家臣の変貌
司馬懿が君主である曹丕子桓に叛旗を翻したのは、今にも天候が崩れてきそうな薄暗い日だった。
彼が地方へ視察へ行っている間に起こした確信的な謀反は、城内に残っていた者達を震撼させた。司馬懿に逆らう者はその場で殺されて見せしめにされた首を見た時、人々は己の命を守るために、はたまた彼と同じ野望を達成しようと司馬懿仲達についていく。その中には曹丕の部下である張コウシュンガイの姿もあった――。
「馬鹿め、逆らわなければ命を落とさずに済んだものの……」
汚いものを見て不快感を示すように言葉をはき、鉄爪を自分の方へと引けば、目の前にいた文官の胸から紅い体液が一気に噴出し床に散らばった。爪に付いた血液を露払いし、司馬懿は元来た道を引き返そうとした。
「司馬懿殿は顔に似合わず、血がお好きなんですね」
ふと言葉をかけられ振り向くと、張コウがうっすらと笑んでこちらを見ている。
しかし司馬懿には判らない事が一つある。――それは、何故曹丕に忠誠を誓っていた張コウが司馬懿に付き添い、自ら謀反人となろうとしているのかだった。今の立場を理解しているのか――?
「仕方あるまい。邪魔者は全てこの城から排除せねば、我が物にはならぬからな」
「結構な事ですね。ですが美しくはありません」
「…………」
隣にいる男はよく判らない奴だ。いくら思考を回転させても、納得のいく答えに導かれない。
張コウは妖しく口元を上げると、普段とは違う冷たい声を出す。様子が変わったのを感じ、司馬懿はハッと見上げた。
「あなたが不要だと思う人々を、私の前に並べれば一瞬にして始末してあげますが。そうすれば手を汚す必要はなくなりますよ?」
張コウは鉤爪を横に切って言った。その表情は戦場に立っている時と同じ、情のない冷酷なものだった。
その時司馬懿は刹那に身震いを起こし、張コウから視線を逸らす。クスクスと喉を鳴らすような笑い声が鼓膜に突き刺さる。
「そのようなお気持ちでいてはいけませんよ、司馬懿殿。あなたは曹丕殿に弓を引いたのですから」
「……っ! 判っておるわ!」
「では、何故そんなにも怯えているのです?」
張コウから発せられた言の葉の意味が理解出来ない。怯える? 私が? いつ――――
歩幅を緩め司馬懿は目を瞑る。そこに再び張コウの高く妖艶な声が届く。
「あなたの怯えや恐れは私が引き払いましょう」
「何だと?」
「つまり」
鉤爪の付いていない方の手で、司馬懿の鼻先をつついた。
突然の事に怒るのも忘れ、ただ呆然とされるがままでいる。
「いつ、味方だと言った者から裏切られ、あなた自身の命を狙ってくるか判らない。それが司馬懿仲達の怯えなのでしょう?」
「…………っ」
「あなたが下す鉄爪には迷いがある……と言いますか、恐怖心の対象をがむしゃらに排除していると言いますか……。美しくありません」
その言葉に司馬懿はグッと奥歯を噛み締めた。胸からふつふつと湧き上がる怒りを抑えながら、低い声をならした。
「何が言いたいのだ、貴様は」
張コウは怖じ気づかず、さも当然と言わんばかりに口を開く。
「あなたの憂いを無くすため、協力いたしましょう」
「はあ?」
張コウの瓢箪から駒といった発言で、どうすればそういう結論に至るのかしばらく黙り込んでしまった。
怪訝な表情を浮かべている司馬懿に対し、張コウは爽やかに微笑んでいる。
「仲間が思った以上に少なくて心細いのでしょう? なら私があなたの傍にいて差し上げますよ」
「何を思い上がった事を!」
「照れなくてもいいんですよ?」
「照れてなどおらぬわっ!!」
そうやりとりをしていると、どこから沓音《くつおと》がこちらに向かって響いてきた。おそらくは司馬懿に反感を抱いている人達が追ってきたのだろう。司馬懿は面倒事が無くならない事に軽く舌打ちをする。
いつの間にか隣にいたはずの張コウが背を向けて、司馬懿の目の前に立っていた。両手には幾千もの血を受けてきた鉤爪を装備している。刃には曇りはなく、日々怠らずに手入れをしてきているのが判った。
張コウは振り向かずに、軽い調子で語りかけた。
「司馬懿殿は下がっていて下さい。ここは私が」
「私も戦えるっ! この足音では二〜三十人程はいるぞ!」
「……私を誰だと思っているのです?」
振り向いた張コウの表情は晴れやかで、緊張が走っていた司馬懿の神経を和ませた。
「大丈夫です、すぐに駆けつけます」
並みならぬ気迫に遂に司馬懿は折れ、聞き取れないくらい小さな声で呟いた。
「……無理はするな」
微かに張コウが笑ったような気がしたが、今は追求をやめておこう。
表情を引き締め、互いに背を向けて駆けだした。
「死なないで下さいね、司馬懿殿。たった今からあなたが私の君主なのですから」
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09/11/02
あとがき
久し振りにショートショートショートを書きました。
吉川三国志を読んで、ここでも司馬懿と張コウの絡みがあったので、ふと書きたくなって書きました。
個人的には5の二人のやりとりが大好きです!