夢現(キョン視点)


 目を開けたら古泉の顔が見えたので、俺は本気で頭がおかしくなったのかと思った。

 ちょっと待て、整理しよう。ここは確かに俺の家で、俺の部屋で、俺のベッドだよな?
 俺は何度も確認し、ここが自分の部屋であることは間違いないと確信する。
 それなら、どうして古泉がいるんだ。
 古泉が個人的に俺の部屋に来たことなど、一度もなかったはずだ
 俺は瞬きすることも忘れ、俺の椅子に腰掛け俺の本を読んでいるらしい古泉の顔を凝視した。
 夢だろうか。だが、古泉の夢を見るというのもそれはそれで嫌なものだ。考えてもみてほしい。
 何が哀しくて同級生の、しかも男の夢を見なければならんのか。
 あんまり見つめていたせいか、古泉が手にした本から顔を上げ、俺を見た。
「……ああ、」
 古泉の目が見開かれ、ため息のような声が漏れる。
 泣きそうな顔で古泉が笑った。
「よかった、目が覚めたんですね」
 よかったとは何だ。目が覚めたら悪いのか。何故お前がここにいるんだ。
 いろいろ聞きたいことはあったが、俺がまず問いかけたのはこれだった。
「これは夢か?」
 古泉は苦笑し、首を振る。
「いいえ。夢ではありません」
 現実なのか。俺は一体どんな顔をしたのか、古泉が間をおいて口を開く。
「あなたにとっては、夢だったほうがよかったでしょうか?」
「どちらにしろ楽しい事態ではないな」
 なんだか、妙に口の中が乾いている。意識した途端、咳が出た。
「ああ、大丈夫ですか。まだあまり無理はなさらないほうが」
 古泉が、咳き込んで丸まった俺の背をさする。男の手だと思うと気持ち悪いが、お陰で大分楽になったので一応感謝しておくことにした。
「光栄です」
 古泉の声を聞いているうちに、何となくだが思い出した気がする。

 今日、――時間がわからないので定かではないがとりあえず今日だということにしておこう、俺は朝から調子が悪かった。
 朝起きたときから既に風邪の初期症状のようなものが出ていたのだが、期末が近いこともあって休まずに行くことにしたのだ。休みでもしたらハルヒがうるさいだろうという懸念も、少なからずあったことを付け加えておこう。
 そんなわけで風邪を引いたというのに律儀に登校した俺は、真面目に授業を受け、部活にも顔を出した。古泉のゲームにもつきあってやった。
 その頃には大分悪化しており、一人で家に帰り着けるかどうかも怪しいぐらいだった。
 皆、特に朝比奈さんにうつさないうちに帰ろうと思ったのだが、よく考えたら今日は両親が揃って出かけていて、俺が妹の面倒を見なければならないことに気づいた。
 面倒と言っても妹もそこまで手のかかる年齢ではないので、食事をさせ風呂に入らせ寝かしつければ終わりなのだが、この体調ではそれすらも不可能であろうと思われた。
 そこで俺は、非常に不本意ではあったが、この男の手を借りることにしたのである。
 最早喋るのも億劫で、説明するどころか家に来いとまるで遊びに誘うかのような言葉しか出てこず、今にして思えば無性に恥ずかしいことを口走った気もするのだが、あの時はそれどころではなかったのだ。
 それから、家に古泉を連れてきたところまでは覚えている。
 その後、どうなったんだっけ?

 俺は記憶を反芻し終えると、古泉を見上げた。古泉は、いつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべている。
「その後、あなたは玄関で倒れられたんですよ。覚えてませんか?」
 記憶にないな。
「倒れるぐらいだったのですから、当然かもしれませんね」
 それで、俺をベッドまで運んでくれたのは、――妹が突如怪力に目覚めでもしない限り、
「僕です」
 やはりそうか。抱え上げられたのか引きずられたのかはわからんが、男が男に運ばれるなどあまり愉快な話ではない。
 顔に出ていたのか、俺を見ていた古泉がおもしろそうに笑った。俺は不愉快だ。
「さすがに、あの状態のあなたを放置して帰るほど僕も薄情ではありませんよ」
 それぐらいはわかっている。むしろ、放置されていたら二度とお前と口をきくことはなかっただろう。
「それはそれは」
 古泉が、大げさな動作で肩をすくめた。
 喉が渇いたとジェスチャーで示すと、古泉はさっと立ち上がって部屋を出ていく。台所に向かったのだろう。
 見慣れた部屋だというのに、何故か古泉がいないだけで淋しく感じられたのは、きっと風邪のせいで弱気になっているからだ。そういうことにしておいてもらいたい。
 やがて戻ってきた古泉が差し出すペットボトルに口をつけ、俺は一気に飲み干す。そんなに喉が渇いていたのかと自分自身驚いた。
 古泉は空のペットボトルを脇に置き、俺に横になるよう促す。
「まだ本調子ではないのですから」
 確かに、身体が鉛のように重かった。言われるがまま寝転がると、古泉の手が額に触れてくる。
 ひやりとした感触が、気持ちよく感じられた。お前、ずいぶん体温が低いんだな。
 だがやはり、男の手だと思うと気持ち悪い、触れるな。条件反射で口から飛び出しそうになった言葉が、音になることはなかった。
「大分下がったようですね。まだ少し熱いですが」
 古泉が、どこか嬉しそうな顔をしていたからだ。

 そんなに、俺のことを心配してくれたのだろうか。
 何だか、嬉しいような恥ずかしいような、むずがゆい感情が胸の内に湧いてくる。
「何か召し上がりますか?」
 昼から何も食べていないはずだが、不思議と空腹は感じなかった。そもそも、家にまともな食料などあっただろうか。そういえば、妹は何を食べたのだろう。今日は本当なら何か出前をとるつもりだったのだ。
「僕が作りました」
 お前、そんなことまで出来るのか。俺は心底驚いた。
「機関で少し。簡単なものしか作れませんが、きっとあなたよりは上手ですよ」
 そうかよ。
「それに、妹さんも手伝ってくださったんです。家庭科で習ったからと、それはもう楽しそうに」
「あいつが?」
 そうそう、と古泉が思い出したように机に置いてあった皿を差し出してくる。随分と不格好なウサギだな。
「妹さんが、あなたにと」
 俺は、まじまじと皿の中のりんごを見つめた。あいつ、ちゃんと手を洗ったんだろうな。
 まだマシな形をしたウサギを手に取り、俺は齧り付いた。
「うまい」
 まあ、要はりんごの皮をむいてウサギの形を模しただけのものだから、誰が切ろうと味に変化があるはずもないのだが、ずいぶんと美味しく感じられたのは確かだ。
 それきり黙ってりんごを食べる俺を、古泉も黙って見つめていた。

 食べ終わる頃には、すっかり眠気は失せていた。帰ってきてからずっと寝ていたのだから当然だろう。それに、寝ている間に汗をかいたおかげで服が湿っているのも気になる。
 風呂に入って、さっぱりしたかった。
「駄目です。何を考えているんですか」
 古泉は、俺が風呂に入ることに反対のようだ。
「このままじゃ気持ち悪くて眠れたもんじゃない」
 俺がどんなに訴えても、古泉は意見を変えなかった。クソ、お前いつものイエスマン振りはどこへ置いてきたんだ。あれは何か、ハルヒの前でだけか。
「お気持ちはわかりますが、今無理をしたらぶり返すどころか悪化する恐れがあります。ここは大事をとって寝てください」
 じゃあ、せめて着替えさせてくれ。それぐらいならいいだろう。
「着替えさせるって、……僕がですか?」
 珍しく古泉が狼狽えたのはわかったのだが、何に動揺したのかまではわからず、俺は首を捻る。
「服、取ってくれ」
 俺は古泉の背後にあるクローゼットを指さした。古泉が、ああ、と息を吐く。
「そういうことですか」
 そういうことってなんだ。他に何があると言うんだ。
「わかりました。それぐらいなら……、病気の時は清潔にするのも大切ですからね」
 古泉が出してくれた服を受け取って、俺は着ている服に手をかけた。そう言えば、俺が今着ている服は誰が着替えさせたんだろう。
 考えるまでもないことを思い、俺は古泉を見た。
 俺の視線をどう勘違いしたのか、古泉は気がつかなくてすみません、と慌てた様子で部屋を出ていく。
「……はあ?」
 古泉のとった行動の意味がわからず、俺は首をかしげた。俺はしばらく古泉の出ていった扉を眺めていたが、古泉が戻ってくる気配はない。
 とりあえず、着替えよう。
 俺はさっさと服を脱ぐと、パジャマがわりのスウェットに着替えた。しまった、先に身体を拭くタオルを持ってきてもらえばよかった。
 濡れタオルで拭えば、少しはすっきりしただろうに。
 だが既に時は遅し。着替え終わった今となっては、また脱いで身体を拭くなどという行為は、非常に面倒くさく感じられた。
 畳む気力もなかったので脱いだ服をベッドの下に落とし、俺はベッドに横たわる。どうも、また熱が出てきたようだ。
 無理を言って風呂に入らなくてよかった。これは、止めてくれた古泉に感謝しなくてはならないだろう。
 そういえば、古泉はどこへ行ったのだろう。ぼんやりとした視線を扉へ向け、俺は呟いた。
「古泉?」
 それはとても小さな呟きだったが、まるで待ちかまえていたかのように扉が開く。
「はい」
 古泉が、隙のない笑みを浮かべて立っていた。それが何だか、頼もしく感じられる。
「熱が」
「上がったのですか!?」
 単語だけで俺の言いたいことを理解したらしい古泉が、急いでベッド脇まで来ると、がさがさと買い物袋を漁りだした。気づかなかったが、古泉の持ち物だろうか。
「ひとまず、これを貼っておきましょう」
 古泉が取り出したのは、熱が出たとき額に貼る例のアレだった。いつの間に買ってきたのだろう。そういえば、先ほど飲み干したペットボトルも見覚えのないものだったことを思い出す。
 古泉がわざわざ買いに行ってくれたのだろうか。それとも、機関の人間に届けさせたのか。
 黙って見つめる俺をどう捉えたのか、古泉は大丈夫、痛くないですよなどと笑いながら俺の額にシートを貼った。湿布臭いそれは、熱のある身にとってはとても気持ちがよかった。
「本当は、注射を打ってもらうのが一番なんですけど」
 そんな古泉の言葉を聞きながら、俺は眠りについた。

 夢うつつに、このシートより、古泉の手のほうが冷たくて気持ちがよかったと思いながら。


【完】


2007 04/14