親友(取手と葉佩)


 言おうと思っていた、言葉がある。
 いつかきっと、遠くない未来に、自分はその言葉を口にするのだろうと。
 そんな予感がした。


 朝起きると身支度を整え、ある部屋へ赴くのが葉佩の日課になっていた。まだほとんどひとけがなく肌寒い廊下を進んで、とある扉の前で立ち止まる。耳を澄まし、室内に異変がないことを確かめた。軽くノックをすると、主の許可を得ずに中へ入る。ネームプレートには、取手鎌治の名があった。
 ベッドの脇に膝をつくと、まだ眠っている取手の顔をのぞき込む。顔色は少し悪いが、いつものことなので大丈夫だろう。手首をとって脈をはかる。正常であると確認し、ようやく葉佩は安堵した。
 いつも気怠げなクラスメートには過保護だと呆れられるが、ここまでしないと安心できないのだ。いや、ここまでしても彼は時どき授業中に体調を崩すことがあって、完全に葉佩の不安が拭えることはない。
 どうしてここまで彼に執着してしまうのか、その答えは葉佩自身うっすらと気づいてはいた。


 最初に会ったときは、どこか儚げな印象を抱いた記憶がある。確かにそこにいるのに、今にも消えてしまいそうな、そんな印象を。
 けれどそれは、本当の彼ではなかったことを後で知った。
 あの遺跡から大切なものを取り戻した彼は、見る見るうちに生気を取り戻し、活動的とまではいかないが、人に与える印象は以前と異なるものになった。
 彼は自分を救ってくれたのは君だと、葉佩にしてみれば大仰な言い回しで、ことあるごとに感謝してくれる。
 彼の事情を聞いて、何か力になれたらと思ったことは本当だが、救うとか助けるとかそんなつもりはなかった、というのが正直なところだ。
 葉佩は、自分の事情で任務を遂行したに過ぎない。あんまり彼が感謝してくれるので、なんだか騙しているみたいで気がひけ、一度正直にそう言ったことがある。
 それでも彼は、自分に対する態度を改めなかった。過程はどうあれ、結果的に自分を救ってくれたのは君なのだからと。
 そう言われることが恥ずかしくもあり、そう言える彼を素敵だとも思った。
 とても素直で、とてもやさしい人だと。
 いつからか、葉佩はそんな彼を見てある種の感情を抱くようになった。
 初めは自分でもよくわからず、悩んだこともある。自分はどこかおかしいのではないかと。
 友愛の情を込めて笑う彼に、そんな気持ちを抱くことは間違いなのだとも思った。
 何の汚れも知らないような彼をそんな目で見ている自分が、とても罪深い生き物のように思えて、ひとり泣いたこともある。
 それでもいつか、きっとこの醜い感情はきれいに消え失せ、自分たちは出会った頃のような関係に戻れるのだと、そう信じていた。
 けれど、彼と接する時間が増えるにつれ次第に膨れあがった想いは、今もまだ確かにこの胸にある。
 ピアノを弾く彼の指が、なにげなく触れるたびに心の中で喜ぶ自分がいるのだ。
 どうしても彼には知られたくなくて、でも避ければ哀しまれることを知っていたから、いつもそばにいた。
 そばにいればいるほど苦しくて、つらくて、でも離れることはできなかった。
 何も知らない彼が笑うたび、どうしてこんな感情を抱いているのかと己を責めた。


 黙って見つめていると、やがて取手が目を覚ました。ぼんやりとした表情で、葉佩を見上げてくる。
「おはよう」
「おは、よう……」
 寝起きのため掠れた声で挨拶を返し、ようやく目の前の人物が葉佩であると認識したのか、取手がふわりと微笑んだ。
「九龍くん」
「うん」
 存在を確かめるように名前を呼ばれ、葉佩も笑みを返す。安心しきった取手の表情に、ひどく胸が痛んだ。
「早起きだね」
「眠りが浅いんだ」
「大丈夫? 疲れは残ってないかい?」
「大丈夫」
 どんなに短い眠りでも回復できるように葉佩の身体は慣らされている。慣れないのは、心だけだ。


 朝早いせいだろう、食堂には葉佩達の他は朝練に行く生徒達の姿があるだけだった。
「朝って食欲ないんだよね」
「まあ、人それぞれだし。食べないよりはいいんじゃない?」
 小さく千切ったパンを頬張る取手に、葉佩は頷いてみせる。自分が賛同することで、彼が安心することを知っているのだ。
 自分の言動にいちいち反応を返す彼を愛しいと想うと同時に、少しだけ恨めしくもあった。何とも思っていないなら、期待させるような真似をしないで欲しい。
 何も気づいていないであろう彼にそれを求めるのは酷だとわかっていても、ついそう思ってしまうのだ。
 それでも、葉佩は取手とともにいたいと思った。あとどのぐらい、自分に時間が残されているのかわからない。遺跡探索を終えるのはまだ先になるだろうが、かといってのんびりしている訳にもいかず、またいつ撤収命令が下されるかもわからないのだ。
 出来る限り、ここにいられる間は取手のそばにいたいと葉佩が望んでしまうのも、無理はなかった。
 食事を終えた葉佩がさりげなくH.A.N.Tをチェックしていると、正面に座っていた取手が手を止める。どうしたのかと見ると、取手が少しだけ淋しそうな顔でこちらを見ていた。
「……鎌治くん?」
「ごめん。気にしないでいいよ」
「そんな顔で言われても、ねえ?」
 葉佩は、促すように首をかしげる。どんなことでも、取手のことなら知りたいと思った。
 促された取手は、小さな声で、言葉を選ぶように喋る。
「僕の夢は、前に話したことがあるよね」
「うん」
 取手がいつか教えてくれたことを思い出し、葉佩は頷いた。取手らしい夢だと思った。きっと、その夢は叶うのだろうとも。
「そう言う意味で、九龍くんはもう夢を叶えてるんだよね」
「……」
 迷って、葉佩は小さく頷いた。取手が、羨ましそうに笑う。
「君を見ていると、僕もがんばろうって。そう思えるんだよ」
 照れたように笑って言う取手に、葉佩は居たたまれなくなった。
 自分がこの職を選んだのには、それなりの理由がある。極端に選択肢が少なかったとはいえ、自らの意志で選んだのだから後悔はしていない。職業に対する誇りもあった。
 それでも、きっと取手の想像している理由とはまるで違う理由でこの職に就いた自分が、恥ずかしく感じられたのだ。
 自分は、取手が思うほど立派な人間ではない。まるで聖人君子のように崇められることには、抵抗があった。否定したいのに、取手が落胆する様を思い描いて躊躇している内に、学校へ行かねばならない時間になってしまう。
 立ち上がった取手の背に、葉佩は罪悪感を感じてため息をこぼした。


 そろそろ遺跡探索も終盤に差し掛かりつつあったある日、葉佩は何やら慌てた様子の鴉室に出くわした。
 懐かしげに出会った頃のことを語られ、相づちを打ちながら葉佩は違和感を覚える。何故この人は、急にこんな話をするのだろう。
 首をかしげながら訊ねると、鴉室は目を丸くした。君には隠し事ができないなと笑うその顔が、なんだか淋しそうに葉佩の目に映る。
 最後だからと素性を教えてくれた彼は、調査の途中だが引きあげねばならないのだと言った。名残惜しいけれど、と葉佩の耳元で言い残し、鴉室は軽く手をあげる。
 またすぐにでも再会できるような口振りだったけれど、次にいつ会えるのかなど誰にもわからないのだと、去りゆく背中を見つめながら葉佩は理解した。
 出会って、別れて。人生はその繰り返しなのかも知れない。ただ、自分や彼のような職業の人間には、人よりそれが多いだけのことで。


 突如あたりに響いた轟音に、事態を把握した葉佩は無意識に音楽室へ向かった。何よりもピアノを愛する彼は、きっと今もそこにいるだろう。
 予想通りの場所で取手の姿を捉え、葉佩は勢いで強く彼の身体を抱いた。
「九龍……くん?」
「……無事で」
 良かったと、言葉は続かなかったが気持ちは伝わったのだろう、取手に君も、と返される。
 至近距離で見つめ合ったまま、お互いの無事を確認して力無く笑い合った。
 程なく離れた葉佩に、何気ない口調で取手が聞いてくる。
「これから、皆の無事を確認してまわるんだろう?」
 君さえ無事なら他はどうだっていいのだと答えたい気持ちはあったが、それは取手の望む言葉ではないのだろうと、葉佩は無言で頷いた。
 気をつけて、と微笑んだ取手があんまりきれいで、葉佩は泣きたくなる。
 ひとり廊下を進みながら、不意にさきほど目にしたばかりの鴉室の背中がよみがえった。その姿は、いつか訪れるであろう、ここを去る日の自分に重なるような気がする。
 そのとき、自分が彼の中に残せるものはあるのだろうか。
 恩人としての自分ではなく、葉佩九龍という一人の人間として、彼の心に留まることは出来るのだろうか。
 この胸に宿る想いを告げたら、その願いは叶うだろうか。
 応えてもらえなくてもいい、報われるなどとは初めから思ってはいない。
 ただ、ただ、……忘れないで欲しい。こういう人間もいたのだと、覚えていてもらえたら、それだけで。
 きっと自分は、この先にどんな困難が待ち受けていようとも、ひとり立ち向かっていけるだろう。


 雪の舞い落ちる中、葉佩は校舎へ向かっていた。なんだかいつも、自分は同じ場所へ向かっているような気がして、葉佩は自嘲する。
 冷え切った校内はどこもかしこも寒くて、じっとしていたら凍ってしまいそうな気さえした。ここへ来るのは、これが最後かも知れない。そんな予感が、葉佩の歩みを早める。
 目的地である音楽室には、やはり取手の姿があった。
 声をかける前に、取手が振り向く。そこにいるのが葉佩であることを確認すると、ふわりと微笑まれた。
「メリークリスマス?」
「一日早いけどね」
 そう言ってピアノを弾き始めた取手に、葉佩は何も言えずにいる。時間は、あと僅かかも知れない。想いを告げる機会は、きっと今しかないだろう。それでも、取手の邪魔をする気にはなれず、できることならこのままここで過ごしたいとさえ思った。
 黙って横顔を見つめていると、やがて曲の終わりがきて、取手が静かな口調で話し始める。
 ここを去ってしまうのかと訊ねられ、葉佩は答えられなかった。最後まで嘘を突き通すべきかも知れないとも思ったが、うまく口が動かない。
 自分を見る取手の目が哀しげに細められ、その言葉を言われた。
 それを聞いた瞬間、葉佩はうまく呼吸が出来なくなる。やっぱり、とも思った。
 大きく目を開いた葉佩に、誤解した取手が俯く。
「ごめん、やっぱり……迷惑、だよね」
 そんなことはないと、すぐにでも言ってやりたかった。でも声は出ず、かわりにひゅうひゅうと乾いた音だけが漏れる。
 忘れて、と泣きそうな顔で笑う取手に、ようやく葉佩は声を発した。
「オレもっ、オレも、取手のこと、……親友だと思ってる」
 強い口調で言ったつもりだったが、出た声は自分のものだとは思えないほど弱々しく、情けないものだった。
 それでも笑顔を作った自分を、褒めてやりたいと思う。
「ほんとうに……? 無理、してない?」
「ほんとう! てゆーか、オレ、言われる前から思ってたし?」
 笑えば笑うほど、嘘を吐けば吐くほど、葉佩の中でなにかが音を立てて壊れていくような気がした。
「九龍くん」
「うん」
「僕は、……君に出会えて、よかった。心から、そう思うよ」
「うん。オレも、オレもそう、思う」
 もはや葉佩は自分がどんな顔をしているのかもわからず、それでも取手が最後に手を動かそうとしたことにだけは気づいた。
 これ以上、ここにいることは出来ない。そう思って、葉佩は不自然ではないよう気を遣いながら音楽室を後にした。


 窓際に腰掛け、ぼんやりと外を眺める取手に、皆守は背後から声をかけた。振り向かず、取手はそのまま外を見ている。
「なんだ、無視するなよ」
「そう言う訳じゃないんだけど」
 ただ、今はこうしてぼんやりしていたい気分なんだ。取手の言葉に、皆守は顔を顰めた。
「行っちまったな」
 誰が、とは言わなくともわかるだろう。取手が、小さく頷いた。隣に並んで、皆守も同じように窓の外へ目を向ける。
 この場所は、いつもあいつが外を眺めていた場所だ。それがわかって、皆守は何とも言えない気分になる。
 同じ場所に座って、同じ場所を見つめて。取手はいま、何を考えているのだろう。あいつはもう、ここにはいないというのに。
 全てが終わったあと、葉佩は誰にも何も言わないまま学園を去った。荷物は全てきれいに片づけられ、残されたものはなにもない。
「お前には、なにか言っていくと思ったんだがな」
 別れの言葉だけではない、あいつの気持ちを。皆守は気づいていた。葉佩の視線の先に、いつも同じ人物がいることに。
 痛いぐらい真剣に、彼の瞳はただ一人だけを映していた。それは、相手も同じことなのだと、そう思っていたのだが。今ここには、取り残された取手だけがいた。
「親友だって、言ったんだ」
「……?」
「最後に、きっと彼は、僕になにかを告げに来たのだと思う。でも僕は聞きたくなくて。だから、言ったんだ。君のことを親友だと思っているって」
「そりゃあ、また。随分なことを言ったもんだな」
 あいつの気持ちは、知っていただろうに。そう言外ににじませると、取手は首を振った。
「僕は、臆病だから」
「気持ちを受け入れてやれなかったのか?」
 違うと、取手はもう一度首を振る。
「いま彼が僕を想う気持ちは、いつまでも続くものではないだろう? 僕は、それが怖かった。……ううん、今も、怖いんだよ、とても」
 窓に額を押しつけるようにして、取手は声を絞り出した。
「でも、親友としてなら、ずっと変わらずにいられるって、気づいたんだ。だから、……」
「だから、あいつの気持ちを踏みにじったっていうのか?」
 自然と声を荒げ、皆守は取手の腕を掴んだ。そんな理由で、あいつは気持ちを殺してひとり去っていったのかと思うと、どうしたって取手を責めずにはいられなかった。
 きつく握られた手を振り払おうともせず、取手は肩を震わせる。
「彼はきっと、気づいていたんだと思う。僕の気持ちにも、どうして僕が親友だなんて言ったのかも、きっと」
「なんだって?」
「だって僕は、あのとき、最後の最後で我慢できなくなったんだ」


 あのとき、どうしても彼を抱きしめたいと願ってしまった。けれど、ぴくりと動いた取手の腕を見て、葉佩は身を引いたのだ。聡い彼のこと、あのとき、何もかもわかってしまったのだろう。
 自分が、何に怯えて偽りの気持ちを口にしたのか。
 全てわかった上で、最後まで自分に合わせてくれたのだ。


 取手が泣いていることに気づき、皆守は手を離した。
「ひどいよね。そんな風に、最後まで優しくされたりしたら。諦めたりなんて、できないじゃないか」


 彼を想う気持ちは、今も変わらずこの胸にある。いつか自然と思い出に変わるその時まで、自分は彼に囚われたままなのだろう。
 彼もそうだったらいいと願うことは、罪だろうか。


「ばかだよ、お前らは」
 ぽつりと、皆守が呟いた。


【完】


2004 10/18