見つめる先に(取手と葉佩)


 廊下を歩く取手の手にあるものは、見慣れた楽譜ではなく、美術の授業で使っているスケッチブックだった。
 取手は頭痛のために美術の時間を保健室で過ごしてしまい、一人だけ課題を与えられたのだ。
 課題の内容は、人物のスケッチ。手先の器用な取手にとってはそれ程苦でもなかったが、問題は誰をモデルにするかであった。
「モデル、かあ……」
 誰を描きたいかと問われれば、浮かぶのはたった一人の笑顔。だが、モデルをしてもらうということは、その間相手を拘束してしまうということで、時間がいくらあっても足りないと普段から言っている彼に頼むのは躊躇われる。
 かといって他に当てがある訳でもなく、取手は幾度目かのため息をついた。
「取手くーん!」
「あっ、葉佩くんっ」
 どこから取手を見つけたのか、葉佩が廊下の向こうから駆けてくる。にこにこと嬉しそうに笑いながら、取手の肩に掴まるようにして足を止めた。
「おっと、行き過ぎるとこだった〜」
「そんな走らなくたって、取手は逃げやしないだろうが」
 後からのんびりと歩いてきた皆守が、なあと取手に話を振ってくる。
「もちろん。僕が、葉佩くんから逃げるはずないじゃない」
 取手が大きくうなずいてみせると、皆守は何故か顔をしかめた。
「そんな大まじめに言われてもなあ」
「え?」
「いや、なんでもない」
 首を振ると、皆守はいつまで掴まっているのかと葉佩の腕を取手の肩からおろさせる。そのままでもよかったのに、という呟きは口に出さず、取手は曖昧に笑った。
「あれ、取手くん、それなに?」
「スケッチブックだろ。購買で売ってる」
「美術だったの?」
「あ、うん。でも保健室にいたから受けそびれて、その、」
 課題を出されたのだと言う前に、葉佩が大声を上げて取手にしがみついてくる。
「ええええええ! 具合悪いの!? 大丈夫……?」
「もう、平気だからっ」
 鼻先が触れそうなぐらいの至近距離で見つめられ、取手は狼狽して後ずさったが、しがみついたままの葉佩もくっついてきたので、あまり意味はなかった。
「そう? ならいいんだけど」
「う、うん。ありがとう、心配してくれて」
 葉佩は安心した顔で離れていったが、取手の心臓はどくどくと落ち着かないままだ。スケッチブックで顔を扇ぎながら、葉佩の顔を盗み見る。
 皆守と何やら話している葉佩に、やっぱりいいなあと思った。くるくると変わる表情を、この手で描いてみたいと思う。
「課題でも出されたのか?」
「え?」
 どうしてわかったのかと、取手は問いかけてきた皆守を見つめた。皆守が、頭をかきながらだるそうに答える。
「俺もこの間、な」
「皆守、さぼってたの見つかって、特別課題〜っつってデッサン20枚とか出されたんだぜ」
「それは……大変だったね」
 どう返してよいかわからず、取手は無難な言葉を選んだ。
「災難だったぜ、全く」
「取手くんも? デッサン20枚?」
 眉をひそめ、葉佩が取手の持っているスケッチブックを指さす。違うのだと手を振ると、取手は課題の内容を二人に話した。
「人物画かあ」
「それで、誰をモデルにするか困っていて……」
 弱り切ったという顔をする取手に、元気よく手をあげながら葉佩が口を開く。
「はいっ! 取手くんはオレのことを描いたらいいと思います!」
 葉佩の申し出に、取手は目を丸くした。
「えっ、いいのかい? けっこう時間がかかると思うけれど……」
 口ではそう言いながらも、嬉しさを隠しきれずにいる取手に、皆守が冷めた目で顔が笑っているぞとつっこみを入れる。
「オレは全然構わないよ。つか、嬉しいぐらい? 取手くんになら、かっこよく描いてもらえそうだし!」
「そんな、すごいものじゃないよ?」
 できあがりを見てがっかりさせてしまったら申し訳ないと、取手は慌てて手を振ったが、葉佩は嬉しそうに笑うだけだった。


 屋上では寒いだろうと、二人は温室へ足を運んだ。
「へえ、この中ってこんな風になってるんだ」
「初めてかい?」
「うん。いろいろ花が咲いてる。ちゃんと手入れされてるんだね」
 きれいだと赤い花の前で足を止めた葉佩を見て、取手の胸が高鳴る。花よりも君のほうがきれいだなんて、月並みなほめ言葉かも知れないけれど、本気でそう思ってしまうのだから仕方ない。
「どのへんで描く?」
「えっと、どうしようか……」
 土の上に座ったら汚れてしまうだろうと、どこか座れる場所はないかと取手はあたりを見渡した。どこで見つけたのか、葉佩が乾いたレンガを持って戻ってくる。
「これに座ればいいよね。はい、取手くんも」
「ありがとう」
 レンガをいくつか並べ、ふたり向き合う形で座り込む。
「ポーズとかとったほうがいい?」
「う、ううん。普通でいいよ。楽にしていて」
「わかった」
 それきり黙り込むと、葉佩は鉛筆を握った取手の顔をおもしろそうに見つめてきた。その視線にどぎまぎしながら、取手は一生懸命、絵に集中しようと頑張る。
 考えてみれば、こんな風にじっくりと葉佩の顔を見られる機会など、めったにないことなのだ。どれだけ見つめても、嫌がられることも不審がられることもない。
 スケッチブック越しに見つめる取手に、葉佩も笑みを返してきた。
 いつもは印象的な瞳や表情ばかりに目がいってしまうが、こうして改めて見ると整った顔立ちをしていると思う。女生徒に人気があるのも、うなずける気がした。もちろん、彼のよいところは外見だけではないのだけれど。
 誰よりも強く、誰よりもやさしい。彼を見ていると、自分が何をしても受け入れてくれるような、そんな気さえしてくるのだ。だからといって、何もかもを彼に頼ってしまうつもりなど取手にはなかったが。
 誰にでも等しく愛を振りまく彼が、心から必要とする人とは、一体どんな人なのだろう。
「やっぱり……皆守くん、なのかな……」
「皆守がどうしたって?」
「えっ」
 どうやら口に出してしまったらしい、葉佩が不思議そうな顔でこちらを見ている。まさか本当のことを言うわけにもいかず、取手は顔を赤くして手を振った。
「な、なんでもないよっ」
「そう? 皆守になんか意地悪でもされたんなら、オレに言ってね?」
 真摯な口調でそう言われ、取手は罪悪感に胸を痛める。
「う、うん……」
 変わらず優しいまなざしを向けてくれる葉佩を、今度こそ雑念を払って描き始めた。


 最後の線を入れて、取手は鉛筆を置いた。
「できた……」
 どれだけ時間がたったのか、あたりは既に、夕暮れを示すオレンジ色に染まっている。
「わっ、もうこんな時間!?」
 驚いて立ち上がった取手に、葉佩がねぎらいの言葉をかけてくれた。にっこりと笑いかけられ、見てもいいかとスケッチブックを指さされる。
「もちろん。あ、でも、あんまり上手じゃないから……」
「そんなことないって!」
 早速スケッチブックを受け取ると、葉佩はうきうきとした表情でページをめくった。
 一体どんな反応をされるのか不安で、取手は少し離れた位置から葉佩を見守る。開かれたページをまじまじと見つめた後、葉佩は勢いよくスケッチブックを閉じた。
「葉佩くん……?」
「あ、ありがとう!」
 何故か赤い顔をして、葉佩がスケッチブックを取手に返す。取手が受け取ろうとしても、葉佩の手は離れなかった。
「これ、他の人に見せる?」
「えっと、……提出する、けど」
「あ、そっか。そ、そうだよな……」
「なにか、問題があった……かな」
 やっぱり上手く描けなかったから、気に入らなかったのだろうか。不愉快な想いをさせてしまったかと、取手は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「ごめん。君が嫌なら、他のものを提出することにするよ」
「えっ! い、いやなんじゃないよ! ただちょっと、……は、はずかしいというか、照れるというか、オレっていつも、こんな顔してるのか、とか……その、」
「……?」
 葉佩が何を恥ずかしがっているのかわからず、取手は首を傾げる。取手の見る葉佩は、いつだってとても優しく、とてもきれいな顔をしていると思うのだけれど。
「えと、あ、でも、これは提出してくれて構わないから! てゆーか、そのために描いたんだしなっ! うん! それじゃオレはこれで!」
「えっ」
 言うが早いか、葉佩はものすごい勢いで温室を飛び出していった。残された取手は、やはり自分の描いた絵が気に入らなかったのだと、哀しい気持ちになる。
「どうしよう……」
 自分ではとても上手く描けたと思ったのだが、葉佩が気に入らないのなら提出するわけにはいかない。なんて謝れば、彼は赦してくれるだろうか。


 重い足取りで温室を後にした取手の前に、皆守が通りがかった。
「おい。今、葉佩の奴が走ってったが、お前、なんかしたのか?」
「し、してないよっ!?」
 手を出したのかと聞かれたような気がして、取手は思わず大声で否定する。ただちょっと、とスケッチブックに目を落とした。
「描いた絵が、はずかしい、とか言われて……。あ、僕が上手く描けなかったからなんだけど」
「はずかしい?」
 あいつが取手を悪く言うとは思えないんだがと首をひねりながら、皆守がスケッチブックを取手から取り上げる。
「あ、見ないで……っ」
 取手の制止には従わず、皆守は絵を見てしまう。
「これは……。まあ、なんていうか、確かにはずかしいな」
「えっ!?」
 先ほどの葉佩と同じ反応をする皆守に、やっぱり変な絵なのかと取手は肩を落とした。
「そ、そんなにおかしいかな……?」
「おかしくはないが、はずかしいだろう」
「はずかしい……」
 大好きな葉佩を描くのだからと、張り切って取り組んだというのに、やる気が空回りしてしまったのだろうか。
 俯いた取手に、そういう意味じゃないと皆守が手を振る。
「そういう意味じゃないって?」
「だから、まあ、その、なんだ」
 視線を巡らせながら皆守は、それは本人に聞いたほうがいいだろうと言葉を濁した。
「本人……。でも、葉佩くん、怒ってるんじゃないかなあ」
 不安げに呟いた取手を、あっさりと皆守が否定する。
「いや、それはないだろう」
「でも」
 更に言い募ろうとする取手を制すと、とにかく俺はもう何も言わないからなと皆守は背中を向けてしまった。
 仕方なく、取手は葉佩の姿を捜しに寮へ足を向ける。


 部屋に向かおうとした取手の前で、プレイルームからぞろぞろと人が出てきた。まだ夕飯には早い時間だというのに、皆どこへ行くつもりなのだろう。取手に気づいた者が、今は中に入らない方がいいと声をかけてくる。
 何があったのかと中を覗くと、葉佩が誰かと話している姿があった。一緒にいるのは、先日仲間になったばかりの後輩のようだ。
 どうも、後輩が逃げようとしているところを無理矢理押さえつけて、葉佩が一方的に何かを語っているらしい。
「なあ夷澤、オレっていつもあんなんか!?」
「あんなんがどんなんだか知りませんけど、いっつもあの人の前じゃだらしない顔してますよ、アンタは!」
「嘘だろう!?」
「嘘じゃないって何回言えばいいんすか、オレは!」
 何度も同じことを聞かれているらしく、夷澤はうんざりした顔で怒鳴っている。
 先ほどの者たちは、この二人の怒鳴り声が耳障りで出ていったのだと悟った。
「いい加減にしてください……って、あ、ちょうどいいところに本人がいるじゃないっすか」
 入り口からのぞき込んでいる取手に気づいた夷澤が、これでようやく解放されると晴れ晴れとした表情で立ち上がる。
 同じく取手に気づいた葉佩が、妙な叫び声をあげてソファーから落ちた。
「葉佩くん、大丈夫!?」
 取手が床に転がった葉佩を抱き起こすと、それじゃあと入れ替わりに夷澤が出ていこうとして、入り口で立ち止まると不満げな顔で振り向く。
「取手、センパイ? アンタ、しっかりその人のこと捕まえといてくださいよね。ノロケられたりとか、ウザイんで」
 向けられた視線に、しっかりと夷澤の葉佩への想いがにじんでいて、取手はとっさに葉佩をかばうように抱きしめた。
「……その調子っす。まあ、せいぜい頑張ってくださいね、センパイ」
 そう言い残して、今度こそ夷澤は姿を消す。
「あ、あの、取手くん、その、」
 取手の腕の中で、葉佩が居心地悪そうに身じろいだ。抱きしめる格好になっていたことを思い出し、取手はあわてて身を引いた。
「ご、ごめんね!」
「う、ううん」
 お互い俯いて黙り込むと、取手の落としたスケッチブックを葉佩が拾い上げる。
「あ、葉佩くんが嫌なら、提出しないから。大丈夫」
 安心させようとそう口にする取手に、きゅっと口を引き結んで葉佩が首を振った。
「いいんだよ、無理しなくて」
「ちがうんだって」
 今にも泣き出しそうな顔で、葉佩が取手を見上げてくる。
「取手くんの描いてくれた絵を見て、オレ、いっつも取手くんのこと見ながらこんな顔してるんだって思ったら、恥ずかしくなって……」
「……?」
 葉佩が広げたページに描かれた顔は、取手にはいつも見慣れた表情にしか思えなかった。
「葉佩くん、僕の前ではいつもこういう顔してると思うけれど……?」
「だから! それがはずかしいんじゃん!」
「……?」
「だってほら、この顔、どっからどー見ても、取手くんが大好きって顔じゃん!」
 顔を真っ赤にして叫んだ葉佩に、ようやく何を恥ずかしがっているのかわかって、取手も顔を赤くする。
 皆守が言っていたのは、そういうことだったのか。
「大好き……って、顔、なんだ?」
「き、聞かないでよ、頼むから」
 これ以上ないぐらい赤くなった顔を隠そうとする葉佩を慰めようと、取手は大丈夫と明るく言った。
「僕もきっと、葉佩くんが大好きって顔してるから」
「……それ、フォローになってないような気がする……」
 誰も入り込めない空気をまき散らしていることには気づかないまま、二人はしばらくの間プレイルームを独占することとなった。


【完】


2004 11/20