落ちてきた幸福(取手と葉佩)


 かたわらに感じる自分とは異なる体温に、取手は目を向けた。取手が想いを寄せる相手が、無防備に眠り込んでいる。
 閉じられたまぶた。微かに開いた唇。吸い寄せられるように、取手は自らのそれを落とす。
 彼はわずかに身じろぐと、ぬくもりを求めるように取手の服の端を握った。無意識であろう彼の行動に、取手は穏やかな笑みを浮かべる。
 くせのないやわらかな髪に手を通すと、彼が気持ちよさそうに表情を和らげた。
 彼が、自分の前でこんなにも安らいだ表情を見せるようになるだなんて。取手は、信じられなかった。
 こうなったらいいと、思うことはあった。けれど、そんな風に考えることすら罪なことのように感じられて。それはあり得ない未来なのだと、そう決めつけていた。
 いつでも、彼の隣にいるのは自分ではない人だったから。それは例え、想像の中でも変わらなかった。


 どうして彼が、自分を選んでくれたのか。理由は、わからなかった。いや、理由などないのかも知れない。
 ただ、あの場にいたのが自分だったから。だから彼は、自分の手をとったのだろう。
 泣きそうな顔で自分の胸に飛び込んできた彼の身体を、取手は必死に抱きしめた。かけられる言葉などなく、ただ震える背を撫でながら。
 涙の理由は正確にはわからなかったが、きっとあの人のせいなのだろう。それだけは、確信していた。
 言い換えれば、彼が自分を選んでくれたのは、あの人のお陰なのだ。あの人が彼を傷つけ、流したことのない涙を流させたから。
 だから彼は、今こうして自分のとなりに存在するのだ。


 一度、自分といる彼に、あの人はいいのかと訊ねたことがある。
 彼は、もう自分は必要ないみたいだからと言った。何故そんなことを聞くのかと、不思議そうな顔で。
 あの人はまだ彼を必要としているのに、彼はそれに気づこうとしないのだ。
 初めは、あの人の行動に怒って拗ねているだけなのかと思ったが、どうやら違うらしいと気づいた。
 どこまでも真っ直ぐな彼は、あの人の行動の裏を見ようとはしない。
 ただ、あのときあの人が彼の差し伸べた手を振り払った。それだけが彼の中に残った真実で、何故あの人がそんなことをしたのかとか、どんな想いで決断したのかとか、そういったことは全く関係がないようだった。
 たった一度、彼を拒絶しただけで、彼らの関係は崩れ去ってしまった。今まで積み重ねてきたもののすべてが、あの一瞬でなかったことになってしまったのだ。
 それが彼という人なのだから、それはきっと仕方ないことなのだろう。
 そしてそれは、いつか自分の身に降りかかるかも知れないことでもある。
 これから先も彼といることを望むなら、あの人のように重要な選択を迫られることがあるだろう。
 そのとき自分は、果たして正しい選択をすることができるのだろうか。あの人のように、彼を失う結果にはならないだろうか。
 考えただけで、恐ろしさに身が竦む。
 彼といる幸福を知ってしまった今、ひとりで生きていくことなど、自分に出来はしないだろう。
 

 今のうちに手放してしまえば、楽なのかも知れない。
 それでも、転がりこんできた幸福を自ら手放すことなど、できそうになかった。


【完】


2004 10/12