「司馬懿……許ルサン……!! 殺ス!!」

 司馬懿の思惑は意外なところで外れ、蜀への憎しみを煽ったはずの魏延が本陣に向かってやって来る。誤算を出してしまい、司馬懿の口から困惑の声が上がった。

「ほお……。仲達の策が外れる事もあるのだな」

 曹丕は皮肉げに吐き捨てる。内心彼の心も焦りの色で染まっていた。それを知らない司馬懿は曹丕のいる方向へ向き直り、ギリッと睨み付けた。暗闇に姿がとけ込んでいるため、お互いの表情はよく分からない。

「くっ……! 劉備の心情までは騙れなかったか」

 もしあのまま魏延が諸葛亮と劉備さえ殺していれば、魏は無駄な兵力を消費せずに勝てた。その後は上手く魏延を丸め込め、早急に彼を処刑すればいいと考えていた。だが今はそれどころではない。魏……司馬懿に対する憎悪を抱きながら、魏延はこちらへと向かってきているのだ。彼を抹殺するために。

「私が奴を食い止めよう」
「っ!? 殿……っ」
「それまでに最善の策でも考えているがいい」

 そう言うと、数人の部下を引き連れて馬に乗り込み、曹丕は本陣を後にした。言葉数の少ない彼なりの気遣いだった。
 眉間に皺を幾度も寄せて、司馬懿は曹丕の後ろ姿を眺めた。その刹那、雑兵とみられる叫び声が辺り一面に響いた。双眸を見開いて声のした向こう側を見ると、錘を両手に持ち禍々しい気迫に満ちた魏延が立っていた。

「もう来たのか!?」

 もはや策など考えている暇はなかった。奴を倒すほかないと判断し、司馬懿は本陣から駆けだした。



「ドケ……!! 司馬懿…ドコ行ッタ!?」
「随分と切羽詰まっているのだな」
「答エロ……!!」

 曹丕の頭上を目がけて、魏延は力一杯に錘を振り下ろした。紙一重のところでそれを交わし、敵の腹を狙って曹丕は長剣を横へ流すように振る。魏延は振り下ろしたばかりの錘を瞬時に移動させ、攻撃を受け止めた。金属同士のつんざく音が響き渡った。

「生憎この先は通さぬ事になっている」
「曹丕……ッ、司馬懿…カバウノカ……!!」
「ふっ。どうだかな!」

 力と力が耐えきれなくなったその時、二人は跳躍して距離を保つ。
 先制をかけてきたのは魏延だった。

「グアアアアアアアッ!!!!」
「っ!?」

 突撃と同時に重い一撃が剣身にぶつかる。肩にまで伝わる強い衝撃にその攻撃を受け止められず、曹丕の手から長剣が外れてしまった。

「曹丕…死ネェェェェ!!!!」
「っ」

 真っ直ぐに降りてくる錘を交わそうとしたのだが、思うように体が動いてくれない。いや、魏延の攻撃が早すぎた。

「グ……ッ?」
「…………」

 振り下ろした時に生じる風を感じない。
 魏延は腕を上げたまま曹丕の前に立ちつくしていた。何が起きたのだろうか?

「世話のかかる殿だ……、馬鹿め!!」

 魏延の斜め後ろに司馬懿が立っており、彼の武器である鉄爪から伸びた鉄糸が魏延の腕を絡め取っていたのだ。その隙に曹丕はその場から離れ、弾かれた長剣を再び手中へと収めた。
 司馬懿はそれを確認すると、糸を切り魏延を横倒しにする。

「仲達、なぜ助けた」
「ふんっ、貴様がいなければこの国は誰が治めるのだ」
「……その様子を見るからに、強行突破しかないのだな?」
「止む得ぬ……っ」

 司馬懿の姿を見た魏延は更に力を増し、仮面の下にある双眸を大きく開き叫んだ。

「司馬懿……見ツケタ……!! オ前…殺ス……!!」




 その頃本陣とは離れた場所で戦っていた張コウの元に、伝令を伝える雑兵が息絶え絶えで駆けてきた。

「ちょ……張コウ殿!!」
「何です? そんなに死にそうな顔をして」

 ちょうど砦を制圧したばかりの張コウには、少しばかり余裕があった。

「ほ、本陣に敵が……! しかも曹丕様と司馬懿殿を圧倒させております!! このままではお二人がやられてしまうのも時間の問題です!」
「何と! そちらに援軍は行ってないのですか」
「は、はい……。本陣から一番近い人を捜していたところ、張コウ殿に会ったのです」
「判りました。すぐにそちらへ向かいましょう!」

 話を聞いている最中は厳しい表情をしていた張コウだったが、いつもと変わらぬ明るい表情に切り替えて、飛ぶようにして本陣へと急行したのだった。




「がは……っ!」

 攻撃が腹に当たり、司馬懿は吐血しうつ伏せでその場に倒れ込んだ。
 曹丕はと言うと、魏延の援軍に駆けつけた将達相手に手こずっている。既に彼の体からは、無数の場所から血が流れ出ていた。立って構えているのがやっとだ。

「く、くそっ……!」

 司馬懿も同様に、傷付き立ち上がる気力すら失いかけていた。『生』という本能だけが彼を支えている。

「司馬懿…終ワリダ……。死ネ!!」

 ここまでかと、覚悟を決めた。

「まだ終わりではありませんよっ! 司馬懿殿!!」
「何……?」

 魏延の攻撃を受け止め、弾き返したのは張コウだった。
 予想外の敵に、魏延は戸惑う。

「あ……」
「私が来たからにはもう大丈夫ですよ!」
「ぐ……っ、苦戦など……しておらん…っ」
「その体でよく言いますね」

 流石に返す言葉もなく、司馬懿は黙り込んだ。

「オ前……邪魔……、ドケ!!」
「いいえ。どいて頂くのは貴方ですよ!」

 先端が鋭く光る鉄鈎を構え、張コウは魏延へ攻め込んだ。




「馬鹿ナ……!? 俺ガ、負ケタ…?」

 張コウの一撃が入り、魏延の体は地面へと叩きつけられた。
 その後曹丕が相手している敵将達も打ち破り、ひとまず目の前の困難は乗り越える事が出来た。

「曹丕殿、大丈夫ですか」
「ああ……。これくらい平気だ……」

 肩で息しながら曹丕は言う。
 くいっと顎でその場所を指し、更に言葉を続ける。

「仲達はいいのか?」
「ああ、様子見てきますね」

 曹丕同様肩で息をしている司馬懿は、脇腹付近を押さえながらしゃがみ込んでいた。
 張コウが顔を覗こうとすると、ふいっと逸らす。まるで子供のようだ。

「私は苦戦などしていなかった! あれは敵攻略の為相手を探っていて……」
「もういいですよ、司馬懿殿。判りましたから」

 苦笑しながら張コウが言った。
 凡人のくせに司馬懿の全てを見透かしているかのような口調に、どこからともなく怒りが湧いてきた。
 張コウは涼やかに微笑んでいる。怒りを爆発させる気も失せ、司馬懿もまた小さく微笑んだ。

「……援軍に来てくれて、助かった」
「……何か言いましたか? 司馬懿殿」
「何でもないわ」
「では、傷の手当てを簡単に済ませたのち、蜀の本陣へ向かいますよ」
「ああ」

 そう言うと、司馬懿の意識はふっと白くなった。






 09/03/14