っ!? 大丈夫? どこか具合悪いの?」
心配そうに顔を覗く小喬に、「大丈夫だ」と言って笑いかけた。
「少しな……取り越し苦労をしてしまったようだ」
「それって、この間の事?」
「ああ。あの時は本当に悪い事をした、小喬……」
「いいよ。あたしは周瑜様の取り越し苦労、ってのが取れた方が嬉しいよ!」
ふと陸遜の方に振り向き、周瑜はポツリと呟く。
「陸遜」
「はい!」
「あとで説教だ。私の部屋に来るがよい」
「ええっ!?」
「ああ〜っ、陸遜様、何か悪い事したんだぁ〜!」
からかう小喬に、陸遜はたじろぐばかりだった。
大喬が両手をパンパン、と叩いて声をかける。
「ほら、陸遜殿、小喬。周瑜様にもう一度お祝いの言葉をかけましょう」
周瑜は少し照れたように微笑むと、三人は声を揃えて言った。
「誕生日おめでとう(ございます)! 周瑜殿(様)!」
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