所詮は子供だとばかり思っていた。故に彼女を甘く見ていた。
 その“子供”に綾御前は面白いように転がらされている。綾が困惑すればするほど、彼女は無垢な笑顔を向けてきた。
 この日は上杉謙信が率いる上杉軍が、敵である織田信長を討つべく上洛していた。謙信の姉である綾もまた彼らを鼓舞すべく同行し、共に戦っていた。
 長刀を振るい雑兵を倒している最中、綾の視界の脇に不思議なものが映り込む。普通の朱とは違う落ち着いた赤色の髪の毛に、少々変わった羽織りものを召し、透き通るような白い肌をした少女が居たのだ。一瞬幻覚でも見たかと、強く目を閉じてから再度開いてみても変わらず少女は映っていた。細い身体に似合わない体術を使いこなし、上杉軍の雑兵を薙ぎ払っていく。

「まあ……」

 綾は長刀を降ろし、少女の方へ駆け寄っていくと向こうも気づき、拳を振り下ろすのを止めて真っ直ぐに綾を見る。

「こんにちは。あなたみたいなお嬢様もこのようなところに居るなんて……、驚きですわ」
「? お主は何者じゃ? 上杉の者か?」

 小首を傾げて少女は質問する。戦場には似合わない快活な声に、綾はクスリと微笑んで答えた。

「ええ、上杉謙信が姉、綾と申します」
「ううむ、綾と申すのか。わらわはガラシャと申す! よろしくなのじゃ!!」

 ガラシャは心からの笑顔を綾に向けて右手を差し伸べてきた。眉尻を僅かに上げ、綾は一歩引き下がる。

「何が目的なのですか? ここにいる以上、あなたも織田の人間なのでしょう」
「わらわは織田の人間ではないぞ! 孫についてきただけなのじゃ」
「孫……、とは?」
「雑賀孫市はわらわのダチじゃ!」

 そう言われてようやく理解した。
 ――雑賀孫市。確か信長の配下・木下藤吉郎に雇われた雑賀衆の頭領だったはず。奇妙な二人の関係に疑問を抱きつつ、綾は手にしていた長刀をガラシャに向けて抑揚のない声で言う。

「判りました。ならば私はあなたを倒さねばなりません」
「っ!? どうしてじゃ、綾殿っ」
「どうしてですって? 単純明快な答えです、私とあなたは敵だから」

 そう言うとガラシャは今にも泣きそうな表情を浮かべ、人懐っこい双眸を涙で潤ませた。口を小さく開き、何か伝えたそうにうごめいている。普段は誰に対しても冷徹な態度をとっているが、ガラシャのその姿を見ているだけで良心がズキリと痛んだ。謙信の為、ここは厳しくいかねば――。奥底で疼いている言葉を押し殺し、反対の言葉を綾はガラシャに向けた。

「言葉遊びはもう良いでしょう、ガラシャ。さあ、あなたもかかってきなさい。全力でお相手致しましょう!」
「た、戦わなきゃならぬのか? わらわには綾殿は悪い人には見えぬっ。だから、だから……っ!」
「……っ!? いい加減になさい! それともあなたは私に斬られて死にたいのですか!?」
「死んではならぬと孫と約束した! だからそれだけは出来ぬ!!」

 油断していたと後になって綾は思った。
 少女とは思えぬ瞬発力で回り込んできたガラシャは、あっという間に綾の体勢を崩し馬乗りになる形で押し倒した。
長刀の柄を使って追い払おうとしたが、利き手を奪われて思うように動かず仕舞いには両手首を掴まれる状態になってしまった。不覚、と、綾は唇を噛んだ。

「綾殿、すまぬ……」

 このような状況になってすら、ガラシャは謝罪の言葉を向けてくる。
 ズキリ、ズキリ、と胸の奥の痛みが激しくなっていくのを、否が応でも感じていた。

「くっ……」
「どうか退いてはくれぬか? 傷つけたくないのじゃ」
「それは……出来ません……っ」
「何故じゃ!? そこまで綾殿を動かしているものとは何だ!?」

 教えて欲しいのじゃ、と、消えるようなか細い声でガラシャは呟いた。その問いに当然とばかりに綾は答える。

「謙信を支え、かの者の夢を、天下統一を叶える為です」

 一瞬手首を捉えていたガラシャの力が緩んだのを見、力一杯前方に突き飛ばした。少女はあっという間に吹き飛び、固い地面に尻餅をつく。ガラシャは下に向いていた顔を上げ、曇りのない眼差しで綾を見据えこう口を割った。

「そうか……。ではどうしても戦わなければならぬのじゃな……」
「あなたにも譲れないものがあるのでしょう?」

 そう言われたガラシャは、どこか困ったように眉を潜め微笑んだ。

「綾殿と仲良くなれるかと思った……。皆が分かち合えれば、戦はなくなるのにな」

 けどそれは所詮理想論でしかない事くらい綾は知っていた。しかし目の前にいる少女はどう考えているのであろう? 恐らく人間はいつか皆手を取り合って生きていける、そう思っているのではないか。憎しみも野望も超え、本当の泰平が訪れる日があると考えているのではないか……。
 自然と綾は唇を動かし、弟が常日頃言い続ける言葉を口にした。

「……ガラシャ殿。あなたは義、を信じますか?」
「義? 義とは何じゃ?」

 心持ち上擦った声で聞き返すガラシャに、綾は穏やかな口調で続ける。

「義とは相手を重んじて行動する心。信長公のようにむやみに領土を荒らさず、人を虐げず、心と心を持って接する事。それが我が弟である謙信が目指している日の本なのです」

 気分良さそうに雄弁を奮っていた綾だったが、次に発せられるガラシャの質問に固まってしまった。

「……では何故《なにゆえ》謙信公は戦を繰り返すのじゃ?」
「うっ、そ、それは……」

 言葉に詰まり言い淀んでいた綾に、ガラシャは「あ!」と叫び両手を胸の前で合わせ前へ進み出る。唐突に立ち上がり歩いてきた事に驚き、柄を強く握った。
 ガラシャは長刀を握っている綾の掌《てのひら》ごと己の手の平で包み込み、キラキラと緑色の双眸を輝かせこう提案してきたのだった。

「そうじゃ、まずはわらわと義の契りを結べばよいのじゃ!」
「っ! な、何を突然……っ!」
「むむ? 義を結べば戦わずに済むのではないのか?」
「……はっ」

 確かにそれらしき事を喋ったが、まさかこのような形で義を持ってこられるとは思いもしなかった。
自分に真っ直ぐ向けられる純真な姿を前に、綾はただたじろぐ事しか出来ずにいた。反対にガラシャは視線を右往左往に泳がせている綾を見て、どことなく楽しそうだった。

「大人をからかうのはよくありませんよっ、ガラシャ殿!」
「わらわはからかってなどおらぬ。真に綾殿と義の契りを結びたいのじゃ!」
「で、ですから……っ」

 その言葉の続きを言おうとしたのだが、上手く発することが出来なかった。
 それもそうである。――ガラシャの唇によって塞がれていたのだから。目を見開いたまま、綾は呆然とされるがままになる。啄むような口づけは幾度と無く角度を変え、綾の唇全体を味わうように触れていった。
 やがて静かに離れていき、悪戯をした子供のような笑顔が視界に映る。

「これでわらわと綾殿は義の契りをかわしたぞ?」
「…………」
「? どうしたのじゃ綾殿。顔が真っ赤じゃ! 風邪でも引いたのか?」
「……ません……」
「へっ?」

 綾から発せられる異様な怒気に気付き、ガラシャは一歩後ろへ下がった。柄を握る力が強くなり、そのまま思い切り横へ薙ぎ払うが、間一髪のところで攻撃を避けられてしまった。

「許しませんよ、ガラシャ殿!! よりによって女同士で……っ! 仏に代わって、天罰を下します!!」
「あ、綾殿っ!? そのように怒らなくても……」
「他言無用! ご覚悟!!」



 この日の上杉の日誌には、普段見られないような綾御前の姿が各所で発見されたと記されているのであった……――。






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 10/06/08