雷鳴(後編)


 あまりのことに、僕は一時的な記憶喪失になっていたらしい。僕の家に泊まりたいという彼に対して、僕が一体どう返答したのか、どのようにして雨とこの雷をかわして帰ってきたのか、何も覚えていなかった。
 一つだけ確実なのは、僕はやはり彼の望みを断り切れなかったらしいということ。
 何故なら、
「へえ。案外、ってことはないのか? こざっぱりとしてるじゃないか」
 ――何故なら、彼がこうして僕の部屋までついてきているからだ。


「僕が片付けているわけじゃありませんけどね」
 感心した風に玄関から部屋をのぞき込む彼を促し、中へ招き入れる。僕が住んでいるのは、学校からほど近い駅にあるマンションだ。
 当然実家などではなく、機関が用意してくれた住居。僕にとっては仮住まいだ。まあ、その仮住まいでの生活がもうずっと続いている訳なのだけれど。
「ああ、親御さんか」
 彼の言葉に、僕は苦笑を返す。彼は、それだけで気づいてしまったらしい。少し困ったような顔になった。
「掃除や洗濯は、機関の人がしてくれるんですよ。自分で出来ないわけではないのですが、面倒ですし。いざ涼宮さんが僕の家に来たいとおっしゃったとき、散らかっていてはイメージを損なってしまうでしょう?」
 彼女が望む僕の姿は、完璧な王子様だ。幸い外見上は条件をクリアしているらしいので、後は些細なことでぼろを出さないよう気をつけるだけ。
 彼は、なんだか不満そうな顔をしている。これはいつものことだから、僕はあまり気にしなかった。
「だから、お前はそうなのか」
「え?」
 彼のために何か飲み物を用意しようとしていた僕は、彼の言葉が聞き取れずに振り向く。彼は、テーブルの脇に立ち、僕を見つめたままだった。
「すみません、もう一度おっしゃっていただけますか」
 彼は、僕の顔を見つめたまま動かない。どうしたのだろう。
「あの、どうされ……」
 窓の外が、激しく光った。彼が窓に目を向け、呆然としている。
 しまった。僕は、急いで彼の手を引くと、胸の中に閉じこめた。遅れてやって来た轟音に、彼の身体が大きく震える。
 よかった、間に合って。
「大丈夫ですか?」
「ん」
 吐息のような声を漏らし、彼がしがみついてくる。困った。おおいに困った。
 部室で抱きつかれたときは、彼を護りたいという気持ちのほうが勝っていたからよかったのだが、こうして僕の部屋でこんな体勢でいると、何だか勘違いしてしまいそうだ。
 彼が、僕に好意を寄せてくれているのではないかと。
 本当に、困った。
 思わずため息をついた僕に、彼がもぞもぞと身体を離す。
「悪い」
「あ、いえ」
 僕から手を離すと、彼は気まずそうに目を逸らした。恥ずかしいのだろう。
 そんな仕草すら可愛いと思えてしまった自分は、どこかおかしいに違いない。
「かけてください」
 素直に椅子に座った彼に、僕は満面の笑みを向ける。
「今コーヒーを用意しますね。朝比奈さんのお茶には劣りますが、なかなかのものですよ」
「ああ」
 買い置きしてあった豆を取り出す。コーヒーミルは、どこにあっただろうか。
 僕が普段飲んでいるのは、ただのインスタントだ。今用意しているものは、全て機関が揃えてくれたものだった。
 もちろん使い方はマスターしているが、僕が自分のためにそれを使うことはない。そんな気になれないからだ。
 彼が退屈していないかと様子を窺うと、彼は冷めた顔で窓の外を見ている。僕は、ほんの少し違和感を覚えた。
「古泉?」
「あ、すみません。今コーヒーメーカーをセットしたところですので、しばしお待ちを」
「テレビつけてもいいか」
「どうぞ」
 断りなくつけてくれても構わなかったのだが、律儀な人だ。どんな番組を見るのかと思ったら、チャンネルは天気予報に合わせられる。
 お天気お姉さんの話では、明け方まで雷雨は続くらしい。僕は嘆息した。
 雨が上がったら、何とか理由をつけて帰ってもらえないかと思っていたのだ。窓の外は暗く、分厚い雲に閉ざされている。
「あ、俺だけど」
 彼の声に目を向けると、携帯で話しているところだった。携帯で話しながら、彼は窓のほうへ歩いていく。
 雷が怖いというのに、勇気のある人だ。
「ああ、今古泉んち。雷ひどいから泊まってくわ。ん、わかってるって」
 どうやら、母親と話しているらしい。そして、僕の部屋に泊まっていくことは彼の中で既に決定事項のようだ。
 携帯を切ると、彼は窓から目を離しこちらを向く。
「お前によろしくってさ」
 携帯を示しながら、彼が微かに口の端をあげた。苦笑いのような表情に、僕もつられて笑顔になる。
「では、精一杯のおもてなしを」
 まずは、といれたてのコーヒーをテーブルに置いた。彼が、待っていましたとばかりに席に戻る。
 わくわくした顔が、香りを嗅いで嬉しそうな表情に変化した。
「へえ、ずいぶんといい豆を使ってるんだな」
「喜んでいただけてよかった」
 僕も、自分のカップに口をつける。彼と向かい合い、同じものを飲むという状況はこれまでに何度もあったが、今回は場所が異なった。
 僕の部屋に、彼がいる。
 たったそれだけのことで、自分がひどく浮かれていることに僕は気づいた。
「何か買ってくればよかったな」
 彼がぽつりと呟く。僕は覚えていないが、どうやら僕らはどこにも寄らずに真っ直ぐ帰ってきたらしい。
 いろいろな意味で、そんな余裕はなかったのだろう。
「お腹がすきましたか?」
 僕は立ち上がると、冷蔵庫を開ける。すぐに食べられそうなものは、生憎見あたらなかった。
「少しお時間をいただければ作れますが……」
「あー、いいや。まだそこまで本格的に減ってないし。後で出前でもとろうぜ」
 彼は手を振って、自分の鞄を漁り出す。中から出てきたのは、菓子パンだった。
「昼飯の残り。食う前にハルヒに連れ出されてな」
 顔をしかめながら彼が説明してくれる。それから、半分にちぎったパンを差し出されて僕は面食らった。
 まじまじと彼の手とパンを見つめていると、いらないのかと言われ、僕は慌ててパンを受け取る。
 彼が満足そうに頷いた。
「あの、ありがとうございます」
「いや」
 美味いコーヒーの礼だ、と彼が首を振る。
「いただきます」
「ん」
 僕は、ちびちびと彼に貰ったパンを食べた。菓子パン独特の甘い味が口の中に広がっていく。
 僕はなんだか、とても嬉しかったのだ。こうして、彼と同じものを食べているという状況が。
 彼が、当然のように僕にパンを分けてくれたことが。
 とても、嬉しかったのだ。
 僕らは無言でパンを食べ、コーヒーを飲んだ。僕の頬はもしかすると赤くなっていたかも知れないが、彼は何も言わなかった。
 断続的に続く雷に、彼が安心できるようテーブルに投げ出されていた手を取る。彼は一瞬顔を上げたが、ふりほどかれることはなかった。
 あたたかい。感じるぬくもりに、こちらまで安心できるようだ。僕の手も、同じようにあたたかく感じられているだろうか。僕は不意に、そんな風に思った。
「馬鹿にしないんだな」
「え?」
 彼が僕を見ながら続ける。
「お前なら、もっと馬鹿にするかと思ってた」
「馬鹿に、ですか」
 繰り返して、ようやく彼が何を言っているのか理解出来た。雷に怯える彼を僕がからかったりしないことが意外だったようだ。
 確かに、これまで創り上げてきた僕のイメージからすると、笑ったりからかったりするほうがしっくりくるのかも知れない。けれど、僕にそのつもりはなかった。
「あなたがそれをお望みなら」
「誰が望むか」
 彼が焦った様子で顔を引きつらせる。
「誰にでも、一つくらい怖いものがあるでしょう? それを嘲笑するような趣味は僕にはありません」
 それに、本当は僕も怖いのだ。立場上明かすことはできないが、本当は彼以上に雷を恐れている。
 僕の言葉に、彼は何かを考えているようだった。
「そうだな。誰にでも怖い物はあるだろうし、それを笑ったりするのは最低だと俺も思う」
「そうでしょう」
 彼の同意を得られ、僕は安堵する。
「お前にも、あるのか」
 握った手に、力が込められた。
「怖いもの」
 僕の心を探ろうとするかのような目で、彼が僕を見てくる。僕は、心臓が止まるかと思った。
「僕は、」
 言ってしまおうかと思った。本当は、僕も雷が怖いのだと。あなたと同じように、あなた以上に閃光と轟音に怯えているのだと。
「……僕は、僕にも、ありますよ。怖いものが」
 けれど、僕は言い出すことが出来なかった。
「それが何かは、ひみつです」
 にっこりと笑った僕に、彼は落胆の表情を浮かべる。
「そうかよ」
 言ってしまいたかったけれど、言えなかった。言ったら、彼と同じ恐怖を共有できる。
 けれど、言ってしまったら彼に頼って貰うことは出来なくなる。ここにいても仕方がないと、帰ってしまうかも知れない。
 初めはどうやって帰って貰おうかと考えていたというのに、今ではずっと一緒にいて欲しいと思ってしまっているのだ。
 それほど、この空間が心地よかった。彼に頼られることが、必要とされることが嬉しかった。
 たとえ、今この時間だけなのだとしても。


 彼には申し訳ないが、床で寝てもらうことにした。布団は機関に用意してもらったので、そこまで寝心地が悪いということはないだろう。
 一緒にベッドで眠りたいと言われたらどう説得しようかとひそかに悩んだが、幸い彼は何も言わずに布団に潜り込んでくれた。僕は安堵するとベッドに横たわる。
「電気はどうしますか」
 彼はしばらく思案したのち、ぐるりと枕の上で顔をこちらに向けた。布団の中から見上げられ、僕はおおいに動揺する。
 もしも、今そっちに行ってもいいかと問われたら、僕は二つ返事でオーケーしてしまったことだろう。だが残念ながら――と言うべきだろうか、彼は分別のある人だった。
「そのままで」
 それだけ言うと、さっと顔を引っ込められる。頭から布団をかぶり、丸まって寝るつもりのようだ。
 かわいいなあ。思わず声に出しそうになって、僕は慌てて寝る体勢に戻る。
 窓の外ではまだ時折雷が鳴っていたが、さほど気にならないのは部屋を明るくしているせいだろうか。
 それとも、――彼がいてくれるおかげ?
 彼としては、僕を安心させるためにここに来た訳ではないのだろうが、それでも僕は安堵していた。
 自分以外の人間が、それも彼がここにいてくれるということに。
 どれだけ恐ろしくとも、手を伸ばせば触れられる場所に彼がいる。そう思ったら、穏やかな気持ちで眠れそうだ。
 そのうち、すやすやと眠る彼の寝息が聞こえはじめ、僕もつられるように眠りに落ちた。




 夢を、見た。夢の中で、僕はこれが夢であることを理解していた。そしてこれがただの夢などではなく、過去の記憶であることも。
 僕は見渡しても灰色しか目に入らない空間にいた。今ではお馴染みの閉鎖空間だ。
 夢の中の僕は、僕らが神人と呼ぶものと戦っていた。この頃の僕は能力に目覚めたばかりだったが、既に何度か実戦を経験していた。
 僕は、調子に乗っていたのだ。強制的にやらされていることだったから、真剣に取り組むつもりになれなかったということもある。いつも通りの単調な作業。後は、足を崩したら終わりだ。そんなつもりでいたから、僕は気づくのが遅れた。
 神人の振り上げた腕が、僕めがけて振り下ろされたことに。
 まともに衝撃を受けた僕は、閉鎖空間の外まで吹き飛ばされた。閉鎖空間の外では、僕は普通の人間だ。地面に強かに全身をぶつけ、横たわる。
 空は暗く、土砂降りの雨が降っていた。全身を打ち付ける雨に、どんどん体温が奪われていく。
 冷えていく身体から、生ぬるく赤い液体が流れ出していくのを感じた。指先の感覚が失われ、僕はとうとう動けなくなった。

 このまま、死ぬのだと思った。
 真っ黒に塗りつぶされた空を、轟音とともに切り裂く光が見えた。
 あの閃光に貫かれて僕は死ぬのだと、そう思った。

 その途端、僕の全身は恐怖に包まれた。嫌だ、死にたくない!
 こんな風に、冷たい雨風にさらされ、誰一人看取る人もないまま孤独に命を散らすなんて、絶対に嫌だった。
 そんな淋しい死に方だけは、したくないと思った。
 けれど身体は動かず、僕は雨に打たれたまま横たわっていることしか出来なかった。あふれる涙の熱さだけが、まだ僕が生きていることを証明してくれていた。
 嫌だ、死にたくない、誰か助けて。
 何度も心の中で繰り返し叫んだ。だが実際に僕の口から出る物と言えば、ひゅうひゅうという空気と生臭い液体だけだった。
 助けて、誰か。こんな終わり方は嫌だ。こんな終わりは、嫌だ。
 誰かそばにいて。お願いだから僕を見て。僕を、一人にしないで。
 僕が最後に見たものは、救いの手などではなく、暗い空を切り裂く閃光だった。


「古泉! 古泉っ」
 僕の名を呼ぶ声に、僕は意識を浮上させた。目を開けた僕が見たものは、忌まわしい光などではなく、必死の形相で僕を見下ろす彼の姿だった。
「あ、れ……?」
 声が出る。僕が呆然としていると、彼が確かめるように目の前で手を振った。
「おい、大丈夫か。俺がわかるか?」
「え、ええ。もちろんです」
 僕があなたを忘れることなど、ありはしないのだから。
 彼が、詰めていた息を大きく吐き出す。馬鹿野郎、と横たわったままの僕の肩へ頭を押しつけてきた。
「あの、……?」
「お前、なんかうなされてて」
 夢のせいだ。僕は思い出す。今見ていた夢の内容を。
 あれは、実際にあった出来事だ。あの後、僕は機関の人間に救出され、何とか一命を取り留めることが出来た。
 しばらくは精神的なショックを引きずっていたが、今ではもう、思い出すことも少なくなっていたというのに。
 窓の外では、雷鳴が響いていた。いつの間にか、雷がひどくなっていたらしい。このせいで夢を見たのだろうか。
「お前、呼んでも答えないし、俺のことわかんないみたいだったし、……怖かった」
 ゆっくりとした口調で、彼が吐き出す。布団越しに、彼が震えているのがわかった。
 結局、怖がらせてしまったのか。
 僕は彼に申し訳なく思う。所詮、無理だったのかも知れない。
 僕に、誰かを護ることなど、出来ないのかも知れない。
 僕はひどく落胆しながら、彼を宥めようと背中に手を伸ばした。
「俺が、いるから」
「え?」
 肩口から、くぐもった彼の声が聞こえる。
「俺がいるから、そんな頑張んなよ」
「えっ」
「一人で、頑張らなくていい」
 顔を上げた彼が、困ったように笑ってた。
「俺なんかじゃ、役に立たないかも知れないけどな」
「そんなことは!」
 僕は身体を起こすと、面食らった様子の彼をかき抱く。
「そんなことは、ないです……」
 おずおずと、彼の腕が僕の背に回された。どくどくと、彼の鼓動が伝わってくる。

 あたたかいと、思った。彼に触れたどこもかしこも、あたたかく感じられる。
 それは、間違いなく彼が生きているという証。
 そして、僕が生きているという証でもあった。
 どうして彼に触れると安堵できるのか、わかった気がした。
 どうして、彼に頼られることがあんなにも嬉しかったのか、わかった。
 生きていると、実感できるからだ。
 僕は死んでなどいないと、そう。
「ありがとう、ございます」
 彼の身体を抱きながら、僕は言った。
「あなたがいてくれて、本当によかった」
 彼は何も言わずに、僕の背を撫でてくれる。労るように、慈しむように、ずっと。


 朝目覚めると、いつになくすっきりした気分になっていた。外は明るく、昨夜の雷雨の気配など微塵も感じさせない穏やかな天候だ。
「シャワー借りていいか」
 昨夜は雷に怯えていたためか、まるで烏の行水のように素早く入浴を終えた彼に問われ、僕は頷く。
「どうぞ。着替えはまだありますから、ご自由にお使い下さい」
 機関の人間に用意してもらった、彼に合うサイズの服だ。彼は頷き、浴室へ向かう。
 結局彼と同じ布団で寝てしまったことを思い出し、僕は急に恥ずかしくなった。昨夜は彼の体温に安心して眠ることが出来たが、今冷静になって考えるととんでもないことをしてしまった気がする。
 ああもう、とんだ醜態だ。彼の前では頼れる男でいたかったというのに。
 彼には、過去のトラウマが夢に出てきたとだけ説明した。彼自身が言っていた通り、そのことで笑われなかったことだけが、せめてもの救いだ。
 浴室から聞こえてきたシャワーの音に、僕は我に返る。妙な妄想が始まらないうちに、彼のためにコーヒーを用意することにした。
 昨日、彼が褒めてくれたコーヒーだ。朝食は機関の人間が届けてくれることになっている。
 携帯の音に、僕は定時連絡だろうと通話ボタンを押した。相手は、森さんだった。
 僕が雷に弱いことは、機関の者なら誰でも知っていることだ。昨日は大丈夫だったかと問われ、僕は簡単に事情を述べた。
 もちろん、彼相手に醜態を晒したことに関しては秘密にする。
『そうですか。彼にフォローをお願いしたかいがありました』
 さらりと言われ、僕は目を丸くした。
「は? 彼に、フォローを?」
 彼と言えば、彼の姿しか思い浮かばない。僕は、彼の消えた浴室へ目を向ける。
『ええ。古泉が妙なことを口走ったり動揺したりしないよう、さりげなくフォローしてもらうよう頼んでおきました。彼なら、涼宮ハルヒの目を誤魔化すことも可能でしょうから』
「え、ということは、彼は、僕が雷を苦手なことを、知っていたのですか……?」
『そういうことになりますね』
 何と言うことだ。僕は、目の前が真っ暗になった気がした。
 更に、森さんは続ける。曰く、彼は雷が平気なのだと。むしろ、好きなのだと言う。
「そ、それは本当ですか?」
『ええ。雷を眺めるのが好きなのだと、そう言ってましたよ。以前調べた時にも、そんな結果はなかったはずですが』
 何てことだ。確かに、以前見た彼についての調書には、雷が苦手なことについては一切触れられていなかった。
 電話の向こうで、森さんが笑った気配がする。
『どうやら、彼のほうが一枚上手だったようですね』
 全くもって、その通りだった。彼の演技は完璧だ。僕は、彼が本当は雷を平気なのではないかなどと、少しも疑わなかったのだから。
『きっと、古泉のことだから自分から雷が怖いなどと言い出すことはないと思ったんでしょう。問い詰めても笑って誤魔化すだけだと』
「そう……なんでしょうね」
 そうだ。きっと、事前に彼に雷が苦手なのだろうと言われても、僕は素直に頷いたりしなかっただろう。それを見越して、彼はあんな演技をしたのだ。
 怯える彼を、僕が見捨てたりしないと信じて。
『愛されてますね』
「え?」
 聞き間違いかと思って、僕は問い返す。
『古泉は、ずいぶんと彼に愛されているようですね、と言ったのです』
「な、何を……」
 まさか森さんは僕の気持ちに気づいているのだろうか。それで、こんなからかいの言葉を?
 動揺した僕など気にかけない様子で、森さんは淡々と連絡事項を伝えると電話を切った。

「電話してたのか」
 シャワーを終えた彼が、浴室から出てくる。
「あ、ええ、定時報告です」
 ふうん、と興味などなさそうに呟き、彼はキッチンへ向かった。
「お、コーヒーいれたのか。飲んでもいいか?」
「ええ、もちろんです。あなたのためにいれたものですから」
「気味の悪い言い回しをするな」
 彼が顔をしかめながら食器棚を開ける。カップを取り出し、コーヒーを注ぐ準備を始めた。

 キッチンに立つ彼の後ろ姿を見ながら、僕は昨日のことを思い出す。
 妙に携帯を気にしていた彼。
 怖い怖いと言いながら、しきりに窓の外を覗いていた。
 妙に冷めた顔で見ていたのは、雷に興奮するのを我慢していたせいだろうか。
 手を繋いで、抱きしめて、ずっと僕にぬくもりを与えてくれていた。

――お前にも、あるのか。
――怖いもの。
 あの問いかけは、僕に告白を促していたのだ。
 知っているけれど、僕の口から聞きたかったのだろう。
 秘密を抱えたままでいるのは、苦しいから。

 全ては、愚かな僕のためだったのだ。

 そう思った途端、胸がしめつけられるように苦しくなって、僕は思わず口を開く。
「本当は、」
 彼の、コーヒーを注ぐ動きが止まった。
 彼は背中を向けたままだったが、彼の全神経が僕の言葉を聞くことに集中しているのだとわかる。
「僕も、苦手なんです。雷が」
 彼はたっぷりと沈黙した後、そうか、とだけ言った。

 その後、二人でコーヒーを飲み、朝食を取った。
 帰るという彼を見送り、僕は部屋に戻ると、彼が座っていた椅子へ腰掛ける。


 雷は、僕にとって死の象徴だ。
 孤独を感じさせる、畏怖の対象だった。
 けれどもう、雷に怯え、一人震えながら過ごす夜が僕に訪れることは、二度とないだろう。

 きっと彼が、来てくれるから。
 雷が怖いのだと、少し恥ずかしそうに、そう言って。
 僕は、少しだけ雷の日が楽しみになった。


【完】


2007 06/10