5 幸せのとなり(取手と葉佩)


 売店で昼食を購入すると、取手は階段を上り、再び三階へ向かった。C組の前で足を止め、大きく深呼吸する。
 微かに声を出し、まともに喋れることを確かめると、開いている扉から中を覗いた。
 すぐに目的の人物が目に入り、声をかけようと口を開く。その脇を、誰かが通り抜けていった。
「センパイ!」
 あれは確か、一つ下の後輩だ。駆け寄る後輩に気づいて、彼──葉佩が振り返る。ぐりぐりと無理矢理後輩の頭を撫でて、楽しそうに笑った。
 それを見た瞬間、取手はその場で踵を返す。なぜか胸が痛んで、見ていられなかった。
 足早に階段をあがると、誰もいない屋上へたどり着く。
 ひとりきりになれたことに安堵して、取手は腰を下ろした。
 こんな顔は、誰にも見られたくない。


 持っていた袋を傍らに置くと、取手はぼんやりと空を見上げた。
 少し前まで、葉佩の周囲に人が集まることを嬉しく思っていた。
 あんなにすてきな人だから、当たり前のことだと。
 自分の大好きな葉佩が、皆に好かれることが嬉しかった。
 けれど今は、つらくて、苦しくて仕方がない。


 葉佩が、他の人に笑いかけるのが嫌だ。
 葉佩が、他の人に声をかけるのが嫌だ。
 葉佩の目に、自分以外の人間が映ることが許せない。
 こんな感情はおかしいと、自分でも思う。
 こんなことを考えるような自分は、葉佩のそばにいてはいけないような気がする。


 ただ、そばにいられることが嬉しかった。
 彼の隣で、一緒に笑えることがしあわせだった。
 どうして、それ以上を望んでしまったのだろう。


 ずっと、こんな醜い感情など知らずに、彼といられたらよかったのに。


 膝を抱えて、取手は俯いた。昼食をとる気など、とっくに消え失せていた。
 扉の開く音がして、誰かがやってきたことに気づく。だが動く気にはなれず、早くどこかへ行ってくれないかと思った。
「あれ、取手くん?」
 するはずのない声が耳に届いて、取手は慌てて顔を上げる。葉佩が、少し驚いた顔でこちらを見ていた。
「どうしたの、具合悪い?」
 葉佩は焦った様子で駆け寄ってくると、取手の横に膝をつく。
「う、ううん、大丈夫」
「ほんとか? 無理するなよ」
「ほんとに、大丈夫だから……」
 じっと見つめられ、取手は顔を赤らめた。ならいいけど、と葉佩はそのまま取手のとなりに座り込んだ。
 葉佩は、膝の上に置いた袋から、ごそごそとパンをいくつか取り出す。
「具合悪くないなら、食べないと駄目だよ」
 取手の脇に放置されている売店の袋に目をやって、葉佩が口をとがらせた。
「あ、う、うん」
 言われるままにサンドイッチを取り出すと、取手は包装を破る。取手が一切れ手にしたのを見ると、葉佩もカレーパンを持って笑った。
「いただきますっ!」
「いただきます……」
 つられるようにそう口にして、取手はサンドイッチを頬張る。
「美味しい?」
「うん」
「よかった」
 ほんとうに嬉しそうに笑われて、取手はじわりと胸があたたかくなるのを感じた。
「最初はマミーズ行こうかと思ったんだけど、よかったこっち来て」
「え?」
「だって取手くんがいたしね!」
「そ、そう……」
 どう返してよいかわからず、取手はますます顔を赤くする。
「なんか夷澤が来たんだけどさあ、今日は静かに食べたい気分だったから……」
「そうなんだ」
 きっと一人になりたくて、屋上を選んだのだろう。そう思って、取手ははっとした。
「あ、あの、僕がいたら、邪魔だよね……?」
 身を引きながら問いかけると、葉佩は目を丸くする。
「えっ、なんで?」
「え、だって、葉佩君は静かに食べたいんだろう?」
「あはは、なーんだ。取手くんは静かだから、全然へいき!」
「そ、そうかい?」
 静かだとか、口数が少ないだとか。物静かな取手は、よくそう評されることがあった。口べたな自分を責められているようで、取手自身はそう言われることをつらく感じていた。
 けれど、同じことを言われているというのに、相手が葉佩だというだけで、こんなにも嬉しく感じるのだ。
 自分は、ほんとうに、どうしてしまったのだろう。
「あっ、もしかして、オレのほうこそ邪魔だった……?」
 困ったような顔をすると、葉佩がごめんとパンを手に立ち上がった。自分を気遣って場所を変えるつもりなのだと悟って、取手は咄嗟に葉佩の上着を掴んだ。
「邪魔じゃないよ!」
 いつになく大声を出した取手に、葉佩が目を見張る。
「あ、あの、……葉佩君と食べると、いつもより美味しく感じるから……、その、いてくれると嬉しいんだけど」
 か細い声で、それだけ告げると、取手は葉佩から手を離した。
 ややあって、葉佩が隣に腰を下ろす。俯いている取手の顔をのぞき込むと、
「オレも。取手くんと食べると、いつもより美味しい」
 葉佩は、そう言って微笑んだ。
「う、うん……」
 取手も、ぎこちなく微笑んでみせた。


 そのあと、何を話したかは覚えていない。
 ただ、しあわせだなあと思ったことだけは確かだった。


【完】

2005 01/29