ピアノ(取手と葉佩と皆守)


 昼食をとった後、どこで昼寝をしようかと考えながら、皆守は校舎への道のりを歩いていた。今日は風が冷たい。屋上では肌寒いだろう。保健室に行こうか、それとも。
 そこまで考えたとき、どこからかピアノの音が届いた。どうやらそれは音楽室から聞こえてくるらしい。音楽室は防音のはずだが、恐らく窓を開けているのだろう。
 中にいる人物の予想はついた。邪魔をする理由は特になかったが、皆守はピアノの音色に導かれるように音楽室へと足を向ける。


 予想通り、中にはピアノを弾く取手と、それを聴いている葉佩の姿があった。
 ただひとつ予想と違っていたのは、目を閉じてピアノの音に耳を傾けていると思われた葉佩が、すっかり眠っていたことだった。
 気づいているのかいないのか、取手の指は楽譜通りに鍵盤を押さえていく。
 廊下で眺めていた皆守は、曲が終わったところで声をかけた。
「おい。そいつ、寝てるぞ」
「皆守くん」
 皆守の声に、取手は驚いた顔で振り向く。
「君がここへ来るだなんて、珍しいね?」
「まあ、な」
 取手に興味深そうな目を向けられ、皆守は顔の前で手を振った。ここへ来た理由など、自分でもわからないのだ。そんな顔をされても困る。
 皆守は中へ入ると、窓際の椅子に腰掛けたまま寝入っている葉佩の頭を小突いた。
「せっかく弾いてやってるのに、失礼な奴だ」
 皆守自身クラシックには疎かったが、演奏中に眠ってしまうというのは一番してはいけない行為ではないだろうか。
 あきれ顔で葉佩を起こそうとする皆守を、取手の静かな声が制止した。
「いいんだ」
「いいって……」
 ピアノの前に座ったまま、取手は顔だけをこちらに向ける。葉佩だけを映すその瞳は、どこまでも優しかった。
「葉佩くん、最近疲れてるみたいだったから。おこがましいとは思ったんだけど、ピアノを弾くことで少しでも癒すことができたらって思って。だから、」
 僕が弾くピアノで、彼が安眠を得られるというのなら。それは、僕にとってこの上ない幸せなんだよ、と取手は言葉通り幸せそうに笑う。
「お前は、ほんとうに……」
 いつか口にしようとして舞草に遮られた言葉の続きを、皆守は改めて口にしようとした。だが、今更言うことでもないと口を閉ざす。
 お前は本当に、葉佩しか目に入らないんだな。
 そんなことは、自分に言われるまでもなく取手自身が一番わかっていることだろう。


 葉佩が目を開けると、既に室内はオレンジ色に染まっていた。もう夕暮れなのだと気づいて、目を丸くする。ピアノの前には、眠る前と変わらず優しい音楽を奏でる取手の姿があった。
「……おはよう」
「おはよう」
 普通に挨拶を返してから、葉佩は勢い良く立ち上がるとピアノの横まで駆けていく。
「ご、ごめん! オレまた寝ちゃった? せっかく弾いてくれたのに、ごめんな。オレどーもクラシック聴くと眠くなっちゃうんだよなあ」
 夕陽のせいだけではなく赤くなった顔を俯かせ、葉佩は必死に謝った。やがて、取手の手が葉佩の肩に置かれる。
「取手くん……?」
「いいんだ。君がそこにいてくれるだけで、僕はとても」
「とても」
 とても、なんだろう。続きが気になって、葉佩は間近に迫った取手の顔を見つめた。目が合うと、取手は眩しそうに顔を背ける。
「……帰ろうか」
「え、あ、うん」
 帰り支度を始めた取手を手伝いながら、葉佩は先ほどの言葉が気になって仕方なかった。
「取手くん、あの」
「ちょっと……お腹空いた、かな」
 今気づいたという顔で言う取手に、葉佩は大きく頷く。
「空いた! ってゆーか、オレたち昼休みからずっとここにいたんだよな? ……ほんと、ごめん」
 どうして自分はこうなのだろう。真面目な取手に、授業をさぼらせてしまった。
 申し訳なくて取手の顔が見られず、葉佩はその背に抱きつく。
「は、ばきくん……?」
「なんか嘘くさいかもだけど、オレ、取手くんのピアノ好きなんだ。ほんとに、落ち着くし、優しいし、あったかいし、いい気分になって、……結局寝ちゃうんだけど……」
「う、うん」
 いいんだ、と取手はもう一度言った。抱きついている葉佩の手をとって、取手が振り向く。
「僕は」
「うん」
「僕は、ほんとうに、嬉しいんだ。僕のピアノを聴いて眠ってしまうぐらい、君が僕のそばで安心してくれているんだって。そう、思うから」
「取手くん……」
 まさかそんなことを言ってもらえるとは思っておらず、葉佩は呆然と取手を見つめた。
「あ、あの。ごめん、僕が勝手にそう思ってるだけ、なんだけど……」
「ううん。ううん、ありがとう取手くん」
 嬉しいと思う葉佩の気持ちが伝わったのか、取手も笑みを見せる。
「また、僕のピアノを聴いてくれる、かな」
「よろこんで」
 次の約束を交わして、二人は音楽室を後にした。


【完】


2004 10/16