青色(取手と葉佩)
卒業式まで、ここにいられないかも知れない。
そう彼に告げられたのは、いつのことだったろう。つい最近のことのようにも思えるし、とても昔のような気もする。
ただ、彼がもうここにいないということだけは確かだった。
朝起きて身支度を整え、マミーズへと向かう。取手がこの學園へ入学してから、幾度となく繰り返してきた行動。
彼がいた頃は、そんな当たり前のことがいちいち楽しかった。寮の廊下で彼を待って、同行することを許してもらったり、寝る前にメールで約束を取り付けたり。
いつからか、何も言わなくても一緒にいることが自然となった。それが、どれだけ自分にとって幸福だったことか。
「よう。相変わらず早いな」
「おはよう」
店内に入ると、注文を待っている皆守に出くわした。挨拶をして腰掛けた取手に、皆守は視線を向けてくる。
「……ちゃんと、飯食ってるか?」
以前よりも尖った取手の顎に、微かに皆守は顔を顰めたようだ。メニューをめくりながら、取手は淡々とした口調で肯定する。
「食べてるよ。彼に、言われたから」
「そうか」
それきり皆守が黙り込んだので、元々口数の少ない取手も口を閉ざした。
──取手くん、朝ご飯食べなきゃだめだよ? ちょっとでもいいから、何か口にしなよ。そうだ、お粥なんかいいんじゃない。胃に優しそうだし。てゆーか、ほんと美味しそうだよね、これ。むしろオレが食べたいかも。ね、取手くんも一緒に食べよう。半分こなら、食べられるんじゃない?
朝は食欲がないと言った取手に、そう勧めてきた彼の笑顔がよみがえる。彼があんまり美味しそうに食べるから、なんだか取手もつられてお腹が空いてきたのだ。半分平らげた取手に、彼はほんとうに嬉しそうに笑ってくれて。
彼が喜んでくれるのなら、朝の食事も悪くはないと思った。
休み時間になると、習慣のように彼の教室へ足を向けては、空いたままの机に胸を痛める。すると決まって隣の席の八千穂が哀しげに目を伏せるので、最近はあまり行かないようにしていた。
毎日通っていた音楽室へも、最近は足を運んでいない。将来のことを考えれば、このままではいけないのだと取手自身もわかっていた。それでも、あの場所には彼の思い出が多すぎる。
時間さえあれば、彼は窓際に腰掛けて外を眺めていた。何を見ているのかと訊ねても、特に何もとしか答えてくれなかった彼は、一体窓の向こうに何を見ていたのだろう。
遺跡のある墓地を見ていたのか、それとも全く違うものなのか。それすらも、取手にはわからなかった。
彼の目は、いつも遠くへ向けられていたような気がする。いつかくる未来や、遙か彼方にある国へと。
そんな目をしているときの彼は、すぐそこにいるのに手を伸ばしても届かないような錯覚に陥って、とても怖かった。
ずっと一緒にいられるわけではないと、初めから知っていたはずなのに。彼がいなくなった後を想像したことなど、一度や二度ではなかったというのに。それが現実となった今、取手は彼を失った痛みに耐えるのがやっとだった。
彼と一緒に、心の安まる場所も消え失せてしまった。どこもかしこも、彼と過ごした記憶でいっぱいなのだ。耳を澄ませば、彼の笑い声が聞こえてくるようで、知らず涙がこぼれそうになる。
彼の仲間に心配をかけるのが申し訳なくて、取手はひとり屋上へやって来た。真冬に好きこのんで屋外へ出るような者は、取手の他にいないようだ。
フェンスの向こうには、曇り空が広がっていた。せめて青空だったなら、自分の気も晴れただろうか。そんなことで心が穏やかになるわけがないとわかっていながら、そんな風に考える自分に取手は苦笑した。
最後に彼とここに来たのは、いつだったろうか。正月ぐらいは実家に帰ったほうがいいのではと取手を気遣う彼を押し切って、二人で寮に残った。そして、二人で屋上へ上って初日の出を見たのだ。
正月も関係なく働いているという彼は、日本で初日の出を見たのはこれが初めてだと言って笑った。
それから、そういえば今日は誕生日でもあるのだと言い出した彼に、何も用意していないと慌てた取手は、せめてお祝いぐらいはと外出許可をもらいに校舎へ戻ろうとして、引き止められた。
──自分が産まれた日に、好きなひとといられたら。それだけで最高、でしょう?
こんな職に就いている自分にとっては、滅多にできる経験ではないのだと、彼はとびきりの笑顔を浮かべて、好きなひとなどと形容されて真っ赤になった取手に抱きついてきた。
──君と出逢ったことが、何よりの宝だよ。なんて、恥ずかしい台詞だと思ってたけどさあ。今なら、本気で言えちゃいそうなんだけど。オレってやっぱ、恥ずかしい?
胸に顔を埋めたまま言われ、取手は抱きついている彼の背中を叩いて、顔を見せて欲しいといつかのように懇願した。
今度こそ見せてもらった彼の顔は、取手に負けず劣らず赤くなっていて。……なんて、かわいいひとなのだろうと思った。
初めての口づけは、誤って歯をぶつけて彼の唇を切ってしまうという悲惨なものに終わったが、取手につけられた傷なら一生治らなくてもいいよ、などと言葉通り愛おしそうに唇を撫でる彼に、一生かなうことなどないのだろうと取手はがくりと膝をついた。
置いて行かれてしまったなどとは、思っていない。それぞれ違う道を歩まねばならないことは、自分も彼も知っていたことなのだ。
それでも、どうしようもなく淋しいと思ってしまうこの心は、どうやっても慰められるものではなかった。
不意に振動した制服のポケットに、取手は慌てて手を突っ込む。取り出した携帯には、彼からのメールが届いていた。
震える手で開いたメールには、きれいな青空を見て取手を思いだしたと書かれている。
彼のいる場所は晴れているのかと取手が顔を上げたその先で、太陽が顔を出したことに気づいた。
雲一つない青空とは言い難かったが、それでも青空に違いはないだろう。
彼も今、この青い空の下にいるのだ。
そう思っただけで今にも泣き出しそうに胸が震えて、取手はその目に焼き付けようとするかのように、どこまでも続く青色を見つめ続けた。
【完】
2004 10/25