自覚(古泉視点)


 僕が見慣れている彼の表情と言えば、嫌そうに歪められている顔ばかりで。
 それはたまに呆れた顔になったり憂鬱そうな顔になったりと変化することはあっても、けっして好意的なものになることはなかった。
 だから僕は、彼にあまり好かれてはいないのだろうと思っていた。
 もちろん、僕自身がそう仕向けている部分も多大にあったのだけれど。
 僕は彼に深入りするつもりはなかったし、それでいいのだと思っていた。

 現状維持。それが機関の出した結論で、僕が従うべき意見。
 それは、ずっと変わらないものなのだと思っていた。その日までは。



 何一つ変わらない日だった。僕は朝起きていつものように学校へ行き、授業を終え、文芸部室へ赴いた。
 中にいたのは、窓辺で黙々と読書をする長門有希、朝比奈みくるを捕まえて遊んでいる涼宮ハルヒ。そして、美味しそうに朝比奈さんのいれてくれたお茶を飲む彼。
 僕は挨拶をして、彼の前に腰掛けた。彼の背後では朝比奈さんの悲鳴と、涼宮さんの楽しそうな声が上がっていた。
 全くもって、いつもと変わらない光景。
 僕はいつものように持参したゲームを手に、彼を見た。
 彼は気まぐれにゲームにつきあってくれることもあれば、断られることもあった。今日はどうだろう。
 僕の視線に気づいた彼は、一瞬いつもの嫌そうな表情を浮かべ、それから思い直したように頷いた。
 これは、了承のサイン。
 今日は、僕につきあってくれるらしい。
 よかった。一人で遊ぶのには慣れているけれど、他に人がいる中で一人遊ぶのは少し空しいから。
 今日持ってきたゲームは、僕も初めて遊ぶものだ。彼に説明書を渡し、頭の中で昨夜読んだばかりのルールを反芻する。
 ふと気づくと、僕は彼に見られていた。何かわからないのだろうか?
 僕が首をかしげてみせると、彼ははっとしたように顔を伏せる。説明書を読んでいるつもりらしいが、彼の目は文字を追っていなかった。
 はて、これはなんだろう。
 こんな反応をする彼を、僕は初めて見た。
 何かの兆候? 僕の知らないところで、何かが起こった?
 僕はさりげなく室内に視線を巡らせる。
 涼宮さんはいつも通り楽しそうにしていた。そもそも僕は彼女の精神面に一番気を配っているから、何かあればすぐに気づくはずだ。
 では、朝比奈さん? 彼女は、いつも通り涼宮さんに弄ばれている。涙目と目が合ったが、すぐに逸らされた。
 長門さんも、特に変わらない様子で本を読んでいる――いや、今、彼を見た?
 ちらりと、ほんの一瞬だったが、確かに長門さんは彼に視線を送ったようだった。彼はそれに気づかず、まだ説明書に目を落としている。相変わらず、文字を追っている様子はないが。
 やはり、何かあったようだ。それも、涼宮さんにではなく、彼に。
 さて、どうしたものか。
 彼が素直に、それも僕相手に話してくれるとは思えない。
 かといってこのまま放置しておく訳にもいかないだろう。彼に何かあれば、涼宮さんに影響が出るのは明白だ。
 僕は少し考え、彼に声をかけた。
「ルールは、把握されましたか?」
 彼は顔を上げ、僕と目が合うとふたたび俯く。今のは、頷いた訳じゃないのだろうな。
「大体」
 強ばった声音で、彼が答えた。
「それは結構。では、後は実際遊びながら覚えていくことにしましょう」
 にっこり笑って、彼を促す。
 勝負は、今日の集まりが終わり、彼と二人きりになってからだ。


 今日は解散、と元気よく宣言した涼宮さんを見送り、僕は未だ座ったままの彼に向き直った。ゲームの決着は、とうについている。
 いつも通り、僕の大敗だ。彼は僕がわざと負けているのではないかと疑っているようだが、僕にそのつもりはない。
 確かに、勝って彼の機嫌を損ねるよりは、わざと負けて気分よく過ごしてもらうほうを僕は選ぶだろうが、そんな小細工をするまでもなく本当に勝てないのだ。
 いつものように、着替えをするから先に帰ってください、と僕らは追い出された。
 廊下を並んで歩きながら、彼がちらちらと僕を見ているのがわかる。
 僕に、何か用なのだろうか。
 笑みを浮かべたまま彼を振り返ると、慌てて顔を背けられる。不可解だ。
 僕が話しかけても彼は上の空なようで、無視されるか生返事されるかのどちらかだった。
 昇降口を出ても校門を出ても、彼は何やら考え込んでいる様子で沈黙を貫く。
 坂の下まで来て、さてどうやって彼を引き留めようか思案する僕へ、今にも背を向けようとしていた彼が振り向いた。
 思わず、僕はぽかんとした顔で彼を見つめる。

「古泉、頼みがある」
 緊張した面持ちで、彼がそう言ったからだ。


 そして僕は今、彼と帰途についている。向かう先は、何と――と言うべきだろうか、彼の家だ。
 そう、僕は、彼に家に来ないかと誘われたのだ。
 早口で誘いの言葉を述べると、彼は視線を地面に落とした。頬が微かに赤く染まっているように見えたのは、夕日のせいだろう。きっと、たぶん、そのはずだった。
 彼の家は、住宅街の中にある。何度か家の前まで訪れたことはあったが、皆と一緒に立ち入ったことはあっても、僕一人で中に入ったことはなかった。
 家までたどり着くと、彼は門を開けながらちらりと顔だけでこちらを振り向く。
「今日、……うちの親、いないんだ」
 そう告げた彼の頬が先ほどよりも赤く染まっていたことは、言うまでもない。

 何だ、これは。何なんだ、これは。何で、こんなことになったんだ?
 僕は普段の彼が恐らくそうであるように、盛大に戸惑った。もちろん、顔には出さなかったが、それもいくらか失敗していたかも知れない。
 友人。そんな風に言えば彼は嫌がるだろうが、僕らの関係は一応はそう呼んでもいいものだったはずだ。
 それが何故、彼は誰もいない家に僕を招き、あまつさえ頬を染め、二人きりであると言外に告げたりするのか。
 僕には、理解できなかった。
 でも、それ以上に理解できないのは、――。
 
 家の前に立ちつくした僕を、玄関の鍵を開けた彼が振り向いた。
「古泉? 早く、」
「は、はいっ」
 しまった、声が裏返った。慌てる僕を、彼はぼんやりした表情で見つめてくる。珍しい。彼が、こんな顔で僕を見るだなんて。
 僕は、僕はどうすればいいんだろう。
 このまま、彼の誘いに乗るべきか、それとも用事ができたと言って立ち去るべきか。
 玄関の前に立つ彼を見ながら、僕は自分の鼓動が早まるのを感じた。
 予感が、した。
 どちらを選んでも、彼と僕の関係が変わってしまうだろうという、予感。

 現状維持。それが機関の出した結論で、僕が従うべき意見。
 僕は一体、どうすればいいのだろう?
 頭では、わかっていた。ここは立ち去るべきだと。彼の誘いに乗るべきではないと。
 彼には、涼宮さんがいる。僕がここにいるのは、涼宮さんがそう望んだからだ。
 そしてその望みには、彼と僕との関係の変化は含まれていない。絶対に。
 僕は、彼女の意志に反することは、絶対に行わない。彼女が望む人格を演じ、彼女の望むままに振る舞う。
 それが、僕が今ここに存在する理由。そのはずだった。
「……古泉」
 彼が、僕を呼んだ。歪められた顔は、いつもの嫌そうなものではなく、どこかつらそうに見えた。
 だから僕は、彼に駆け寄ったのだ。
 引き返すという選択肢を、これまで背負ってきた全てを捨てて。
 目の前に立った僕に、彼は安堵の表情を浮かべた。こんなに嬉しそうな顔をする彼を、僕は見たことがなかった。
 こんな風に、僕を見上げて微笑む彼を見る日が来るだなんて、想像もしていなかった。
 そのとき、僕の内に生まれた感情は、何だったのだろう。
 彼が僕に心を開いてくれたという歓喜、高揚、興奮。
 そんなものに包まれながら、僕は彼を見下ろした。
 いつの間にか彼の肩を掴んでいた僕を押しのけるようにして、彼が小さく呟く。
「中に、」
「あ、はい、そうですね」
 僕は一体、こんなところで何をするつもりだったんだ。彼の言葉に我に返ると、彼について中へ入る。
 靴を脱いで、彼は息を吐いた。その吐息すら熱を帯びているようで、僕は見ていられなかった。
「あ、あの、」
「古泉」
「はいっ」
「悪い……」
「え?」
 億劫そうに振り向いた彼は、依然赤いままの顔でまだ靴を履いたままの僕を見つめたかと思うと、あろうことか、そのまま身体を預けてきた。
「え、ええっ」
 彼の行動は想像の範疇内とはいえ、まさか玄関でこんなことになるとは思っていなかった。
 悪い、と彼は繰り返す。吐息が首筋にかかって、僕はびくりとした。熱い。熱すぎる。
「もう、限界だ」
 そう呟いて、彼はその場に崩れ落ちた。
「え、……? あの、」
 僕は、ぽかんとした顔で彼を見下ろす。彼は、苦しそうな表情で転がっていた。

「キョンくん、帰ってきたの〜!? お帰りーって、あ、古泉くん! 古泉くんも一緒!?」
 戸惑う僕の前に、彼の妹さんが姿を現す。……そう言えば彼は、親がいないとは言ったが、妹もいないとは、言わなかった。
「キョンくんどうしたの? 寝てるの〜?」
 玄関に倒れている彼を見て、彼女は驚いた顔で駆け寄ってくる。呆然とする僕の足下で、彼に触れた彼女が、「熱い! キョンくん、熱がある!」と騒いでいた。



 とどのつまり。彼は今日、朝から体調が悪く、授業を受けている内に症状は悪化していき、SOS団に顔を出した頃には最悪だった。皆を――特に涼宮さんに心配をかけまいと普通に振る舞っていたものの、ふと彼の両親が今日は帰ってこないことを思い出し、自分のかわりに妹の面倒を見てくれる人間が必要なことに気づいた。
 そこで白羽の矢が立ったのが、妹さんと面識がある僕。
 それが、彼の不可解な行動の真相だった。

 ベッドに眠る彼を見ながら、僕は心から安堵していた。
 早まって、妙なことを口走らなくてよかったと。
 本当に、よかった。

 彼は僕に心を開いてくれた訳ではないし、僕を望んでくれた訳でもなかったのだから。
 それでも僕は、どこか喜んでいる自分に気づいていた。

 たとえ涼宮さんに心配をかけたくないとか、朝比奈さんにうつしでもしたら大変だとか、これ以上長門さんの手を煩わせたくないとか、そんな消去法の結果だったのだとしても。
 彼が選んでくれたのは、僕だったのだから。

「本当に、あなたには振り回されてばかりですね」
 あなたの寝顔を見つめる特典ぐらいは、貰ってもいいでしょう?

 だって僕はあのとき。今日は親がいないとあなたに告げられた、あのとき。
 本当は、すごく嬉しかったんだ。とても、期待してしまっていたんだ。
 自分でも、理解できないような感情で。


 僕が自覚したことで、何かが変わるのだろうか。
 それとも、何も変わらないのだろうか。
 それは、僕自身にもわからない。
 けれど、後悔することだけはしたくないと、そう思った。


【完】


2007 04/08