初恋(古泉視点)


 苦しんでいる彼を目の前にこんなことを思うのは不謹慎かも知れないが、僕はこの状況を嬉しいと感じていた。
 こんなに堂々と彼の部屋に出入りできることなど、そうないだろう。しかも、彼は嫌々ながらも僕の存在を必要としてくれているのだ。
 たとえそれが、病気で自由がきかない身だからとか、僕にならうつしても罪悪感を抱かなくてすむからだという理由なのだとしても。
 僕は、彼の側にいられることが心から嬉しかった。


 横たわる彼の頬は、未だに熱を帯びていて赤い。冷却効果のあるシートを貼った彼の姿は些か間抜けだったが、そこが可愛いと僕は密かに思っていた。
 彼自身にはもちろん、他の誰にも言うつもりはない。これは、僕だけが知っていればいいことだ。
 彼の椅子から降りた僕は、彼のベッドの傍らに座り込んでいた。眠る彼の姿を、もっと間近で見たいと思ったからだ。
 時折息苦しそうに咳き込む彼の背をさすってやると、彼は僕の手だと気づかないのか柔らかな表情を見せる。
 僕の行為が彼の役に立っているのだ。そう思うと、じんわりと胸の内があたたかくなる。
 それは、どこかへ忘れてきたはずの感情。僕にもまだ、こんな風に人間らしい部分があったのだ。
 新たな発見をしたようで、得をした気分になる。
 熱い吐息を漏らしながら、彼は懸命に眠ろうと頑張っていた。もしかすると、熱のせいで意識が朦朧としているだけなのかも知れないが、僕にはそんな彼の様子がとても健気に映ったのだ。
 かわいい。何てかわいいのだろう。
 同性を相手にこんなことを思うなんておかしいのかも知れないが、そして彼が知ったらとても怒るのだろうけれど、僕は馬鹿みたいにかわいいと繰り返した。もちろん、万が一彼に聞きとがめられでもしたら大変なので、心の中で。
「う……ん、」
「大丈夫ですか?」
 彼のうめき声に、僕は反射的に声をかける。まだ夢現のようで、彼からの返答はなかったが、彼の手が何かを探すように動いているのに気づいた。
 何を探しているのだろう。
 僕は、咄嗟に彼の手を掴んだ。僕はここにいるという意思表示のつもりでもあった。
 病気の時は、不安になるものだ。一人ではないということを、彼に教えてあげたかった。
「何か飲みますか?」
 起こしてしまうだろうかと心配になりながらも、そう声をかける。彼は何も言わずに、僕の手を引っ張った。
 引き寄せた僕の手に顔を寄せ、彼は満足そうに微笑む。
「え、……っと、あの、ええと」
 どうしてよいかわからず、僕は言葉にならない言葉を発し続けた。
 何だこれは。何なんだこの状況は。一体何だってこんなことに。
 薄暗い部屋の中、ベッドに眠る彼の顔に引き寄せられた僕の手。しかも、よく考えたら二人きり。
 いや、よく考えなくても二人きりだ。
 これまで敢えて目を瞑ってきた美味しいとも言えるシチュエーションを、急にはっきりと意識してしまう。
 何だこれは。誘われているのか。いや、そんなはずはない。
 彼に他意がないことは、今日一日で嫌と言うほど思い知らされた。
 落ち着け、落ち着くんだ。冷静になれ、古泉一樹。
 そんな風に僕が必死に心を落ち着けようと努力しているというのに、彼は次の瞬間、それをぶち壊すような発言をしてくれた。

「気持ちいい……」
 彼は、うっとりとした表情でそう呟いたのだ。
「ええっ!?」
 驚いた僕は思い切り顔を引いたが、手を掴まれたままだったのであまり距離はとれなかった。
「気持ちいいって、気持ちいいって、何が!?」
 思わず敬語も忘れて話しかけてしまう。うとうとしていた彼は、一瞬嫌そうに眉間に皺を寄せた。恐らく、眠りを邪魔するなという意思表示だろう。子どもみたいでかわいい。
 こんな時までそんなことを思ってしまう僕は、大分重症だと思われる。
「手、つめたい……から」
 いつも以上に気だるそうに、たどたどしいしゃべり方をする彼に、僕は真面目な顔をしながらも内心かなり限界だった。それでも何とか彼の言葉を理解し、僕は話しかける。
「手が、冷たいからですか?」
 こくりと頷き、彼はとうとう意識を手放したようだった。
 手が冷たいから、熱い頬に気持ちよかったという意味だろうか。そう言えば、先ほども手が冷たいとか言われた気がする。
 何だ、ただ単に氷枕のかわりにされていただけか。額は冷却シートによって冷やされているが、頬は熱いままで不快だったのだろう。
 ほっと息をついて、僕は自分が落胆していることに気づいた。
「ああもう、僕はなんて、……」
 彼を起こさぬよう小さな声で呟いて、僕は彼の寝顔を見つめる。僕は今、どんな顔をしているのだろう。
 恐らくは、とても酷い顔をしているに違いない。
 彼が眠っていてよかったと、心から思った。


 彼に掴まれたままの手を僕が振りほどけるはずもなく、僕たちは手を繋いだまま一夜を明かした。誤解を招く言い方はよせ、と彼に怒られそうな表現だが、もちろん何も進展はなかった。
 いくら僕でも、寝ている彼に何かするほど悪人ではない。
 ただ、ずっと彼の寝顔を見ていた。
 きっと、もう二度と、こんな風に彼の寝顔を見る機会など訪れないだろうから。意識するとせつなくて、目が離せなかったのだ。
 これが最後だと思えば思うほど、離れがたかった。
 眠り込んだ彼が、時折僕の手を握る手に力を込めるのが嬉しかった。
 気持ちよさそうに頬を押しつけられるのが嬉しかった。
 彼の役に立っているという充実感が、とても心地よかったのだ。
 恋とは、こんなものだっただろうか。
 彼への想いを自覚してから、こんなにも世界は色鮮やかだ。
 彼らと行動をともにするようになって色々あったし、驚いたりわくわくしたり、困ることも楽しいこともたくさんあった。
 けれど、今感じているこの気持ちは、そのどれとも異なるものだった。
 彼を見ていられることが嬉しい。彼に必要とされていることが嬉しい。そして同時に、不安でもあった。
 彼が意識を取り戻せば、さっさと手をふりほどかれるだろう。もういいから帰れと言われるだろう。
 僕は、その瞬間が訪れることがとても恐ろしかった。
 彼が苦しんでいる姿を見るのは僕にとってもつらいことだったが、どうしてもこの時間がもっと続けばいいと思ってしまうのを止めることが出来ないのだ。
 恋とは、こんなにも独りよがりなものだっただろうか。
 そう考えて、気づいた。
 僕はこれまで、子どもの頃の幼いものは別として、誰かを好きになったことがなかったということに。特に機関に所属してからは、それどころではなかった。
 と、いうことは。
 ――もしかして、これが僕の初恋なのだろうか。
 気づいた瞬間、僕はシーツに顔を突っ伏していた。ひんやりとした感触が熱くなった頬に気持ちがよい。
 僕の手が気持ちいいという彼の気持ちがわかった気がする。
 何てことだ。よりによって、これが僕の初恋だなんて。
 ぐるぐると、様々な考えが浮かんでは消えていく。
 どうせ実らない想いなのだから、忘れてしまったほうがいい。こんなことが機関に知られたら、僕は即座に転校という名目で彼らから引き離されてしまうだろう。機関ならまだしも、涼宮さんに知られてしまったら。彼女は聡明な人だから、いつか僕の気持ちに気づくかも知れない。そうなったら、世界がどうなるか。僕にも想像できない。
 そんなことになる前に、忘れてしまおう。それが一番だ。
 僕の出した結論は、そうだった。
 長門さんにでも頼んで、記憶を消して貰おうか。それぐらいしないと、僕は彼への気持ちを忘れることなど出来そうになかった。
 忘れる前に、たくさん見ておこう。
 彼の寝顔を目に焼き付けようと、僕は突っ伏していた顔を上げた。すると、カーテンから微かに漏れる朝日の中、彼の静かな双眸がこちらを見ていた。
「あ……、の、」
 起こしてしまったのだろうか。一体、いつから?
 僕は少なからず動揺した。僕が一人で煩悶している様を、彼はずっと見ていたのだろうか。恥ずかしい。
 僕は、何か妙なことを口走っていなかっただろうか? 彼への想いが伝わってしまうような、そんな言葉を。
 どきどきと、違う意味で心臓が高鳴る。
「古泉」
「は、はい」
 眠いのだろう、彼はふるりとまつげを震わせた。
「あとで」
「はい」
 意識がはっきりしないのか、彼はゆっくりと喋り続ける。
「起きたら、……リンゴ食いたい」
「え、リンゴですか?」
「ん」
 こくりと、彼が頷いた。
 妹さんのむいたリンゴは、既に彼が食べ尽くしてしまっている。まだ残っていただろうか。
 まるで僕の心を読んだかのようなタイミングで、彼が口を開く。
「お前がむけよ」
「僕が、……ですか?」
 僕は、恐らく怪訝な顔つきになっていただろう。
 普段の彼の態度からして、彼が僕が手を加えたものをねだるとは到底思えなかった。まだ、熱に浮かされているのだろうか。
 僕の表情を読み違えたのか、彼は不満そうに口をとがらせた。
「何だ、嫌なのか」
「いえ、そんなことは! ……ただ、あなたが僕にそんなことを言うだなんて、珍しいと思いまして」
 僕は慌てて否定すると、率直な感想を付け加える。
「だって、美味かったし」
 子どものような口調で、彼が言った。
「あなたがそこまでリンゴ好きだとは知りませんでした。これは、我々の調査不足ですね」
 いつものペースを取り戻し、僕は軽口を叩いた。彼の眉根が、不愉快そうに寄せられる。
「言っておくが、俺は別にリンゴが好きな訳じゃない」
「そうなのですか?」
 では、病人食として食べやすいという意味だろうか。僕が素直に驚いて見せると、彼はふん、と鼻を鳴らし、
「後は自分で考えろ」
 そう言って、目を閉じた。
「は? ……え?」
 それきり、彼は何も言わない。呆気にとられた僕が見守る中、やがて寝息を立て始めた。
「え……と、あの、」
 自分で考えろと言われても、どう考えても僕に都合のいい考えしか思い浮かばないのだけれど、彼はそれでいいのだろうか。
 彼が階段から落ちて入院し、意識を取り戻したあの日。僕は確かに、リンゴをむいていた。あのときはまだ彼への想いを自覚していなかったから、ただ時間つぶしのための行為だった。それに、彼が僕のむいたリンゴを食べてくれるとはとてもじゃないが思えなかった。食べられることのないリンゴ。そのはずだった。
 けれど彼は、あのリンゴを食べてくれた上、美味いとまで言ってくれたのだと、彼の妹さんは言っていた。彼女がそんな嘘をつくとは思えないので、恐らく真実なのだろう。
 そして今、彼は自分から僕のむいたリンゴが食べたいと、そう言ってくれたのだ。
 これは、――期待してしまっても、いいのだろうか。
 彼が、もちろん僕とは異なる意味で、それでも少しは僕に好意を抱いてくれているのだと。
 そう、解釈してしまってもいいのだろうか。
 眠る彼は、何も言わない。

 それでも、僕にはわかってしまった。
 彼はきっと、僕の手をふりほどかないだろう。帰れと言うこともないだろう。
 僕の手は、まだ彼に囚われたままだ。

 そのとき、僕はこの恋を大切にしたいと思った。
 絶対に叶うことのない想いなのだとしても、だからこそ僕ぐらいは大切にしてあげたいと、そう思ったのだ。


【完】


2007 05/12