夜(古泉視点)


 彼に会いたい。
 その一心で、僕は夜の街を駆け抜けていた。機関の車を使えば早かったのだが、その時の僕はそんなことすら思いつかないほど動揺していたのだ。
 彼の家の前までたどり着いて、僕は途方に暮れる。勢いで来てしまったが、どうすればよいのだろう。こんな時間に訪問したりしたら、彼は驚くだろう。心配するだろう。何かあったのか古泉、と顔を強ばらせる彼の姿が目に浮かび、僕は首を振った。
 僕のつまらない感情で、彼を不安に陥らせる訳にはいかない。これは僕の事情であって、彼には何ら関係のないことなのだ。
 一度だけ、涼宮さんたちと一緒に立ち入ったことのある部屋を見上げ、僕はため息をつく。彼の部屋の明かりは、まだ消えていなかった。ゲームでもして遊んでいるのだろうか。
 彼は今、日常を楽しんでいる。
 僕に邪魔する権利など、ありはしないのだ。だって僕らは、友人ですらないのだから。僕が一方的にどんな感情を抱いていたとしても、彼も同じ気持ちでいてくれなければ、何の意味もない。
 僕がどこで何をしていようと、彼には関係のない話だ。
 しばらくの間、僕は彼の部屋を見上げていた。未練がましい男だと、自嘲する。それでも帰るきっかけが見つからず、電気が消えたら帰ろうと、ようやく決心する。
 カーテンが揺らめいた気がして、僕は首をかしげた。窓が開いた音がしたと思ったら、彼が顔を覗かせる。窓の下に立っていた僕に気づき、彼が目を見開いた。
 しまった、と思った僕が身を翻す前に、彼が声をかけてくる。
「古泉」
 彼は、ただ名前を呼んだだけだ。引き留める言葉をかけられた訳ではない。それなのに、僕は身動きがとれなくなった。
 固まったまま見上げる僕を見下ろす彼が安堵の表情を浮かべたように見えたのは、僕の願望だろうか。
「今行く」
 問い返す間もなく、彼が窓辺から引っ込んだ。僕が状況を把握できていないうちに、階段を下りる音と、玄関の開く音がした。
 彼が、門を開けて出てくる。少し息を切らしながら、まだ固まったままの僕に歩み寄ってきた。
「寒くないか」
 そう言って、彼の手が僕の肩をぽんぽんと叩く。
 何も聞かない彼の気遣いが嬉しくて、急いで降りてきてくれたことが嬉しくて、僕は彼にしがみついた。
 先ほどまでの寂寥感は、既に霧散していた。







 夜(キョン視点)


 その日、古泉の姿を見かけたのは偶然だった。久しぶりにSOS団の集まりがない日で、俺は普通の休日を思う存分満喫していたのだ。古泉は、俺の知らない奴らと何か話していた。どうも、以前――古泉がふざけた能力に目覚める前のことだ――、親しくしていた友人だったようで、話の内容までは聞き取れなかったが、古泉はいつもの馬鹿丁寧な敬語などではなく、ごく普通に喋っていて、俺は衝撃を受けたなどと言ったら大げさだと思われるかも知れないが、俺にとってはそれ程のことだったのだから仕方がない。古泉とそいつらは、約束していた訳ではなく、やはり偶然会って声をかけられたようで、立ち話の後すぐに分かれていった。
 俺は古泉に声をかけようかどうか迷って、結局声をかけなかった。かけられなかった、と言う方が正確だろうか。
 友人と分かれた後の古泉の表情といったら、それはもう、悲惨な顔つきだった。悲愴、という言葉がぴったりの顔をしていたのだ。その顔には、普段古泉が笑顔の下に隠している全ての感情が表れているようで、俺は見ていることすらできなかった。これまで、俺は少しは古泉の立場を理解しているつもりだった。けれど、それはあくまでも「つもり」でしかなかったことをその時思い知らされたのだ。
 古泉はきっと、彼らとともに過ごしたいのだろう。超能力者なんかではなく、ごく普通の高校生として。
 だが、機関に所属する古泉に選べる選択肢など、ありはしないのだ。そう思ったら、呑気に生きている自分が恥ずかしくなった。そりゃあ俺だって、少しはハルヒに迷惑をかけられたり、困ったり痛い思いをしたりもしているが、それなりに充実した日々を過ごしていると言っても過言ではないだろう。何より、俺には自分自身を偽る必要などないのだ。
 家に戻ってからも、俺は古泉について考え続けた。古泉は今、どこで何をしているのだろう。機関の用意した部屋に戻り、一人で過ごしているのだろうか。それは、あまりにも淋しい。連絡を取ってみようかとも思ったが、恐らく古泉は俺に見られたことなど知りたくないだろうと思い、俺は携帯を置いた。
 俺に出来ることはないのだろうか。そんなことを考えながら、俺は何気なく窓を開ける。窓の下に見知った顔を見つけ、驚いた。今の今まで、考えていた相手だったからだ。
 逃げようとした古泉を捕まえ、俺は安堵した。不謹慎にも、嬉しく感じていたのだ。
 こんなとき、古泉の頼る相手が俺でよかった、と。
 無防備にしがみついてくる古泉の背を優しく叩きながら、俺は夜空を見上げた。





2007 05/27 オンリー無料配布より。