恋の話(取手と葉佩)
ピアノの音色に混じって何かが聞こえたような気がして、取手は鍵盤から指を離した。音楽室の壁は防音になっているはずなのだが、取手の優れた聴覚は、まれに外の音を拾ってしまうことがある。
すぐ外の廊下から聞こえた音が足音で、それが一体誰のものなのかわかってしまった取手は、自然と浮かんでしまう笑みをおさえられずにいた。
少しの間廊下で気配をうかがっていたらしい相手は、音を立てずに扉を開け、中に入ってくる。
ピアノの前に腰掛けた取手と目が合うと、しーっというように口元に指を立て、機敏な動作で隣の準備室へ姿を消した。
準備室の扉が閉まったと同時に、音楽室の扉が勢いよく開く。
「九チャンッ! ……あれ、取手クン!?」
元気よく飛び込んできた八千穂が、室内に取手しかいないことに気づいて目を丸くした。
「いま、九チャン来なかった?」
「見てないけれど」
「おかしいなあ……」
首を傾げると、八千穂は邪魔をしてごめんと言って出ていく。扉が完全に閉まったのを確認して、取手は鍵を閉めた。
「君が隠れた原因が八千穂さんだとしたら、もう安全だと思うけれど」
穏やかに言いながら、取手は準備室の扉を開ける。
机の下で小さく丸まっていた葉佩が、歯を見せて笑った。
かくまってもらったお礼だと、葉佩が準備室で沸かしたお湯で紅茶をいれてくれた。
「はいどーぞ」
「ありがとう」
窓際に座って、取手は湯気の立ったカップを受け取る。
「ティーバッグだけどね」
小さく舌を出すと、葉佩も取手の向かいに座った。
「おいしいよ」
どうやったらティーバッグでこれ程の香りと味を出すことができるのかと驚きの目を向ける取手に、大したことじゃないと葉佩が笑う。
「蒸らしかたにコツがあるんだ」
「葉佩君って、なんでも知ってるんだね」
すごいなあと取手が感嘆すると、人に教わったんだと葉佩は窓の外を見た。
誰かを思い浮かべているであろう葉佩に、落ち着かなくて取手は視線をカップに落とす。
「オレってこういう仕事じゃん? 時間との戦いってとこあるし、食事とか、別に栄養とれれば味とかなくてもいいやって感じだったんだけど」
「えっ、葉佩君が?」
料理に関しては並々ならぬこだわりを持っているように見える葉佩が、そんな風に考えているとは思えず、取手は驚いて顔を上げた。気配が伝わったのか、葉佩が振り向く。軽く手を振りながら、葉佩が以前のことだと言い添えた。
「まあ今でも少しはそう思ってるんだけど、でもその人に言われたんだ。あたたかくて美味しい食事は、空腹だけじゃなくて心まで満たしてくれるんだって」
「……素敵なひとだね……」
その言葉には、葉佩の身を案じる相手の気持ちがにじんでいるようで、取手は自分以外にも、そんな風に彼のことを心配している人間が存在すると言うことが嬉しくなった。
葉佩は、きっともうすぐ自分のそばから旅立っていってしまうだろうけれど。
世界のどこかに、そんな人がいてくれるのだとしたら、それほど不安になる必要はないのかも知れない。
「うん。だから、余裕があるときはなるべくあったかくて美味しいものを食べるようにしているんだ」
「そう。僕も、それがいいと思うよ」
取手がうなずくと、葉佩は嬉しそうに笑った。
「そういえば、葉佩君はどうして八千穂さんから逃げていたんだい?」
窓の外から聞こえてきた女生徒の声に、ふと思い出して取手が訊ねると、しまったという顔で葉佩がうめく。
「……? あ、言いづらいことなら、いいんだけど」
取手が慌てて手を振ると、葉佩は口をとがらせた。
「どーして女の子って、恋話が好きなのかなあ」
「えっ!?」
葉佩の口から飛び出した単語に動揺し、取手は危うく持っていたカップを落としそうになる。
「こ、恋……?」
問い返す取手に、スプーンをくわえたまま葉佩が大きくうなずいた。
恋と八千穂は、なんだかあまり結びつかないような気がしたが、それは失礼な話だろうと口には出さず、取手はごくりと喉を鳴らす。
「葉佩君を、好き、とか、」
恐る恐る口にした問いかけは、二人がいつも一緒にいることを考えれば十分にあり得る話のような気がした。
「え? や、違うって! ないない、それはない!」
予想外の質問だったらしく、葉佩は一瞬目を大きく見開き、大げさに両手を振る。
「ち、違うんだ」
ホッとしてるのかそうでないのか、取手自身にもわからない。ただ、楽な気持ちになったことだけは確かだった。
「ただ、なんか好きな人はいるのかとか、どんな子がタイプなのかとか、そんな話」
「へえー。……なんて、答えたんだい?」
自分はきっと、今おかしな顔をしているだろうと自覚しながら、取手は上擦った声でそう訊ねる。手が震え、持っていたカップがかたかたと音を立てた。
「だから。逃げたんだって」
「あ、そ、そうか……」
残念なような、安心したような。肩の力を抜くと、取手は葉佩の顔を盗み見る。
葉佩はなんだか、怒ったような顔をしていた。
やはり聞くべきではなかったかと、取手は謝罪の言葉を口にしようとしたが、その前に葉佩が口を開く。
「さっきの人の話には、続きがあってさ」
「う、うん」
まだこわばった表情で話す葉佩に、なにかつらい思い出でもあるのだろうかと取手は眉根を寄せた。
「誰かと食べる食事は、何よりも価値のある宝だって」
「……そう、そうなんだ……」
「八千穂に好きな人はって聞かれて、思ったんだ。一緒にご飯食べて、美味しいなあって思える人がいいって、さ」
全くその通りだと、取手は葉佩との食事を思い返して頷く。なんでも美味しそうに食べる葉佩との食事は、取手にとってとてもしあわせで、とても楽しい時間だった。
それは、今こうして、向かい合って紅茶を飲んでいるだけでも同じこと。
「僕も、葉佩君と食べているときが、一番美味しいと思うよ」
するっと出てきた言葉が意味することには気づけないまま、取手は微笑んだ。
「……取手って時々、天然で意味深な発言するよなあ……」
「え? 僕、なにかおかしなことを言ったかい?」
いつになく顔を赤くした葉佩に、動揺しながら取手は身を乗り出す。
それを手で制すと、葉佩はオレも同じだと呟いた。
「オレも、取手と食べるときが、一番美味しいと思う」
「ほんとう? それじゃ僕たち、両想いなんだね」
取手が、よかったなあと胸をなで下ろすと、葉佩は背後の窓に頭をぶつける。
「だ、大丈夫!?」
「大丈夫じゃないかも〜」
焦って立ち上がった取手の前で、困ったような面もちで葉佩が目を閉じた。
【完】
2004 12/02