雷鳴(前編)


 このまま、死ぬのだと思った。
 真っ黒に塗りつぶされた空を、轟音とともに切り裂く光が見える。
 あの閃光に貫かれて僕は死ぬのだと、そう思った。




 天気予報を見て、僕は朝から憂鬱だった。今日は夕方から雷をともなう雨になるらしい。
 ――何を隠そう、僕は雷が苦手だ。雷には、嫌な思い出しかない。
 さすがに昔のようにあからさまに狼狽えたりはしないが、虚勢を張るのにも限度というものがある。
 理由をつけて部活の途中で帰ることにしようか。だが、タイミングを誤ると閉鎖空間を発生させかねない。
 かといってあまり遅くても雷が鳴り出すだろう。難しいものだ。
 どうしてこんなことで悩まねばならないのか。けっして、人目を気にしている訳ではない。
 ただ、涼宮さんが理想とする「古泉一樹」像に相応しくないという、ただそれだけのことなのだ。
 小さくため息をついて、僕は部屋を出た。

 いっそのこと、放課後になる前に閉鎖空間が発生して呼び出しがかからないだろうか。
 一日中、雷が鳴り出した際の対処について頭を悩ませていた僕は、放課後が近付くにつれそんな風に考えるようになっていた。本末転倒とは、このことだろう。
 最初から、具合が悪いと言って休んでおけばよかったのではないだろうか。雷にばかり気を取られていた僕がそう思いついた時には、既に放課後になっていた。
 僕は暗澹たる気持ちのまま、通学鞄を手に部活棟へ向かう。何か事態が急変するような出来事が起きて、早めに解散となる可能性について思考しながら、僕は歩いた。
 見慣れた部室の前に到着し、僕は中の様子をうかがう。どうやら、まだ涼宮さんは来ていないようだ。
 彼女がいるならば、こんなにも静かなはずがない。
 僕は少しだけ安堵しながら扉を開ける。メイド服姿の朝比奈さんが、僕を出迎えてくれた。
「すぐにお茶を入れますね」
 はにかんだように笑って、朝比奈さんはガスコンロへ向かう。わざわざ僕のためにお湯を沸かしてくれるらしい。
 一足先にお茶を飲んでいる彼の正面に座ると、僕は窓の外へ目を向けた。天気は、依然として曇りのままだ。
 窓際では、長門さんがハードカバーを読んでいる。彼女になら、天候を操るぐらいたやすいことだろう。
 僕の能力が、そういった類のものであったならよかったのに。僕は嘆息する。
 彼が、ぱっと顔を上げた。しまった、思わずため息をついてしまったのに気づかれたらしい。
 僕は動揺を押し隠しながら立ち上がると、棚に置いておいたボードゲームを手に取る。彼に向かって示してみたが、首を振られた。
 ゲームに熱中すれば雷について思い悩むことも忘れられるかと思ったのだが、断られてしまったのでは仕方がない。一人でチェスでもしようか。僕は棚の前に立ったまま思案する。
 棚を物色していると、背中に突き刺さるような視線を感じた。訝しく思ってさりげなく振り向いてみたら、彼と目が合う。
 彼が、一瞬ぎょっとした顔になってから、すぐにいつもの仏頂面になる。何だろう。
 僕が彼を見つめることはあっても、彼が僕を見つめることなどこれまでなかったはずなのに。僕は、何故かどぎまぎしてしまった。
 慌てて棚に向き直ると、わざとらしくゲームを選ぶ振りをする。彼にはばれてしまっているのだろうなと思いながらも、僕は振り返ることが出来ずにいた。
 しばらくの間、棚を眺める僕と僕の背を見つめる彼という状態が続く。膠着状態を破ったのは、お茶が入りましたという朝比奈さんの声だった。
「今日のお茶は、この間買ったものなんです! ぜひ、味わってくださいね」
 嬉しそうに笑いながら、朝比奈さんが僕の席に湯気の立つ湯飲みを置いてくれる。
「ありがとうございます」
 いつもなら反射的に出てくるその言葉は、今日に限っては心からの感謝の気持ちの表れだった。本当に、ありがとうございます。あの状態が続いていたら、ぼくはあまりの緊張感に卒倒していたかも知れない。
 僕はゲームを決めかねたという風体で席に着いた。彼はまともに僕の顔を見るつもりはないらしい。正面に座った途端、彼は目を背けてくれたので僕は安心する。
 不思議な芳香が、鼻孔をくすぐった。僕がまじまじと湯飲みを見つめていると、彼が口を開く。
「とっときのお茶らしいから、心して飲めよ」
 ぶっきらぼうな言い方は、普段の彼そのものだった。
「それはそれは。ありがたくいただきますよ」
 一口含んだ。確かに、香りと相まって美味しく感じられる。僕は心配そうにこちらを窺っていた朝比奈さんに、笑顔で頷いて見せた。朝比奈さんが、ほっとしたように顔を綻ばせる。
「涼宮さんはどうされたのですか?」
 僕がさりげなく訊ねると、彼は肩をすくめる。
「呼び出し」
「呼び出し……ですか。団の活動について何か問題でも?」
 そんな報告は、機関から受けていない。
「いや、この間授業中に叫んでな。そのせいだろ多分」
「はあ……なるほど。涼宮さんらしいですね」
 僕が微笑むと、彼は嫌そうな顔になった。
「お前はいいよな、クラスが違うから。真後ろで叫ばれる俺の身にもなってみろよ。大体、何だってあいつは何か思いつく度大声を出すんだ? それも、俺の首をとっつかまえてだ」
 身振り手振りを交えながら、彼が愚痴をこぼす。
 それって、惚気ですか。僕は思わず問いかけたくなった。
 彼が何度席替えをしても彼女の前の席になるのも、彼女が思いついたことを即彼に話そうとするのも、彼女の想い故だろう。それぐらい、彼女の事情を知っている人間なら、誰だってわかりそうなものだ。
 彼は本当に気づいていないのか、それとも気づかない振りをしているだけなのか、僕はたまに本気で疑問に思う。
「何だ」
「いえ、素晴らしいご関係だなと思っただけです」
 僕の言葉に、彼は渋面になる。全く、不愉快であると言うことを主張するのが好きな人だ。
「む」
 ヴヴヴ、と微かに机が振動する。置いてあった彼の携帯が鳴っているようだ。すぐに振動はやみ、メールの受信であったことを知る。
 彼は頬杖をつき、あいているほうの手で気だるそうに携帯を確認し出した。
 珍しいな。
 彼がポケットに入れるのではなく机に携帯を置いている光景を見たのは、もしかすると初めてかも知れない。何か気になる用件でもあったのだろうか。
 メールの文章を目で追う彼の真剣な顔からは、そんな気配が感じられた。
「彼女からのメールですか?」
 否定されるとわかっていて敢えてそんな言い方をしてみる。予想通り、彼は不快そうに顔を歪めた。
「俺にいつ彼女が出来たと言うんだ。生憎俺は独り身のままだ」
「それは失礼。携帯を気にしているようでしたので、恋人から重要な連絡でも入ったのかと思いまして」
 僕の言葉に、彼ははっとしたように手にした携帯へ視線を落とす。すぐに、まるで僕の目から隠すかのようにズボンのポケットへしまってしまった。
「別に」
 固い口調で、彼が言う。頬杖をつき、顔を余所へ向けながら。
「そんなんじゃない」
 彼の態度が、嘘であると物語っていた。
「そうですか」
 素直に口を割るとも思えず、僕は気づかない振りをして笑う。
 視界の端で、長門さんが顔を上げた。
「あっ、雨!」
 雑誌をめくっていた朝比奈さんが立ち上がり、すぐさま窓辺に駆け寄る。
「うわぁ、すごい雨……」
 窓に手をつき、朝比奈さんが感嘆したように言った。
 先ほどまでの静けさが嘘のように、ざあざあと物凄い音を立てた雨が降り出している。これでは、雷が鳴るのも時間の問題だ。
 幸か不幸か、まだ涼宮さんは来ていない。今の内にさっさと機関の車を呼んで帰るべきだろうか。
「確か雷雨になるとか言ってましたね」
 彼が、朝比奈さんの隣に立ち空を見上げる。朝比奈さんが、びくりと肩を震わせた。
「ふえぇ……、雷雨ですかぁ」
 泣きそうな顔で、朝比奈さんが彼を見上げる。見かけ通り、雷が苦手らしい。
「雷、苦手ですか」
「はいぃ」
 こくんと、彼の問いかけに素直に頷ける彼女が羨ましいと思った。
「それじゃ、今の内に帰ったほうがいいですね」
「え、でも、涼宮さんが……」
「あいつには適当に言っておきますよ。さ、今の内に。傘は持ってますよね?」
「あ、はい、でも、」
 彼の申し出に、朝比奈さんは迷っているようだ。ここは僕も口添えするべきだろう。
 僕は立ち上がると、朝比奈さんの荷物を差し出す。
「どうぞ、お先に。僕らもすぐに帰らせていただきますよ」
「あ、あの、それじゃあお先に……あ、でも着替えないとっ」
 朝比奈さんはメイド服姿のままだった。
 僕らは顔を見合わせると、二人で廊下に出る。窓の外は、バケツをひっくり返したような雨だ。
「雷、落ちますかね……」
「そうだな」
 二人で窓の外を眺めながら、先ほどの朝比奈さんの姿を思い出す。
 彼と並んで立つその姿は、とてもお似合いの恋人同士のように見えた。僕らは、どんな風に見えているのだろう。
 恋人同士に見えることはあり得ないとしても、少しは親密そうに映るだろうか。
「涼宮さん、遅いですね」
「今の内にメールでもしておくか」
 彼は携帯を取り出すと、メールを打ち始めた。どんな文章を書いているのだろう。少しだけ気になった。
「きっとさぞかしお怒りになることでしょう」
 勝手なことをして、と怒る彼女の姿が目に浮かぶようだ。思わず笑うと、メールを終えた彼が不機嫌そうに振り向く。
「笑うな。お前はいいだろうよ、ハルヒの怒りの矛先が向かないんだからな」
「おや。それは涼宮さんの執着の度合いによるものと思われますが?」
 彼が、言葉を失ったように黙り込んだ。ぷいっと窓の外へ目を向け、彼が口を開く。
「言っておくが、お前も待つんだぞ」
「はい?」
 言われた意味がわからず、僕は首をかしげた。
「お前も、ハルヒが来るまで待ってろ。それで、俺と一緒にご機嫌取りだ。わかったな?」
 それがお前の役割だろうと、彼が勝ち誇った笑みで振り返る。


 何てことだ。
 普段なら嬉しいはずの彼の言葉も、今は災難にしか思えなかった。


【続く】


2007 06/02