4 襲われ受け(仁王とブン太とジャッカル)


 一日の授業がすべて終わったからといって、皆が暇になる訳ではない。部活動に向かうらしい女生徒が数人、遅れそうなのか音を立てて小走りにやってくる。
 廊下の端によってすれ違うと、ジャッカルは背後を振り返った。
「おい。いつまでそうしてるつもりなんだ?」
「いつまでも」
 それだけ言うと、丸井は先ほどまでのようにぎゅっとジャッカルの背にしがみついてしまう。
 丸井のわがままは今に始まったことではないが、こう密着されては歩くだけでも一苦労だ。
 それでも、なにか理由があっての行動だろうとわかるので、ジャッカルは無理矢理引き離す気になれなかった。
 抱きついたまま顔を上げようともしない丸井に、諦めてジャッカルは部室へ向かって歩き出す。
 無意識にこぼれたため息に、ごめんと呟かれたような気がした。


 まだ早かったのか、部室の中には誰もいなかった。
「ほら、さっさと着替えちまえよ」
 ジャッカルが背中に手を回してぽんと頭を叩くと、ようやく丸井が顔を上げる。恐る恐るという様子で室内を眺め、誰もいないことにあからさまにほっとした顔になった。
 勢いよくジャッカルの後ろから飛び出し、ロッカーを開けた丸井は、すっかりいつもの元気で明るい丸井そのものだ。
 現金な奴だと苦笑しながら、ジャッカルは一体なにが丸井の表情を曇らせていたのだろうと考える。
 丸井の態度からして、どうやら部内でなにかあったらしいことまではわかった。
 丸井ブン太という人間は、世界は自分のためにまわっていると信じているような奴で、とにかくわがままで世話の焼ける人間だが、不思議とどんな理不尽な目に遭わされても許せてしまうような、お得なキャラクターの持ち主だ。
 それ故、部内の人間からも好かれていて、そういった意味でもめ事を起こすとはとうてい思えない。
 なにやら鼻歌を歌いながら着替える丸井を横目に、ジャッカルは首を傾げる。
 それならば、原因はなんなのだろう。
 外から部室の扉が開かれた途端、丸井はひどく驚いた様子で入り口を凝視した。
「こんにちは、早いですね」
 礼儀正しく挨拶をして入ってきたのは、同じ三年生の柳生だ。
 挨拶を返すジャッカルの背後に、丸井が駆け寄ってくる。ユニフォームを掴んでくる手が震えていることに気づいて、ジャッカルは目を丸くした。
「丸井くん? どうかしましたか」
 柳生は普段と変わらないと言うのに、丸井は明らかに怯えている。
 神経質な柳生に、丸井はよくマナーがなってないと叱られていた。
 ジャッカルの見ていないところできつく説教でもされて、それで怯えているのだろうか。
 丸井はジャッカルの後ろから少しだけ顔を出すと、じっと柳生を見つめている。
「……柳生? ほんとに?」
 その問いかけの意味はジャッカルにはわからなかったが、柳生には通じたらしい、ああと合点がいった顔になった。
「ほんとうに、私ですよ。仁王くんではありません」
「仁王?」
 突然出された仁王の名前に、ジャッカルは目を見張る。
 まだジャッカルの後ろに隠れたままの丸井の頭を撫でながら、柳生が説明をしてくれた。
 どうやら、仁王が次の試合で入れ替わり作戦とやらを決行したいと言い出し、柳生に変装していたところへ運悪く丸井が出くわして、まんまと騙されたということらしい。
 それにしても怯えすぎじゃないかと不審がるジャッカルに、柳生はいつになく歯切れの悪い様子で仁王くんに聞いてくださいとだけ言った。


 柳生にはああ言われたものの、ジャッカルは仁王を問いただす気にはならなかった。
 仁王は見かけや態度が大人びているのとは反対に、いたずらをして人を驚かせることが好きだったりと子供っぽい一面のある男だが、同じように子供じみた丸井に対して冷たくあたる訳でもなく、それどころかお菓子を与えたり勉強を教えてやったり、なにかと甘やかす傾向があるほどだ。
 そんな仁王が、何の考えもなくここまで丸井を怯えさせるほどのことをしたとは思えないし、また仁王のことだから、自分がお膳立てするまでもなく自力で解決するだろうと思えた。
 部活の間中、丸井が仁王から逃げ回っていることに皆気づいていたが、ジャッカルと同じ考えなのか口を出す者はいない。
 ただ真田だけが、悲鳴をあげて逃げまどう丸井に、何故そうするのかなど考えもしない様子で、騒ぐなと怒鳴った。
「幸村がいなくて何より、といったところか」
「柳」
 ベンチから丸井を見ていたジャッカルの隣に、いつの間にか柳が立っている。
 柳の言うとおり、丸井を溺愛している幸村がもしこの場にいたら、一体どんな事態になっていたことか、考えるだけで凍えそうだ。
 そうだなとジャッカルが頷くと、柳はその顔を一瞥して──相変わらず目は閉じたままだったが、ふむと興味深げに呟いた。
「柳?」
「お前なら何か知っているかと思ったのだが」
 丸井が仁王を避ける理由について聞きたかったのだろうと察して、ジャッカルは肩をすくめる。
「俺は知らないぜ」
 柳生がなにやら知っている口振りだったことは、なんとなく伏せておいた。


 休憩になって、ジャッカルはタオルがないことに気づいた。バッグに入れたつもりだったが、忘れてきたらしい。
 予備のタオルを使おうと、ジャッカルは一人部室へ急いだ。
 すぐ戻るつもりで、扉を開け放したまま室内の棚を漁っていると、不意に扉が閉まった。
 風でも吹いたかと何気なく見遣った先に、先ほどまではなかった仁王の姿があることに気づく。
「なんだ、お前も忘れ物か?」
 何の疑いもなくジャッカルはそう訊ねたが、しかし仁王は首を振った。
「すまん」
「え?」
 何を謝るのかと首をひねるジャッカルの目の前で、仁王が隠し持っていたらしい布を差し出す。それは、忘れたはずのジャッカルのタオルだった。
「仁王? なんでそれ、」
「おんしと話がしたくてな、ちょっと隠させてもろた」
「ああ……」
 自分と二人きりで、おそらく丸井の話がしたかったのだろと、ジャッカルは納得する。
「ブン太のことか?」
 怒っていないことを態度で示すと、ジャッカルは仁王からタオルを受け取った。
 仁王が、小さく頷く。
 いつになく弱々しい仁王の動作に、ジャッカルは漠然と不安を抱いた。


 日が暮れる頃になって、ようやく練習が終了した。
 仁王から逃げていたお陰で常より疲労した丸井がふらつきながら歩いていると、ジャッカルに大丈夫かと声をかけられる。
「ちょっと用があって遅くなりそうだけど、お前待ってるか?」
「んー、待ってる。つーか今動きたくねえし、部室で転がってるかも」
 途中まで帰り道が同じなため、二人はよく一緒に帰っていた。
 悪いなと去っていくジャッカルに手をあげると、丸井は足を引きずるようにして部室へ向かう。
 後ろから走る足音が近づいてくることに丸井が気づくと同時に、腕をとられた。
「ペース配分考えねえから、こーなるんすよ」
 後輩である切原が、部室まで連れて行ってくれるつもりなのか、丸井の腕を己の肩へ回している。
「お前に言われたくねえっつの」
「はいはい」
 憎まれ口を気にしないそぶりで、切原は丸井を背負うようにして歩いた。
 自分一人で歩くよりずいぶんと楽なことに気づいて、丸井は素直に感謝の言葉を口にする。
 切原なりの気遣いなのか、あんたがしおらしいと気持ち悪いっすと笑われた。


 着替え終わってジャッカルを待っているうちに、部室には丸井だけが取り残される形になった。
 切原が一緒に待つと言ってくれたのだが、すぐに切原の腹が派手な音を鳴らしたので、先に帰らせることにしたのだ。
「あー。俺も腹減った〜」
 疲れたときには甘いものと、先ほどまで食べていたチョコレート菓子も既に包み紙だけになっている。
「まだかな〜」
 床に寝転がると、外の芝生を踏みしめる音が耳に届き、ジャッカルがやってきたものと丸井は顔を上げた。
 程なく開いた扉に向かって声をかける。
「ジャッカル遅い! なんかおごって……」
 姿を現した人物に、丸井は呆然と言葉を切った。
 今日一日、避けに避けまくった相手──仁王が、目を見張る丸井を見据えたまま、後ろ手に扉を閉める。
 普段と異なる音がして、鍵をかけられたのだと悟った。
「な……、なんでっ」
 何故帰ったはずの仁王がいるのか、何故鍵をかける必要があるのか。
 つい先日、柳生に扮した仁王によって施された仕打ちが嫌でも思い浮かび、丸井は床に座ったまま後ずさる。
 ロッカーのすぐ前にいたことが災いし、すぐに逃げ場は失われた。
 仁王が、無言のまま丸井の前にひざをつく。
「話を聞いて欲しいだけちや。そう怯えるなや」
「話なんかねえよ!」
 恐怖に身体を震わせながらも強がる丸井に、仁王はすまなさそうに首を振った。
「聞いて」
 あんまり仁王がつらそうな顔をしているので、丸井はなんだか悪いことをしている気分になって、知らず頷く。
「こないだは、悪いことをしたと思っちゅう」
「……」
 どうやら謝るつもりらしいと、丸井が微かに緊張を解いたのに気づいたのか、仁王が表情を和らげた。
「すまん」
 真摯に頭を下げられ、いたずら好きの仁王のことだから、自分をからかうつもりだっただけなのだろうと、丸井は今日一日仁王から逃げ回ったことをばからしく感じる。
 ついさっきまでの恐怖はあっさりと消え失せ、丸井は一気に脱力した。
「お前、……調子乗りすぎなんだよ。マジびびったっての!」
 ぺしりと下がったままの頭を叩いてやると、仁王が顔を上げる。
 その顔に浮かんでいる表情が、いつものどこか飄々としたものだったので、丸井は安心して笑みを浮かべた。
「でもおんしも悪いんじゃ」
 仁王が軽い調子で咎めたので、冗談だと思って丸井も軽く返す。
「なんで」
「柳生を好いとーなんて、ゆうから」
「あー」
 そういえば、そんなことも言ったっけ。
 それどころではなかった丸井は、柳生に扮した仁王を騙したことなどすっかり忘れていた。
「知らんかったわ」
「え?」
「そうならそうとゆうといたらよか」
 そこでようやく、丸井は仁王がまだ誤解したままでいることに気づく。
 どこか傷ついたような顔の仁王に、黙っていたことを責められているような気がした。
「違うって! あれは、その」
 幸村の名を出しかけて、責任を押しつけることになるのではと丸井は躊躇う。
 それを、どう捉えたのか仁王が顔をしかめた。
「何を言っちゅうの。おんしは、柳生を好いとーやか」
「だから、違うんだって」
「違うことなか。おんしは、好いとる相手じゃなくてもあんなことしよるんか?」
 あんなこと、というのがどのような行為を指しているのか悟って、丸井は一気に顔を赤くする。
 感触や体温までリアルに蘇ってくるようで、丸井は俯いて制服の裾を無意識に握った。
「違う、あれは、いきなりでびっくりしただけだって」
「嘘じゃ」
「嘘じゃないって!」
 頑なに否定する仁王に、どうしてそんなことを言うのかと丸井は顔を上げる。
「おんしはあんとき、嫌がってなかろーが」
「仁王……?」
 仁王の表情のない顔を見つめて、丸井は不思議になった。仁王は、自分に何を言わせたいのだろう。
「柳生を好いとーからじゃろ?」
「だから、違うって」
 丸井が何度目かわからない否定の言葉を返すと、仁王に力任せに引き倒された。
「いてっ!」
 打ち付けられた肩の痛みに丸井が声を上げたのにも構わず、仁王は丸井の両手を床へ押さえつける。
 上にのしかかるようにされ、丸井は体の自由がきかなくなった。
 ふざけているのだと思いたかったが、見上げた仁王の表情に、彼が本気であると知る。
「仁王……」
 漏れた声が震えていることに気づいて、丸井は口を閉ざした。怯えていることを知られてはいけないような気がしたのだ。
「おんしは、誰でもいいっちゅうんか? ……俺でも?」
「なっ」
 何を言い出すのかと抗議しようとした口をふさがれ、丸井は息苦しさにうめく。
 覚えのある感触が口の中を動き回り、キスをされているのだとわかった。
 何故自分がこんな目にあわなければいけないのか、何故仁王はこんなことをするのか。何もわからないまま、行為は進んでいく。


 抵抗することも忘れ、ぼんやりと丸井は部室の天井を見上げた。注意して見ることなどほとんどないそれに、こんな色をしていたのかと思う。
 いつの間にか晒されていた肌に噛みつかれ、痛みに丸井は自分の置かれている状況を思い出した。
 仁王は、もしかして自分を嫌いになったのだろうか。
 不意に浮かんだ考えに、きっとそうなのだと丸井は唇をかみしめる。
 仁王とは、ずっとテニス部で一緒だった以外、二人きりで遊ぶようなこともなく、特に仲がよかった訳ではない。
 それでも時折菓子をわけてくれたり、一緒にいるときはとても優しくして貰った覚えがあった。
 自分がわがままであることは、これまで幾度も指摘されてきたが、仁王はなにも不満を言わずに笑いかけてくれるのだ。
 だから丸井は、それなりに仁王に好かれているのだと思っていた。
 それは自分の思いこみだったのか、それとも途中から嫌われてしまったのかわからなかったが、そんなことは丸井にとってどうでもいいことだ。
 重要なのは、今、仁王に嫌われているという事実だけ。
 場所を変えては丸井の肌を傷つけていく仁王に、どうしようもなく丸井の胸が痛む。
 幼い頃から家族や周囲の人間に溺愛されて育った丸井は、他人から嫌われることに慣れていない。
 他人から受ける初めての暴力に、どうすればよいのかわからず、丸井は涙をこぼした。
 やがて、丸井の涙に気づいたのか、仁王が動きを止め顔をのぞき込んでくる。
 せめて何か言ってやろうと開いた口は、どこか苦しそうな仁王の表情に、言葉を発することなく閉じられた。
「ちゃんと、泣けるやか」
 安堵したような声を出した仁王の顔は、相変わらずゆがんだままで、丸井はさらに涙をあふれさせる。
 つらそうな仁王を自分では慰められないことが、もどかしく感じられた。
「俺にこんなことされて、嫌なんじゃろう?」
 違うとも言えず、丸井は黙って仁王を見つめる。
 仁王が、指先で丸井の涙をぬぐったが、後から後からこぼれてくるため意味はなかった。
「おんしは、柳生を好いとーぜよ。柳生を」
 言い聞かせるように繰り返される仁王の言葉を耳にしているうちに、そうなのかも知れないと思えてくる。
「柳生を……」
 突如、仁王が苛立ったようにそばのロッカーに拳をたたきつけた。
 鈍い音が室内に響いて、丸井は自分が殴られたかのようにショックを受け、身体を震わせる。
「すまん」
 小さく呟くと、仁王はそのまま身体を起こし、部室から出ていってしまった。
 解放されたのだとわかったが、丸井はそのまま天井を見つめ続ける。
 最後に仁王が見せた表情を思い浮かべながら、丸井はゆっくりと身体を起こした。
 あちこちに、仁王のつけた痕がちらばっている。
 血がにじむものもあれば、小さなあざのようになっているものもあった。
 その一つ一つが、仁王に嫌われている証のように思えて、丸井ははだけられたシャツをかき合わせる。
 目尻をぬぐってくれた指先の優しさに、丸井は抱えた膝に涙を染みこませた。


【完】




2004 12/31 あとがき