+++差し伸べられた手をとり+++






 三日月が深い紺色に浮かび出る晩に、光秀は元親に誘われ船に乗っていた。
 漁師が操るような舟ではなく、貨物を積み大量の弓矢が置かれた巨大な船である。織田が所有しているようなものではなく、瀬戸内特有の高い武装と圧倒されるような物々しさが、光秀の口に転がせていた言葉を失わせた。

 先の戦いにより既に長宗我部は織田軍の手に落ちており、残る巨大抵抗勢力は毛利と北条のみとなった。
 今回元親が光秀と共に行動しているのは、海軍を持つ毛利軍と一戦を交える為だ。織田は陸戦には強いが海戦には弱いといっていいほうだ。そこで信長は海軍を持つ長宗我部・九鬼を力で屈服させ味方につけると、来るべき毛利との戦いにすぐさま備えたのだ。それだけではなく信長は、少なからず縁のある元親と光秀に期待もかけていた。



「ふう……」

 手すりに両手を載せ、光秀は腹の底から息をはくように深呼吸をする。
 夕闇に隠れてよく見えないが、顔色は青白く視線もどこか力弱い。慣れない海の上で船酔いを起こし、先程から数回船の上から戻している。しかし一向に気分は快方には向かわず、逆に悪化しているような気がした。今までに経験した事のない悪心に光秀は心底参ってしまっていた。
そこに酒の瓶を片手に持ちながら元親が、光秀の方に向かって歩いてきた。

「船酔いか?」
「……ええ、そのようです……」

 弱々しく微笑む光秀を見、元親は鼻で笑うと瓶の縁に口を付けて酒をあおる。強い酒臭が鼻孔に入ると、光秀は先よりも強く悪心を感じ、元親の顔から視線を背けた。
 僅かに眉を寄せ視線を泳がせた光秀に気付くと、元親はなんの躊躇いもなく手にしていた酒瓶を闇へと化した海へと投げ捨てる。数秒おいたのち、水がはねる音と共に大きな波紋が作られ消えていく。

「勿体ない事をしますね。元親殿は」

 己の体調が悪くてしかめ面をするのではなく、何処か気を遣わせてしまった事に申し訳なく思い、光秀は眉間の皺を更に深くさせた。ふと横目で隣を見ると、悪びれる様子もなく元親は消えていく波紋を眺めているだけだった。いつになく冷静な声色で元親は口を開く。

「勿体なくはない。酒ならいつでも飲める」
「……しかし、私を気にしなくても良いのですよ」
「お前を気にして、ではない。これは俺の意思だ」

 元親は当然の如く断言する。どうもこのような性格の人間に慣れていない光秀は、曖昧に相打ちを返し眸《め》を伏せた。
若干気分が良くなってきた気がする。恐らく元親と会話して悪心から気を紛らわす事が出来たからだろう。しかし会話を止めると、再び腹の底から吐き気が湧き上がるのは変わらなかった。

「そろそろ地上に降りるか。その様子だと体力の回復も出来んだろう」
「そうして頂けると助かります」

 弱々しく目を細める光秀に、元親は呆れたような困ったような微妙な笑みを口元に浮かべる。

「お前はしょっちゅう振り回されているだろう?」
「……え?」
「連日衝突の絶えない坂本の民を相手し、信長の命を忠実に従い怒濤の戦の場数をこなし疲れ切っている中、今晩俺の誘いに載った……。断る事も出来た誘いに、お前は何故受けたのだ」

 柔和に緩めた先の双眸とはうってかわり、攻めたてるように鋭く光秀を貫いている。
今まで当然だと思ってやってきた事を指摘され光秀は狼狽した。真っ直ぐに向けられた視線から逃れるように背け、消えかかりそうな声で元親に問うた。

「あ、あの……、私は元親殿に……何か、気に障る事をしたのでしょうか……?」

 おそるおそる口にした言葉に「言わなければよかった」と後悔しても遅く、目の前にいる男の双眸は鋭さを増している。
 聞こえるように溜め息をついた後、光秀の頭の上に手を載せ乱暴に撫で回した。

「な、何をするんですかっ!?」

 声を上擦らせ一歩後ろへ退くと、手を宙に浮かせたまま元親が噴き出すように笑い始めた。何故笑われているのか理解出来ない光秀は目を丸くし、呆気にとられたように口を半開きにして腹を抱えて低く笑う男を見つめる。
 ようやく笑いが収まった元親は、行く場所を失っていた掌《てのひら》を光秀の背に回した。
 元親との距離は互いの呼吸が判ってしまうくらい近く、耳にかかる吐息に光秀は小さく息を呑んだ。

「いや、光秀の反応が面白くてな。つい手を出してしまった。許せ」
「……からかわないで下さい」
「しかし信長は果報者だな」

 「果報者」という言葉に熱が篭もり、微かな妬みが混じっているかのように聞こえた。

「果報者……?」
「光秀のような優秀な部下を持てるなんざ、天下取りを狙う男にとって不足はないだろう」
「いえ、そんな……。私にはそのような言葉は勿体ない……」

 最近急速に台頭してきたのが、足軽衆から這い上がってきた羽柴秀吉という男。苛烈な信長も秀吉の前では楽しげに笑っている時が多々ある。古くから信長を支えてきた佐々成政と柴田勝家はその現状が面白くなく、度々秀吉と対立している時があった。光秀にも秀吉を嫉妬するという心はなくはない。だが、秀吉の能力というのは無視出来ない程強力なものだというのも判っていた。

「いずれ私も使い捨てられる可能性がある人間です……」

 秀吉が頭角を現してきた頃から、光秀に対する信長の態度は悪化を辿るばかりだった。
いつの日か光秀はいつ信長に捨てられるか、そればかりを考えるようになり、不安定な日々を過ごすようになる。

「光秀を捨てるなんざ、贅沢な選択だな」
「信長様の前に現れる人は皆優秀ですから」

 だからこそ彼に捨てられぬように働くしかないのだ。今こうして立っていられるのが不思議なくらい、光秀の体は疲弊しているはずなのにも関わらず、恨み言一つも漏れない。
 ――――全ては信長が目指す天下の為に。彼と共に泰平の世を見るために。

「私は、私に課せられた任務を遂行するだけです」
「……その先に最悪の事態が待ち受けていようとも、か?」
「…………はい」

 そう言うと背中に回されている元親の腕の力が強まり、光秀の心臓が大きく跳ねた。
光秀の耳朶に熱い吐息がかかるのと同時に、低く切ない声が脳へ伝わる。

「捨てられた時は俺のところへ来るがいい」
「えっ?」
「信長のところに居る時よりも格段にいい待遇をとらせてやる」
「元親殿……」
「俺は弱り切っていくお前の姿を見たくない」

 熱が直接肌に伝わる。元親は光秀の耳朶を甘噛みしながら弄ぶ。はしたない声を出さぬように堪えていたつもりだったが、絞るような呻き声が出てしまった。自然と光秀の手は元親の胸へと押し当てられ、行為に耐えるように爪を立てる。

「俺の元へ来い、光秀」
「……っ、それは……」
「出来ない、だろう? 判っている」

 耳元に当てていた唇が動いていき、頬をかすめていく。
 心臓はこれ以上にないほど脈を打ち、熱を体全体に帯びさせていった。呼吸がままならなく、荒い息が元親の髪の毛にかかり、僅かに揺らす。

「だから」

 今日何度目だろうか、元親に見つめられたのは。
熱を帯び全てを射止める双眸に、光秀は釘付けられるばかりだ。
逸らす事も嘘を付く事も出来ない。ただなすがままにされるだけだった。
 目の前が暗くなったかと思うと、何かが唇を塞いだ。それが元親の唇だと気付くのに時間はかからなかった。
唇全体を支配するかの如く角度を変えて口を吸っていく。

「んっ……」

 息苦しくなり腕の中で喘ぐとゆっくりと唇が離れていき、元親が言葉の続きを口にした。

「信長が天下を取った後、俺のところに来い……」
「元親殿……」
「……陸に向けて進路を変える。お前は寝ていろ」

 手が背中から遠ざかり、代わりに再度頭を無造作に撫でられた。
 光秀は言葉を発しないまま黙って頷き、名残惜しそうに元親の手を見ると、その視線に気付き小さく微笑んだ。

「陸に着いたら、いくらでも抱いてやる」

 その言葉に光秀は目を見開かせ何かを言おうと口を開くが、思うように言葉が出ない。その間に元親は背を見せ操舵室へと向かって歩き出した。
 からかわれたのか本気なのか判別が付かぬまま、やっと喉の奥から声が湧き出てきた。何処か嬉しそうに、はにかみながら笑う。



「私は元親殿と一緒なら……、どんな困難でも立ち向かえるような……そんな気がします……」






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 10/05/19