殺し文句(夷澤と葉佩)


 起きあがろうとした瞬間、ぐらりと世界がゆがんだ。再びベッドに沈み込むと、葉佩はぼんやりと天井を見上げる。
 すでに見慣れたはずのそれが、何故か全く知らないもののように映って、かたく目を閉じた。
 吐く息が熱い。身体が重い。どうやら、熱があるらしい。昨夜の探索時に受けた傷を、ろくに手当もしないまま寝てしまったのが原因だろう。
「困った……」
 熱を出すのなんて、何年ぶりだろうか。記憶にある限りでは、確かあれが最後だったはずだ。
 あの時は、見上げた天井がほんとうに全く知らないもので、どうして自分がここにいるのかもわからず、ただ恐怖に震えるばかりだった。
 そこまで思い出すと、葉佩は力無く首を振る。今考えることではない。今、この状況で思い出すのは、つらいだけだった。
 熱があるときに眠ると、決まって怖い夢を見るのだと言ったのは、誰だっただろうか。
 思い出せないまま、葉佩は意識を手放した。


 空気が動いたような気がして、葉佩は目を開ける。まず目に入ったのは、まだ冷たく見える天井。胸が締め付けられ、葉佩は泣きそうに顔をゆがめた。
「大丈夫っすか?」
 言葉とともに力強く手を握られ、葉佩は他に人がいたことに気づく。
 視界いっぱいに広がったのは、真剣な面もちで自分をのぞき込んでくる人の姿。
「……夷澤? 何やってんの」
「人が心配してきてやったっていうのに、第一声がそれっすか」
 少しだけあきれた顔になって、それでも心配そうな目を向けてくる夷澤に、葉佩は先ほどとは違う意味で泣きたくなった。
「……夷澤」
「どこか痛いっすか?」
 そっと、重い手を伸ばして夷澤の頬にふれる。夷澤がびくりと身を引いたので、葉佩は不満げに口をとがらせた。
「逃げるなよ」
「別に、逃げたわけじゃ……」
 こちらも不満そうに、夷澤は顔を赤らめる。
「もっかい」
 懸命に手を伸ばす葉佩にほだされたのか、夷澤が仕方ないという表情でかがみ込んできた。
 葉佩が無遠慮に顔をなでまわしていると、次第に夷澤の眉間に刻まれたしわが深くなる。
「楽しいっすか」
「楽しいよ」
「オレはちっとも楽しくないっす」
「なんで」
 渋い顔の夷澤に葉佩が首をひねると、盛大にため息をつかれた。
「触られるより、触るほうがいいに決まってるじゃないすか」
 当然のことだと胸を張る夷澤がおかしくて、葉佩は思わず吹き出す。
「なに笑って……」
「別に、いいけど?」
「は?」
「さわりたいなら、さわれば」
 葉佩がなんでもないことのように言うと、夷澤は一瞬呆気にとられたのか口を大きく開けた。
「オレはっ」
「うん?」
 どうしたのかと首を傾げる葉佩に、何かを言おうとした夷澤はそのままベッドに顔を伏せる。
「夷澤?」
「……アンタ、熱にうかされてるんすよね……?」
「ええ?」
「明日になったら、すっかり忘れちゃうんすよね」
 そうだ、これは絶対そのパターンだと、夷澤はなにやら一人で呟いているようだ。
「忘れないよ」
 葉佩は、握られたままだった手に力を込めて言う。その声音に混じった想いが伝わったのか、夷澤が顔を上げた。
 夷澤の目を見つめながら、葉佩は繰り返す。
「忘れない。オレ、何があっても、夷澤のことだけは忘れないよ。きっと、絶対」
 ぱちぱちと数回瞬きをして、夷澤がまじまじと葉佩の顔を見つめてくる。冗談ではないかと疑っているような視線に、葉佩は本気なのだと目で訴えた。
 その視線を受け止めた夷澤は、火照った頬を誤魔化すかのように頭を振りながら、恐る恐るという様子で口を開く。
「きっとと絶対と、どっちが本当なんすか、それ」
「ん〜と、たぶん?」
「……なんかさっきより悪くなってませんか」
「まあ、先のことなんて誰にもわからないし?」
 あははと笑う葉佩に、アンタに惚れたオレがばかなんすよね、と夷澤がため息をついた。
「でも、いいっす」
 何かを吹っ切った顔で、夷澤が笑う。
「アンタが忘れても、オレが覚えてますから」
 その笑顔に、不覚にも見とれてしまった葉佩は、急に恥ずかしくなって布団に潜って顔を隠した。
「あ、ちょっとセンパイ? なんで隠れるんすか」
 ぽんぽんと布団越しに軽く叩かれたが、葉佩は潜ったまま口の中で呟く。
「お前、だってそれはさあ」
 殺し文句、ってやつじゃないですか?
 聞き取れなかったのか、もう一度言ってくださいとお願いされたが、口にできるはずもなかった。


【完】


2004 11/16