寝て暮らせる世は旗の向こう






 硝煙が漂う姉川の向こう岸に、浅井家の家紋が入った旗が風になびいている。
 半兵衛は目を細めてその旗の下にいるであろう人物を思い浮かべ、何故こうなってしまったのだろうかと悔やんだ。

「半兵衛」

 背中から聞こえた声に反応し振り向くと、主である羽柴秀吉が半兵衛と同じ表情をして立っていた。半兵衛は奥歯を噛み締め、何処か悔しげに秀吉を見つめた。

「……秀吉殿ですか」
「すまない! ……こんな、こんな事態になってしもうて!」
「…………」

 膝を地面に着け秀吉は頭を下げるのを見て、半兵衛は慌てて秀吉の腕を掴み立ち上がらせようとしたが、一向に動こうとしない。こういう事をして欲しい為に怒っている訳ではないと言っても、秀吉はただひたすら半兵衛に頭を下げ続けた。

「信長様さえ止められれば、長政はこんな状況にならずにすんだんさ! けど、けどわしは……っ、信長様を止めるどころかただ従うだけなんじゃ……! でないと……っ」

 ――『一族は皆殺される』
 秀吉の会話の続きも、その先の現実も、半兵衛には判っている。彼が抱いている理想というものは、信長の前では愚かな戯言という事も理解していた。まだ信長の傍で働いて幾ばくもないが、その凶悪な攻め方には唖然とするしかない。進言して彼の逆鱗に触れでもしたら、翌日には胴から頭はないものだろう。
 頭を土につけている秀吉に対し、半兵衛は優しく声をかけた。

「しょうがないですよ、秀吉殿。だって信長様に逆らったらあなたの命だけではなく、俺や他の家臣にも影響が出るからね。それを避けるために命令に従っているだけでしょ?」
「けど……っ!!」

 急に顔を上げ、秀吉は涙と鼻水に濡れた姿で半兵衛に力説した。

「じゃが……半兵衛、お前にとったら長政は世話になった人じゃろう! わしの客人とはいえ、こんな戦に参加させてしまった……」
「うん。確かに長政様とは親交はあったけどさ……。けど、これが運命なのかもしれない」

 おそらく浅井は信長の手によって滅亡する。半兵衛は心の何処かで区切りがついているのかも知れない。だからこそ、今自分に出来る事をしようと思うのだ。それはこの目で浅井長政の死に様を、魂に焼き付け二度と同じ悲劇を繰り返さない世の中にさせる事。これが長政の死を無駄にしない唯一の方法だと半兵衛は感じていた。

「秀吉様もさ、長政様の死を無駄にしたくないなら、ちゃんと現実を受け止めなきゃ」
「半兵衛……」
「…………してくれるんでしょ? 皆が寝て暮らせる世に」

 薄く消えそうな笑みを浮かべ、半兵衛は手を差し伸べた。まだ秀吉に仕える事を決めた訳ではないが、心のどこかで彼の創り出す泰平の世への期待も込められている。
 秀吉はというとまた泣きそうに顔を歪めて、外見に似合わず現実を見据えた発言をする青年を見つめ、土埃にまみれた手の甲で鼻の頭を擦って小さく笑った。

「……そうじゃな、…そうじゃ……。ワシにはやるべき事があるんじゃ」
「じゃあ、こんなところで立ち止まってはいられないですよね?」
「ああ!」

 気が進まないのは半兵衛だって同じで、誰しも親しくしていた人間を滅ぼそうなど考えたくもないのだ。
 しかし時は残酷で、考える暇を与えてくれない。それならどうすればいいのか……? ――歩き続けるしか方法はない。

「最低限被害を抑えられるように、俺も頑張るからさ。秀吉様も頑張ろうよ」
「ああ、頼むぞ、半兵衛!」



 二人の目先には浅井の家紋が、力強くなびいている。
 まるであの旗の揺らめきは、長政の士気を表しているようでもあった。

「さようなら、長政様……。あなたの思い、絶対に無駄にはしないよ」

 双眸を細めて半兵衛は呟き、激戦地の中へと駒を進めた。






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 10/03/03