正当なる困惑(取手と葉佩と皆守


「……え?」
 告げられた言葉に、葉佩は盛大に目を丸くした。


 今日は、ごく普通の日。
 相変わらず遺跡探索は続いているものの、ここ数日は執行委員からちょっかいをかけられることもなく、表面上は何ごともない穏やかな日が続いている。
 ――はずだったのだが。
 一体何がどうして、こんなことになってしまったのか。
 何度見ても、目の前にいる人物の態度は変わらない。
 いつもと同じ、少し気弱そうな表情でこちらを窺っている、相手。
 いつもと少しだけ違うのは、自分との距離が僅かに開いていることだろうか。
 そう、まるで、知り合う以前のように。
 呆然としたまま、葉佩は何も言えずにいた。だって、だってまさか。
「それじゃあ」
 それだけ言い残すと、相手は立ち去ってしまう。まだ目を見開いたままの葉佩を置いて。
 声もかけられずにいる、葉佩を残して。
「……嘘、だろう?」
 遠ざかる背中へ向けての呟きは、小さく揺らいでいた。


 ――僕に、近付かないで。
 それが、取手から告げられた言葉だった。




「何で〜? ねえ、皆守くん、何でだと思う?」
「俺が知るか」
 葉佩の問いかけに、皆守は嫌そうに顔をしかめた。
「それと、今更くん付けで呼ぶな。気色悪い」
「はあ。何でだろう……?」
 皆守からの苦情をあっさり無視して、葉佩はごろんと床に転がる。屋上の、冷えたコンクリートが心地よい。
 傍らには、本日の昼食であるパンの包みがあった。
 今日も、いつものように取手と食べようと、楽しみに買ってきたもの。
 約束はしていないけれど、きっと取手は待っていてくれるだろう。
 そんな確信の元、訪れた取手の教室前で、言われたのだ。
「近付かないで……か、」
 最早食欲は完全に失せ、葉佩は目の前の包みを手で押しやる。
 何故なのだろう。
 もう幾度も問いかけた言葉を、葉佩は頭の中で繰り返した。
 自分は、何かしてしまったのだろうか。
 取手が、不快になるようなことを。
 あの、心優しい取手にあそこまで言わせるなんて、よっぽどのことだ。
 自分は一体、何をしてしまったのだろう。


 葉佩と取手の仲は、これまでうまくいっていたはずだ。
 いつも気だるそうな同級生曰く、「良好すぎるぐらい良好な関係」を築けていた――はずなのに。
 クラスが違うから授業中は無理だとしても、休み時間には欠かさず顔を見に行っていたし、時には取手のほうから訪れてくれることもあった。
 口数の少ない取手が語ることはあまりなかったが、いろんなことを喋る葉佩を見て、いつも嬉しそうに笑っていてくれた。
 ふとした瞬間に見せる表情が、きれいで、嬉しくて。
 ああ、好きだなあ、とその度に実感していたのだ。
 救った、だなんて言うのはおこがましいけれど。
 こんなにきれいで優しい人を、闇から連れ出すことが出来て、本当によかった。
 《宝探し屋》だなんて因果な商売をしている自分にも、誰かのためにできることがあるのだと思えたのも、取手のお陰だ。
 一緒にいられる期間がさほどないことも、承知していた。
 だからその分、ここにいられる間はなるべく一緒にいたかった。
 そばにいて、見つめ合って、笑い合って。
 たくさん記憶して、たくさん覚えられて。
 積み重ねることができたらと、そう思っていたのだ。


 ――それが、まずかったのだろうか。
 あんまり四六時中つきまとうから、鬱陶しかったのだろうか。
 本当は迷惑だったのに、取手は優しいから言い出せなかったのだろうか。
 恩人だからと、気を遣ってくれていたのだろうか。
 何てことだ……!
「謝らなきゃ!」
「は?」
 ぐだぐだ寝転がっていた葉佩が急に起き上がったためか、近くで寝ていた皆守がびくりと身を引いた。
「何だよ急に」
「オレ、取手くんに謝ってくる!」
 言うだけ言って走り去ろうとした葉佩を、皆守が呼び止めてくる。
「何だよー!?」
 屋上の扉に手をかけ、葉佩はいらいらしながら皆守を振り返った。
「謝るって、お前あいつに何かしたのか?」
 皆守からのもっともな質問に、葉佩は大いばりで答える。
「わかんない!」
「……なんだそりゃ」
 皆守が、がっくりと肩を落とした。
「理由もわかんないってのに、謝るつもりなのか?」
 アロマパイプを銜え、皆守が首を振る。
「それはちょっと、誠意ってもんがないんじゃないか」
 それでも、葉佩は引かなかった。
「わかんないけど、オレは多分、取手くんを傷つけちゃったんだ」
 きゅうっと、葉佩の眉尻が下がる。扉を掴む手が、微かに震えていた。
「九龍……」
 思わず、といった様子で、皆守が手を伸ばしてくる。
 何かを振り切るように、葉佩が首を振った。
「謝る理由なんて、オレにはそれで充分だよ」
 葉佩の、そのきりっとした表情に、皆守は息をのんだ。
 葉佩は、そのまま身を翻した。




「うう〜ん」
 威勢良く駆けてはきたものの、葉佩は取手の前に顔を出せずにいた。
 木の上から音楽室を覗く姿は、万一執行委員に見つかりでもしたらその場で処罰されそうなほどの怪しさだ。
 本人は、いたって真剣そのものなのだが。
 ピアノの前に腰掛け、取手は音を奏でている。ここからだと、その表情は見えない。
 音楽室は防音だ。葉佩は目を閉じ、集中して音を拾った。
 本来なら聞こえないはずの音が、訓練のたまものか微かに聞こえてくる。
 その音ににじむ感情に、葉佩ははっとした。この音色は、――取手の哀しみを、伝えている。
 音楽には詳しくない葉佩だったが、それだけはわかった。
 毎日のように取手のピアノを聴いていたのだから、当然かも知れない。
 気づいたとき、葉佩は窓を開け、音楽室の中に入っていた。
 突然の侵入者に、取手が驚いた顔で立ち上がる。
「あ、あの……」
 勢いよく駆け寄り、葉佩は取手の手を取った。
「取手くん、何かあったの!?」
「えっ?」
 取手の顔には、戸惑いが広がっている。
「何か、って……?」
「だって取手くん、なんだかとても哀しそうだから。何があった? 誰かに何か言われた? 何かされた? どうして、そんな顔をしてるの」
 矢継ぎ早に言う葉佩に、取手はますます哀しげな顔をした。
「取手くん……?」
 葉佩が顔を近づけると、取手は慌てた様子で身を引く。
 近付かないでと言われたことを思い出し、葉佩は握っていた手を離した。
「あ、悪い。近付かないでって言われてたのに」
 一歩下がって、葉佩は取手を見上げる。
「ごめん」
 葉佩の言葉に、取手が僅かに首をかしげた。
「オレ、取手くんに嫌な思いさせちゃってたんだろう? もしかして、今哀しそうなのも、オレのせい?」
「え?」
「取手くんに言われてから、ずっと考えてたんだけど。でも、理由がわからなくて。もしかして、って思うことはあるんだけど、どれが原因かわかんなくって。……そういうとこも含めて、嫌だったのか? ほんとに、ごめんな。オレ、自分が楽しいからって、取手くんと一緒にいるのが楽しいからって、まとわりついたりして、迷惑だったよな」
「葉佩君……?」
 自分のしてきたことは、取手にとっては迷惑でしかなかったのだ。
 更に、もう一歩下がる。取手の顔を見ていられなくて、葉佩は頭を下げた。
「ごめん!」
 最後に大きく謝罪して、葉佩は扉に向かう。
 一刻も早く立ち去りたいという思いと、もう少しだけ一緒にいたいという気持ちがせめぎ合った。


 ここを出たらもう、二度と取手と言葉を交わすことは出来ないのだ。
 顔を見ることすら、許されないかも知れない。


 せめて、最後にもう一度取手の顔が見たい。
 葉佩は顔を上げ、正面の取手を見つめる。
「今まで、ありがとう」
 小さく呟いて、葉佩は笑みを浮かべた。残念なことに、取手の顔はぼやけてよく見えない。
 くるりと背を向け、葉佩は足音もなく立ち去った。――つもりだったのだ、葉佩の中では。
「……え? あれ? え?」
 何だ? 何だこの状況は? 何だ?
 今確かに、自分は扉に手をかけたはずだ。一気に開いて、そのまま飛び出したつもりだったのに。
 けれど今、葉佩の目の前には閉じられたままの扉がある。葉佩の身体は、未だ音楽室の中にあった。
「な、なに? え?」
 何かのトラップだろうか。咄嗟に思ったのは、そんなことだった。
 だとしたら、こんなに甘い罠はないだろう。
 葉佩を阻んでいるのは、身体に巻き付いた白くて長い腕だった。


 取手に、後ろから抱きつかれている。いや、羽交い締めにされているというほうが正しいだろうか。
 理解して、葉佩は落ち着くどころかいっそう混乱した。
「と、取手くん!? なんで……!?」
 顔も見たくないぐらい、嫌だったのではないのだろうか。
 葉佩は、何とか離れようと取手の腕の中でもがく。
「違うんだ、」
「えっ」
 取手の低い声に、葉佩は暴れるのを忘れた。
「違うって、何が?」
「ごめん。僕は、……僕が、あんなことを言ったのは、葉佩君が嫌いだとか、迷惑だとか、そんな風に思ったからじゃないんだ」
「え……?」
 取手の言葉に、葉佩は目を見張る。まだ、期待してもいいのだろうか。
 取手に嫌われている訳ではないと、思ってもよいのだろうか。
「……そんなこと、僕が思うなんてこと、絶対にないよ。本当に。僕を救い出してくれた葉佩君に、そんなことを思うはずがないんだ」
 ああ、やっぱり。
 取手にとっての自分は、恩人でしかないのだ。
 そう思ったら、何故か身体の力が抜けた。
 もたれるように身体を預けた葉佩を支え、取手は続ける。
「僕は、君にとても感謝しているんだ。過去から救ってくれたことも、その後のことも」
「その後、……?」
 取手の言うことが何を指しているのか疑問に思い、葉佩は微かに首をかしげた。
「僕に、声をかけてくれただろう? 僕に会いに来てくれて、食事や、遊びや、いろんなことに誘ってくれて、僕の誘いにも、喜んでくれて……」
「そ、そんなの、当たり前じゃん! だってオレたち、友達だろう!?」
 最初に友達だと言ってくれたのは、取手だったはずだ。遠慮がちに、初めてのメールで、そう書いてくれていた。
 すごく、嬉しかったのに。葉佩は勢いよく身体を起こすと、背後を振り返る。
「友達なら、普通のこと、だよっ」
 怒ったように言う葉佩に、びくりと取手が肩を揺らした。
「う、うん。そう、なんだろうね……。でも、これまで僕に、そんな風に接してくれる人は、いなかったから……」
「取手くん……」
 取手が、淋しそうに目を伏せる。
「そんなことないよ! オレの他にも、取手くんと仲良くなりたいって人は大勢いたはずだよ。ただ、オレみたいに強引じゃなかっただけで」
 少し前までの取手は、姉の死を悼む余り、他のものが目に入らなくなってた。その状況でなら、他人の好意に気づかないことは充分あり得るだろう。
「うん、そうだね」
 取手が、嬉しそうに微笑む。
「きっと、僕を気にかけてくれた人は他にもいたんだろう。ルイ先生だってそうだ。けれど、僕はそれに気づくことが出来なかった。僕は、自分のことに精一杯で、人の気持ちを思いやることなんて出来ずにいたから。……でも、今は違う」
 取手は、小さく首を振った。
「今の僕なら、きっと、どんな些細な厚意でも、気づくことができると思う」
「うん、そうだね」
 取手の見せる穏やかな表情が嬉しくて、葉佩は自然と笑顔になる。
「君のお陰だよ、葉佩君」
「……えっ?」
 一瞬遅れて、葉佩は目を丸くした。取手は変わらず、穏やかな笑みを浮かべている。
「君がいたから、僕はいろんなことに気づくことが出来た。世界が、こんなにも優しいものだって、知ることが出来たんだ」
「お、オレは何も……」
 全く身に覚えのない話に、葉佩は窮屈そうに身を縮めた。手放しで褒められて、恥ずかしくなる。
「そうだね。君なら、きっとそう言うだろうと思った。葉佩君。君は、自分が僕のためにどれだけ気を配ってくれたかなんて、考えたこともないんだろうね。君のしてくれたことに、僕がどれほど喜んだことか。僕が、どれだけ嬉しかったか……」
「え、ええと、」
 うおお。なんだか、ものすごく褒められているような。こそばゆい、ってこういうことか……!?
 どう反応すればよいかわからず、葉佩は困った顔で取手を見上げた。
「でも、それがだんだん、つらくなってきたんだ」
「えっ」
 先ほどまでの穏やかな表情から一転、取手はつらそうに顔を歪める。
「え!? つらくなって……?」
 やっぱり、自分のしたことが原因なんじゃないかー! 心の中で叫んで、葉佩はまじまじと取手を見つめた。
 取手が、居心地悪そうに顔を背ける。
「葉佩君が優しいのは、僕にだけじゃなくて。他の皆にも同じように優しくて、親切で。そんなの、当たり前のことなのに、でも僕は、それを見ているのがつらかったんだ」
「え……?」
 なんだかさっきから、えっ、としか言っていないような気がした。
「僕は、君に優しくして貰えて嬉しかったんだよ、すごく。すごく嬉しくて、……それで満足していればよかったのに、僕は」
「ぼくは……?」
「僕は、それ以上を望んでしまった」
 取手が、哀しげに自嘲する。
「ごめんね」
 すっと、取手が一歩下がった。葉佩から、遠ざかる。
「誤解させて、ごめん。僕は、葉佩君が嫌いなんじゃない。むしろ、……逆、なんだ」
「ぎゃく?」
「僕の、我が儘なんだ。これ以上、君の側にいると、君に優しくされると、好きになってしまいそうで、」
「え!?」
 ぎょっとして、葉佩は身を引いた。
 オレを、好きになってしまいそう……?
 呆然と、葉佩は取手を見つめる。


「ご、ごめん。おかしなことを言う奴だと、思ったよね。本当にごめん。葉佩君はただ、僕を放っておけなくて、親切にしてくれただけなのに。勝手に、期待してごめん。過ぎた望みだって、わかってるんだ。だから、僕は言ったんだ。近付かないで欲しいって。……僕が君を好きになってしまったら、君は、困るだろう?」
 取手が、申し訳なさそうな顔で、こちらを見た。
 その顔を見た瞬間、葉佩はがくりと膝をつきそうになる。
 取手が、あんな顔をするなんて。
 取手にあんな顔をさせてしまったのが、自分だなんて。
 信じられないぐらいの後悔を胸に、葉佩は首を振った。
「困ったり、しない」
「え?」
「迷惑だなんて、思うわけないよ。だってオレ、」
 すうっと大きく息を吸って、葉佩は告げる。
「オレはとっくに、取手くんのことが好きなんだから」
 取手の目が、こぼれ落ちんばかりに開いた。あちこち視線をさまよわせ、もう一度葉佩を見つめてくる。
 取手の白い頬に、僅かに赤みが差した。
「あの、それって……」
「だからオレ、さっきすごくショックだったんだけど!」
「えっ!?」
「オレはもうずっと取手くんを好きでいるのに、取手くんはまだオレのこと好きじゃなかったんだーって、すごーく……ショックだったんだ、よ」
 言っているうちにますます落ち込んできて、葉佩はその場にしゃがみ込んだ。はあ、とため息を落とした足下へ、取手が近付いてくるのが見えた。
「あ、あの、葉佩君……、」
 取手が跪くようにして、葉佩の顔をのぞき込んでくる。
「今の、本当かい?」
「オレは、そんな嘘、言わない」
 むうっと口をとがらせ、葉佩は言った。
「そ、そうだよね」
 取手の顔が明るくなったような気がする。
「葉佩君」
 取手の白い手が、葉佩の手を掴んだ。
「僕、とっても嬉しいよ。まさか、君にそんな風に言ってもらえるなんて、思ってなかったから……」
「うん」
 取手が嬉しそうにしているので、葉佩も嬉しくなった。拗ねていたことなどすっかり忘れ、葉佩は笑みを返す。
 嬉しい気持ちのまま、葉佩は取手の胸に顔を押しつけた。取手は驚いたようだったが、押し返すことはせず、そっと背中に手を回してくれる。
「ねえ、取手くん」
「何だい」
「もう、オレのこと、好きになった?」
 一瞬間をおいて、取手が答えた。取手の声は、どこまでも優しい。


「僕はもう、ずっと前から、君が好きだよ。葉佩君。自分の気持ちを誤魔化していただけて、きっと、――もしかすると、初めて逢ったときから……」
 取手の言葉を心地よく感じながら、葉佩は目を閉じた。


【完】


2006 11/09