口実(キョン視点)


 毎朝見上げてはうんざりする坂を今日も何とか上り終え、ようやく一息ついたところで出くわしたのがとても今同じ道を通ってきたとは思えないぐらい爽やかな笑顔を振りまく超能力者だったりしたので、今日も俺の運勢は絶不調らしい、と俺はそこで確信したね。
 たまには一位に跳ね上がってみても罰は当たらんだろうに、一体全体俺の運勢はどこでさぼってやがるのだろうか。
「おはようございます」
 気づかなかった振りをして通り過ぎてみたのだが、追いかけてきた奴に声をかけられた。
 ここまでされて無視するのも大人げない。俺は仕方なく古泉に顔だけを向け、ああ、とだけ応えてやる。
 それは挨拶とも言えないものだったが、古泉は気にすることなく微笑んだ。若干嬉しそうに見えるのは俺の目の錯覚だと思いたい。
 それにしても、こいつは何故こんなところにいるのだろう。
 古泉が転校してきてから結構経つが、こいつとこんなところ――校門で出くわすなど、珍しいことこの上ない。
 俺の視線に気づいたのか、古泉は笑ったまま首をかしげた。
「どうかされましたか?」
「別に」
 俺は古泉から視線を外すと、大股に昇降口へ急ぐ。古泉は、いとも簡単に後をついてきた。
 足の長さの差ってやつか、腹が立つ。
 俺はいささか乱暴に下駄箱を開け、上履きに履き替えた。古泉の姿は見えない。
 クラスが違うのだから当然だろう。俺は自分の教室へ向かおうとして、足を止めた。

 何故古泉が、俺の行く手に立っているのだろう。
 誰か教えてくれないか。

「何だ。何か用か。俺に用か」
 一縷の望みを託し、ハルヒなら教室にいると思うぜ、と付け加えてやる。
「いえ。彼女には先ほどお会いしました」
 笑顔で否定された。ということは、用があるのは俺だということか。
「一体何の用だ」
 俺はもう一度繰り返す。古泉は、いつになく歯切れの悪い口調で視線を巡らせた。
「用、というほどのものではないのですが、……」
「じゃあな」
「あ、待ってください」
 さっさと背を向けた俺に、古泉が追いすがるように腕を掴んでくる。何の真似だ、気持ち悪い。
 生憎、俺は男に腕を組まれて喜ぶような趣味は持ち合わせていないのだが。
「それなら、僕と同じですね」
 にっこりと笑って古泉が言う。じゃあ、この状況は何なんだ。
 学校の廊下で、爽やかすぎて胡散臭い笑みを浮かべた男に手を取られている、今の俺のこの状況は。
「さあ?」
「さあじゃない、さあじゃ!」
 古泉は俺が嫌悪に歪めた顔をまじまじと見つめた後、ゆっくりと腕を放した。その仕草が名残惜しそうに見えただなんて、断じて思いたくはない。
 何なんだ、こいつは。
「それでは、また放課後」
 手を振って、古泉は去っていく。俺は、遠ざかる古泉の背中を睨み続けた。


 といったようなことがあってから、十日ほど過ぎた。その間古泉は、何が楽しいのか毎朝同じように俺の前に姿を現した。
「ハルヒは」
「教室にいらっしゃいます」
 このやりとりも、最早日課だ。俺としてはあまり慣れたくない状況なのだが、聞かずにおれないのだから仕方ない。
 というか、こいつは何だってこんなことをしてるんだ?
 今日も俺たちは会話とも呼べないような短い言葉を二言三言交わし、予鈴前に別れた。
 あいつの背を見送ることにも、俺はすっかり慣れてしまっていた。繰り返すようだが、俺にとっては全くもって不本意なことだ。
 古泉の別れの言葉は、決まって「また放課後」だった。その言葉が示す通り、俺たちは毎放課後――それこそ休みの日ですら、顔をつきあわせている。
 だから、わざわざ顔を見に来る必要などないはずだった。用があるなら、放課後会った時にでも言えばいい。
 そして俺は、この十日間というもの、古泉から用事らしい用事など告げられたことはただの一度もなかった。
 俺でなくとも、古泉が一体何をしたいのか疑問に思うところだろう。

 そろそろ、問い詰めるべきだろうか。だが、あいつが素直に口を割るとも思えない。
 もしや。また何か、あいつらと敵対する組織とやらが、何かを企てているとか?
 だがそれなら、わざわざ俺たちの顔を見に来るなどというまだるっこしい手段を取るはずがない。渦中の人物でありながら何も事情を知らないハルヒはともかく、俺にはもっと直接的な言葉でアドバイスしに来るはずだ。多分。
 それとも、あいつはあれで何らかのサインを示しているつもりなのだろうか。ただ俺が、それに気づけずにいるだけで。
 そうなのだろうか。どうだろう。
 不意に、無表情な少女の顔が浮かんだ。
 長門。そうだ、長門なら何か知っているかもしれない。
 俺が気づかない何かに、気づいているはずだ。きっと。

「キョン、キョンってば、聞いてるの!?」
 ハルヒの怒鳴り声に、俺は我に返った。後ろの席で、ハルヒが最高に不機嫌な顔をしている。
「何よ、せっかくこのあたしが心配してやってるっていうのに!」
「心配?」
 もしやハルヒ、お前も古泉の挙動の不審さに気づいていたというのか。驚いた俺に、ハルヒは何言ってんのあんた、と思い切り呆れた顔をした。
「あたしがおかしく思ってるのは、古泉くんじゃなくてあんたよ、あ・ん・た!」
 一文字ずつ区切って言いながら、ハルヒはびしっと俺の顔を指さす。人を指さしちゃいけませんって、習わなかったのかこいつは。どうせ右から左へ聞き流したんだろうな、ハルヒのことだから。
「俺? 俺のどこがおかしいって?」
 年中おかしいハルヒに心配されるとは、俺もつくづくヤキが回ったものだ。
「どこもかしこもよ。な〜んか、妙に真面目な顔してるし、怪しいのよね」
 俺が真面目な顔をしてたらいけないのか。
「悪いとは言わないわよ。ただ、おかしいってだけで」
 そのほうがよっぽど悪い気がするのは俺の気のせいだろうか。
「で、何を悩んでるわけ? どうせあんたの頭じゃろくな解決策が浮かばないでしょう? このあたしに、任せなさ〜い!」
 最高の笑顔で、ハルヒが自分の胸を叩く。お前に相談すると、余計ややこしいことになりそうな気がするのは俺だけだろうか。
「大したことじゃない。ただ、ほら最近、朝やたらと古泉に出くわすだろう? それが不思議だと考えてただけだ」
 まあ、このぐらいは言っても大丈夫だろう。ハルヒのことだから、同じ学校にいるんだから、当たり前じゃないとでも返されるはずだ。

 だが、ハルヒから返ってきた言葉は、俺にとって全く予想外のものだった。




「おや? どうしたんですか、こんなところで。ああ、朝比奈さんが着替え中だとか」
 部室の前で待っていた俺に気づき、古泉が足を止める。俺は何も言わずに、古泉の手を取って歩き出した。
 いつかの、古泉が俺にしたように。
「どうしました? あの、涼宮さんは……」
 古泉が、いつになく焦った声を出す。俺は無視して目的地へ向かった。


「ええと、ここで何かあるんですか?」
 俺が向かったのは屋上だった。放課後ともなれば、ひと気はない。
「僕に何かご用でしょうか」
 どこか落ち着かない様子で古泉が問う。俺は自分でもわかるぐらい不機嫌な顔で古泉を一瞥した。
 古泉が、ぎくりと身体を強ばらせる。
「何か、あったんですか?」
「それはこっちの台詞だ」
 古泉の言葉にかぶせるように、俺は早口で言った。古泉が首をひねる。何もわからないって顔だな。
「どうして、嘘をついた」
「……え?」
 俺の言葉に、古泉が目を見開いた。笑顔が強ばってるぞ、超能力者。
「お前、言ったよな。毎日、ハルヒと俺の様子を確認してるって」
「ええ。ええ、そうですよ。観察と言っては聞こえが悪いですが、彼女とあなたの様子を確認しています。それが僕の役目ですから」
 何だその話かという風に、古泉が表情を和らげた。
「じゃあなんで、ハルヒはお前に会った覚えがないと言うんだ」
 俺は顔を上げ、真っ直ぐに古泉を見つめる。古泉が、表情を失った。

――古泉くん? って、あの古泉くんよね? 朝、会ったことなんてあったかしら? 少なくとも、あたしは覚えがないわ。SOS団では会ってるけど。キョンは、会ったことがあるの? そんなに頻繁に?

 不思議そうな顔で、あのときハルヒはそう言った。
「どういうことだ」
 絞り出すように、俺は問いかける。古泉は、力なく項垂れていた。
「俺を騙したのか」
 俺を騙して、何の得があるというんだ。これも何かの計画の一部なのか。
「……まさか、あなたが涼宮さんに尋ねるとは思ってもみませんでした」
 ため息のように静かな声で古泉が言った。自嘲するように、微かに口の端をあげて。
「俺が長門に尋ねる前でよかったな、と言うべきか?」
「長門さんに?」
 古泉が、ぱっと顔を上げる。
「あなたは、そこまで……」
 俺の顔を見つめたまま、古泉は瞬きを繰り返した。何か、壊れた人形のようで気味が悪い。
 ふう、と古泉が小さくため息をつく。
「口実が、必要だったんです」
「口実?」
「ええ。僕が何の理由もなくあなたに会いに行ったらおかしいでしょう?」
「……俺に?」
 頷く古泉に、俺は少なからず動揺した。それじゃあ、目的は俺だったということか?
「なんの、ために」
 いろいろ聞きたいことはあったが、俺はそれだけ口にするが精一杯だった。情けないことに、まだ動揺から立ち直っていなかったのだ。
 古泉は何か言おうと口を開いたようだったが、俺の顔を見た途端閉ざしてしまう。
「何のために?」
 俺は言葉とともに一歩近寄った。古泉が、怯えたように顔を伏せる。
 何なんだ、この状況は。これではまるで、俺がこいつをいじめているみたいじゃないか。
「答えろ」
 もう一歩前に出ると、俺は古泉の肩を掴んだ。チクショウ、こいつ背が高いな。
「古泉」
 いくら俯こうと、下からのぞき込まれたらどうしようもないだろう。古泉は、それでも抵抗するように顔を背けた。
「……僕は、僕は完璧な人間ではありません」
 吐き出すように、古泉が言う。俺は、手の力を緩め、古泉を見上げた。
「僕にだって、何もかもを投げ出したくなる瞬間が、あるんです」
「そりゃ、そうだろうな」
 誰もお前が完璧な人間だとは思っちゃいないさ。それに近い人間を演じているだけなんだろう?
 俺は、今の古泉の言葉と、古泉がこれまでとってきた行動にどんな関連があるのか疑問に思いながら言葉を紡いでいく。
 俺がお前の立場だったら、とっくに何もかも捨てて逃げ出してるさ。お前は、よくやってるほうだと思うぞ。
 くすりと、古泉が笑った気がした。
「あなたは、優しい人ですね」
 そんなはずはないのに、と古泉が笑う。何だか、泣いているように見えた。
 背筋を伸ばした古泉は、すっかりいつもの古泉だった。
「でも、僕は簡単に逃げ出したりすることはできないから。逃げたって、どうなるものでもないと知っているから。だから、ここに踏みとどまっているんです」
「そうか」
 他に、どう言えばいいかわからなかった。
 俺は古泉を目で促す。古泉が、諦めたように笑った。
「それでも、誰かにすがりたくなる時があって……、それで、です」
「それで、……?」
 意味がわからない。それで、何だって言うんだ。
 古泉が、ひょいと肩をすくめる。
「そこまで、僕に言わせる気ですか? 僕はこれでも精一杯告げたつもりなんですが」
 何の話だ。本気で意味がわからなかった。
 俺たちは今、何の話をしていたんだっけ? 古泉が、古泉でも役目とやらを放棄したくなることがあって、でもそういう訳にはいかないから、――だから?

 だから、俺に会いに来てたって、そう言うのかお前は。

 俺は、真正面から古泉の顔を見つめる。お決まりのポーズで手を広げていた古泉は、やがて耐えきれないという風に顔を背けた。
 その顔が耳まで赤くなっているのを確認し、俺は口を開く。
「そうか」
 いや、これははぐらかしたつもりじゃなく、本当にこれしか言えなかったんだから仕方がないだろう。本当の、本当に。


 どのぐらいそうしていたのか、気づいた時には日が暮れかかっていた。この分じゃ、明日のハルヒが思いやられるな。
 二人してさぼるだなんて、いい度胸ね! ハルヒの、ぴくぴくとひきつった笑みが思い浮かぶようだ。
「帰るか」
「はい」
 断られるかと思ったが、古泉は案外素直に頷いた。俺が意外そうな顔をしていたせいか、古泉は慌てたように首を振る。
「あの、いえ、一緒にという意味ではなく、その……っ」
「あー、面倒くさいな、いちいち」
 ぐだぐだ言い訳する古泉の手を取って、俺は歩き出した。
「あんな坂、一人で降りたら気分が沈んで仕方がない」
 だから、一緒に帰る。ただそれだけだ。
「そう……ですね」
 安堵したように、古泉が頷く。そうだ。お前はいつだって、そうやって笑っていればいい。
 嘘みたいな笑顔で、過ごしていればいい。

 口実なら、俺が作ってやるから。


(ハルヒのついでに会いに来られるという状況が、ちょっと、いや、ものすごく気分が悪かったというのは、ここだけの話にしておいてくれ)


【完】


2007 04/02