雷鳴(中編)


 着替えの終わった朝比奈さんを見送って、僕らは室内に戻った。窓辺では、未だに長門さんがハードカバーをめくっている。
 彼女には、雷に恐怖する気持ちなど微塵もないのだろう。
 僕はなるべく窓の外に目を向けないように気を配りながら席に着いた。
「長門」
 彼の声に、長門さんが顔を上げる。真っ直ぐに、彼を見つめていた。
「お前も先に帰れ」
 長門さんが、数度瞬く。
「わたしは平気」
「そりゃあ俺だって、お前が雷を怖がるとは思っちゃいないけどな。でも、この分じゃ今日はハルヒが来てもすぐに解散になるだろうし、あーだこーだ言われる前にとっとと帰っちまったほうが得策だろ」
 長門さんは黙って彼を見つめた後、表情を変えずに口を開いた。
「あなたは」
 短い言葉だったが、彼はどうするのかと聞いているのだとわかる。彼が、面食らった様子で答えた。
「俺? 俺は、そうだな。ハルヒを宥めつつ帰ることにするよ」
 彼が、ちらりと腰掛けたままの僕へ目を向けてくる。
「古泉もいることだし、面倒なことは任せておけって」
 長門さんが、ちらりと僕を見た。彼女の静かな目で見つめられると、僕は自然と緊張してしまう。
 まさか、気づかれているのだろうか。いや、彼女なら知っていてもおかしくはない。
 僕が、雷を苦手としていることを。
 だが彼女はそのことには触れず、そう、とだけ呟いた。
 長門さんは立ち上がると、帰り支度を始める。扉の前で振り返り、忠告、と言った。
「あなたたちも早く帰ったほうがいい」
「ああ、わかったよ」
 彼が手を挙げて応える。
「お気をつけて」
 僕の言葉に頷き、挨拶をして長門さんは帰っていった。
 室内に、彼と二人きり。BGMはたたき付けるような雨の音。誰が仕組んだシチュエーションなのだろう。
 神ではないことだけは、確かだった。
 こんな場合でなければ、僕は舞い上がっていたであろう。他でもない、彼と二人だけで過ごせる時間はとても少なかった。
 どこか落ち着かない様子で、彼が窓辺に立つ。窓の外を、真剣に眺めていた。
 まだ、雷の鳴る気配はない。だが、確実にその時は近付いてきている。
 その時、僕は平静でいられるだろうか。彼の前で醜態を晒すのだけは、勘弁して貰いたかった。
「古泉」
「はい」
 いつになく真摯な彼の声に、僕は驚いて思わず立ち上がる。窓辺の彼が、ゆっくりとした動作で振り返った。
「あ、の、何でしょう?」
 僕は動揺しながら、いつも通り振る舞おうと努力する。土砂降りの雨は、外の景色を隠してしまっていた。
 見えない世界を背に、彼がじっと僕を見つめてくる。僕は耐えきれなくなった。
「涼宮さん、遅いですね」
「古泉」
 話題を変えようとした僕の言葉を遮るように、彼が僕の名を呼んだ。
 焦れたような目を向けられ、僕は言葉を呑み込む。彼が、一歩ずつ近付いてくる度、鼓動が早まっていくのがわかった。
 まずい。この状況は、まずい。だって涼宮さんが。涼宮さんがもうすぐ来るはずなのだ。
 僕は逃げるように一歩後ずさる。彼が、更にもう一歩踏み込んできた。
「古泉、俺……実は、」
 せつなげに言葉を紡ぎながら、彼が僕を見上げてくる。その目は、大分心臓に悪かった。
「は、はい」
 ごくりと、思わず生唾を呑み込む。彼の手が、迷っているかのように握ったり閉じたりを繰り返していた。
「俺、俺、」
 一瞬目を伏せ、思い切ったように彼が顔を上げたのと、窓の外が光ったのは同時だった。
 しまった、と思ったときには既に遅かった。僕は彼に気を取られ、すっかり雷に対する警戒を解いてしまっていたのだ。
 地響きが伝わってくるような轟音に悲鳴を上げかけた僕を止めたのは、突如しがみついてきた彼の腕だった。
 抱きつく、だなんて可愛いものじゃない。まるで僕を絞め殺そうとでもしているかのように、ひどくきつい締め上げだ。
 僕は叫ぶことも忘れ、胸の辺りに押しつけられた彼の後頭部を見下ろす。
「あ、あの?」
 嬉しいとかどきどきするとかよりも、戸惑いのほうが大きかった。彼が僕にこんなことをしてくる理由がわからない。
 また窓の外が光って、彼がびくりと肩を震わせる。
 ――もしかして。
 彼は、――彼も、雷が怖いのだろうか。
 そう思って見ると、微かに彼の身体が震えているのが分かった。
「もしかして、雷はお嫌いですか?」
 腕の中の彼が、恥ずかしそうにこくりと頷く。
「だから」
 くぐもった声で、彼が言った。
「だから、悪いとは思ったけどお前にも残ってもらったんだ」
「そう……だったのですか」
 確かに彼のような人にとっては、雷が怖いなどということを他人に知られるなど羞恥の極みだろう。朝比奈さんや長門さんを先に帰したのも、彼女たちに対する配慮だけではなく、出来る限り醜態を見せる人数を減らそうとしたということか。
「ハルヒが来たら、適当に言いくるめて先に帰らせるからさ、お前、悪いけど俺と一緒に帰ってくれないか」
 恐らく恥ずかしいのだろう、彼は早口でまくしたてる。僕は自分の事情を考慮し躊躇ったが、この機会を逃したら彼と二人きりで帰ることなど二度と出来ないだろうと、引き受けることにした。
 それに、彼の頼み事を断ることなど、僕に出来るはずがない。
「ええ、構いませんよ」
「サンキュ」
 小さく呟いて、ようやく彼が顔を上げる。羞恥のためか頬が赤い。僕にとっては、目に毒だった。
 急に恥ずかしくなったのか、彼が僕から離れる。遠ざかる体温に、一抹の淋しさを感じた。
 思わず目で追うと、気づいたのか彼がこちらを見遣る。
「あのさ、」
「はい」
 手、繋いでてもいいか。
 彼の口から飛び出したとは信じがたい台詞に、僕は何も反応できずにいた。
「あの、ハルヒが来るまででいいからさ。……駄目か?」
 上目遣いに僕を見上げる彼を前に、首を振れるはずがない。僕は、請われるままに手を差し伸べる。
 涼宮さんが到着するまで、僕らはずっと手を繋いでいた。


 やってきた涼宮さんの怒りは半端ではなかったが、一頻り怒ると気が済んだのか鞄を掴んで帰って行った。後には、やはり僕と彼だけが残される。
 窓の外では、依然として雨と稲光がしていた。光と音がする度、彼の肩が揺れる。
 彼が大げさに怖がるせいか、僕の中で雷に対する恐怖は不思議と薄れていった。それよりも、彼を護ってあげたい、安堵させてあげたいという気持ちのほうが勝っていたのだ。
 庇護するべき相手がいると強くなれると言うが、それはどうやら本当らしい。
「大丈夫ですか」
 隣に腰掛ける彼の手をそっと握る。ぎゅっと、応えるように強く握り返された。
 そっぽを向いたままの彼の頬が、赤くなっている。彼がこちらを見ていなくてよかった。
 僕の顔も、負けず劣らず赤くなっているだろうから。
 暫く、ざあざあと降りしきる雨の音だけが聞こえていた。
 僕としてはこのまま彼と一夜を過ごしてもよかったのだが、さすがにそんな訳にはいかない。別世界のように映る窓の外へ目を向けたまま、僕は口を開いた。
「車を呼びましょうか」
 僕の提案に、彼の手がぴくりと動く。
「ご自宅まで送って差し上げますよ」
 にっこりと、僕に出来る最上級の笑みを浮かべ、彼を見つめた。彼が、弾かれたように振り向く。
「家まで……」
「はい。車なら安心できるでしょう?」
「落ちたりしないか」
「恐らくは」
 不安そうに目を揺らめかす彼に、僕は内心どぎまぎした。こんな表情の彼など、滅多に見られるものではない。
 何せ彼は、僕の前では必要以上に警戒心を露わにするのだから。
「……なあ、古泉」
 たっぷりの吐息とともに、彼が言葉を紡ぐ。心臓に悪いから、出来れば普通に喋って欲しかった。
「は、はい?」
「迷惑ついでに、お前の家に泊めてくれないか」
「……は?」
 彼の爆弾発言に、僕は固まる。今のは空耳だろうか、それとも僕の願望が見せた幻?
 だがどれだけ時が過ぎても彼は僕を見つめたままだし、彼の姿がかき消えることも僕の目が覚めることもなかった。
「あの、今、なんておっしゃいましたか」
「お前の家に泊めてくれ」
 何を言っているのだ、この人は。
 ぎゅう、とこれまで以上の力で手を握られた。


【続く】


2007 06/03