背中合わせ(墨木と葉佩)


 C組にやってきた転校生である葉佩が、D組の墨木を訪ねてやってくるのはそう珍しいことではなかった。
 現に今も、墨木の正面に座って購買で買ってきたというパンを食べている。
 一番最初に昼食に誘ったのは自分のほうだったが、それから毎日のようにやってくる葉佩に、墨木は次第に疑問を抱くようになった。
 自分といて、この人は楽しいのだろうか。
 幼い頃からの視線恐怖症が年を経るにつれ悪化して、今ではガスマスクをつけていないと落ち着かないまでになってしまっていた。
 彼の目を見ることも出来ず、気の利いた話をするわけでもない──何しろ、口に出来る話題といえば主に銃器の取り扱いについてなのだ──そんな自分と。ともにいて、彼は楽しいのだろうか。
 彼は、はっきりいって人気者だ。いや、人気者というと語弊があるかも知れないが、この学園で彼を慕う者は多い。その大体が、自分のように彼に救われた経験のある者だった。
 中には、可愛い女の子やきれいな女性もいるというのに、何故彼はよりによって自分のもとへ来るのだろう。他の誰といたって、少なくとも自分といるよりは有意義な時間を過ごせるだろうに。
 彼と、一度戦ったことがある。あのとき、彼はとても哀しい目で自分を見つめた。同情、されているのだと思った。社会に適応できない自分を哀れまれているのだと。
 だが、そう問い返した自分に、彼は違うと言った。ただ、自分と戦わなければならないことが哀しいのだと、そう。
 優しい人だと、思った。まだ数えるほどしか口をきいたことのなかった自分に。銃口を向けた自分のために、彼は胸を痛めてくれたのだ。
「葉佩ドノ?」
 視線を感じて、墨木は正面に向き直る。葉佩が、食料を咀嚼しながら一心にこちらを見つめていた。
 彼の真っ直ぐな視線に、そんなはずはないのにマスクの下の素顔を見られているような気がして、居心地の悪さに身じろぎする。
「あの、……あまり見ないで欲しいでありマスっ」
「ああ。悪い、つい」
 墨木の訴えに、葉佩はようやく視線をそらした。ホッとすると同時に、一抹の淋しさを覚える。そんな自分が、浅ましくて嫌になる。
「でもさあ、やっぱそれだと食べにくいだろ?」
 人前でマスクをはずせない墨木は、ものを食べる時だけ少しずらし口を出していた。それが不自由ではないかと、彼は気にかけてくれているらしい。
「もう、慣れたでありマス」
「そっか。でもなあ……」
 葉佩は何事か考えている様子で、視線を周囲に巡らせた。教室内では、何人かの生徒が同じように食事をとっている。
 自分が周囲から浮いていることは気づいていた。もしかして彼も、自分といて恥ずかしいと思っているのだろうか。
 彼はそんな人間ではないという思いと、きっとそうなのだという思いが同時にわき上がる。
「墨木──」
 葉佩が口を開いたところで、昼休み終了のチャイムが鳴った。肩をすくめると、葉佩は立ち上がる。
「あ、あのっ」
「また明日」
 そう言い残して、葉佩は立ち去った。


 次の日、昼休みになっても葉佩は現れなかった。また明日と言われたのだから、来ないはずはないだろう。そう思って待っていると、今日は場所を変えようというメールが届いた。
 どこで食べる気だろう。墨木はとりあえずC組に行くことにする。
 廊下に出ると、葉佩の後ろ姿が目に入った。少し先で、誰かと立ち話をしている。あれは確か、A組の取手、といったか。
 墨木と同じ執行委員で、同じように葉佩に救われた者の一人だ。今日はもしかして、取手も一緒なのだろうか。
「あ、墨木」
 墨木に気づくと、葉佩はそれじゃあと取手に手を振った。取手が、ちらりとこちらへ視線を寄越す。いいのだろうかと思っている内に、葉佩に行こうと促された。
 そうやって墨木が連れてこられたのは、ひとけのない音楽室。中に入ると、葉佩は全てのカーテンを閉め、ついでに扉の鍵まで閉めた。
「葉佩ドノ?」
「これなら、誰にも見られないですむだろ? あ、鍵は取手くんに借りたんだ」
「は、はあ……」
 確かに、これなら窓の外から覗かれる心配もなく、扉を開けられることもない。ここで自分にマスクを外せと言うのだろうか。いくら相手が葉佩だとはいえ、墨木にはまだマスクを外す勇気はなかった。
 墨木が困っていると、座るよう指示される。とりあえず従ってみると、がたりと音がして、どうやら葉佩が背中合わせに座ったらしいことがわかった。
「あ、あの……」
「これでさ、オレからも見えないから。マスクはずしても平気だろ?」
「えっ」
 驚きに、声をあげてしまう。それに勘違いしたらしい、葉佩が慌てたように言い添えた。
「あ、大丈夫! オレ振り返ったりしないし、だから」
「葉佩ドノが嘘を吐いたりしないと、自分は知っているでありマス」
 自分が驚いたのは、葉佩が自分などのためにここまでしてくれたことに対してだ。ここまでして、どうして自分といてくれるのだろう。
「どうして、葉佩ドノは自分のためにここまでしてくれるのですカ?」
 葉佩にもらったものはたくさんあっても、自分はなにひとつ返せていないというのに。嬉しさと情けなさで、視界が歪む。
 鼻を啜った墨木の手を、葉佩が後ろ向きのまま握った。
「葉佩……ドノ?」
「うーん。墨木のため、というか。どちらかというと、自分のためなんだけど……」
「葉佩ドノの?」
「そう。オレは墨木とご飯食べたいと思うけど、でもそれは同時に墨木に不自由させることでもあって。……でも、一緒にいたかったから。それで、どうしたらいいかってずっと考えていて、この結論にたどり着いた訳なんだけれども」
 もしかして墨木は一人のほうが気楽だったかなあと、語尾とともに手を握る力が弱まる。このぬくもりを、失いたくはない。そう思って、なんとか墨木は声を絞り出した。
「自分は、とても感激しているでありマス! とても……嬉しいで、ありマス……っ」
 とうとう涙があふれて、墨木は自由なほうの手でマスクを外した。袖口で乱暴に拭うと、食事にしましょうと告げる。


 その日から、二人の食事は背中合わせでとられるようになった。


【完】


2004 10/07