8 迫ればいいの?(幸村と柳生と仁王と丸井)


 もしかすると、幸村がそんなことを言い出したのは、長引く入院生活に少し退屈していたからなのかも知れないし、何か他の理由があったのかも知れない。
 本当のことはわからないけれど、ただ、その日見舞いに訪れたのが真田と丸井の二人だけだったこと。用事があるからと、早々に真田が帰ってしまったこと。それがきっかけになったことだけは、確かだった。
 いつものように、真田が幸村へと差し入れしたケーキを代わりに頬張る丸井を嬉しそうに見つめた後、幸村は笑みを絶やさずに口を開いた。
 幸村から丸井への、ちょっとした提案。その内容があまりに愉快だったのと、それを語る幸村が楽しそうに笑っていたので、丸井は一も二もなく頷いたのだった。
 丸井は、幸村が好きだ。綺麗で優しくて穏やかで、いつも丸井に親切にしてくれる。入院生活は退屈で、治療には苦痛がともなう。もしも自分だったら、耐えきれずに逃げ出してしまうだろう。見舞いに来た相手に、当たり散らすだろう。でも幸村は、泣き言一つ言わず、いつだって笑顔で出迎えてくれる。そんな幸村の言うことだから、丸井は何でも引き受けてやろうという気になったのだ。幸村が笑ってくれるなら、例えそれがどんなに難しい願いだろうと、叶えてあげたいと思う。
 丸井は、幸村が好きだった。それはけっして恋愛感情ではなかったが、極めてそれに似たものではあった。


 部室の前まで辿り着くと、丸井はこれから自分のとる行動を思い、足を止めた。それに関して、特に罪悪感のようなものは抱いていなかった。なんといっても、幸村の言ったことなのだ。幸村が間違ったことをいうはずがない。丸井はそう信じていた。
 それでも足を止めたのは、少しだけ不安だったから。上手くできるかどうか、ちゃんと幸村に喜んでもらえるような結果になるかどうか、不安だったのだ。
 それでも、いつまでもこうしていても仕方がないと、丸井は扉を開けた。中には、柳生しかいなかった。
 扉の開く音に、ロッカーに向かって着替えをしていた柳生が振り向く。丸井に目を止めると、こんにちは、と挨拶をしてきた。
「よお」
 丸井がそう返すと、柳生は満足したのかまたロッカーへ向かい、脱いだものを畳み始める。
 丸井のロッカーは、柳生の隣だ。普段なら大股に近寄るところを、今日は一歩ずつ踏みしめるように歩く。気づいて、柳生が顔を上げた。
「どうしたのです? 今日はやけに大人しいのですね」
「……そんなこと、ない」
「そうですか?」
 着替え終わったらしい、ロッカーを閉めると、柳生は丸井に向き直った。正面から見据えられ、丸井は居心地の悪さを感じた。
 とりあえず着替えようと、柳生の脇を通り抜けようとする。がしっと、右腕を掴まれた。突然のことに、丸井は驚いて柳生を見上げた。柳生の表情からは、なんの感情も読みとれない。恐怖を感じて、丸井は動けなくなった。
「は、はなせよ……っ」
「脈拍に異常があります。体温も高い。どこか具合が悪いのでは?」
「ち、違うって!」
 腕を掴まれたのは、どうやら脈をとる為だったらしい。理由がわかって、丸井は身体の力を抜いた。
 鼓動が早いのは、緊張しているせい。体温が高いのは、興奮しているせいだ。丸井は具合が悪い訳ではなかったが、それがわかるのは本人だけだった。どう説明しようかと迷って、それから、別に言わなくてもいいと思い直す。今が、チャンスかも知れない。
 観客が一人もいないのはつまらないが、この機会を逃したら、もう次はないかも知れないのだ。
 決心すると、丸井は再び柳生を見上げた。意識して瞳を潤ませ、愛らしく映るようにする。掴まれていないほうの腕で、制服の胸元を握る。
「あの、俺、柳生に言いたいことがあるんだけど」
「私に?」
「……聞いて、くれるか……?」
 いつになく心細げな表情をする丸井に、柳生は真顔で頷いた。


 ベッドに腰掛け、幸村は本を読んでいた。丸井は今日、一人で来るだろうか。それとも、皆を連れてやってくるだろうか。どんな顔をしてくるだろう。戸惑っているだろうか、驚いているだろうか。
 笑顔で飛び込んできてくれたらいい。幸村は、そう思った。
 誰かのかけてくる足音と、病院内で走らないでくださいと注意する声が聞こえ、幸村は顔を上げる。きっと、丸井に違いない。
 幸村が見守る中、扉が乱暴に開かれた。ノックがないのはいつものことだったが、その大きな音に些か驚いた。
 それから、ベッドまで駆け寄ってきた丸井の頬を伝う涙に気づいて、幸村は慌てる。
「ブン太? ブン太、どうしたんだ?」
 泣きながらしがみついてくる丸井の頭を撫でつつ訊ねる。その声には、狼狽の色がにじんでいた。いつでも冷静な幸村には珍しいことだった。涙を見ただけでここまで動揺するぐらい、自分は丸井をかわいがっているのだ。自覚して、幸村はなんともいえない気分になった。
 腕の中で震える丸井を、愛しいと思う。一体何が彼をここまで追いつめたのだろうか。許せないな。無茶な要求をした自分のことは棚に上げ、幸村は丸井を泣かせた誰かに憤った。
「ブン太? 柳生に、怒られてしまったのか?」
「違う、仁王が!」
「……仁王?」
 丸井の口から出た名前に、幸村は目を見張った。仁王は、丸井に想いを寄せいている。それは、仁王自身気づいていない淡い想いだったが、幸村は気づいていた。幸村は、他人のことに敏感だったし、他の誰よりも丸井を見ていたから。抱く想いは異なるものの、同じように丸井へ視線を向ける仁王に気づかないはずがなかった。
 仁王は、丸井に何をしたのだろう。幸村の問いかけに、丸井が口を開いた。


 切羽詰まった表情で見上げる丸井に、柳生は穏やかな声音で告げる。
「勿論、うかがいますよ」
「……俺、柳生が、好きなんだ」
「……私が?」
「ああ」
 何だか息苦しいような気がして、丸井は大きく息を吸い込んだ。見下ろしてくる柳生の視線から逃れるように、目を逸らす。
 それきり黙り込んだ柳生のせいなのか、それともこの場に漂う空気のせいなのか。丸井の顔が次第に熱を持ち始めた。
 どんどん赤くなる顔を隠すように、手をあてる。その時ようやく、まだ柳生に右手を掴まれたままだったことを思い出した。
 片手だけでは完全に顔を覆うことはできず、丸井は羞恥に俯いた。掴まれたままの右腕が、意識するあまり強ばっていく。
 どうして、柳生は何も言わないのだろう。柳生は真面目だから、何と答えようか考えているのだろうか。
 沈黙に耐えかね、丸井は口を開きかけた。そこへ、柳生が口づけてきた。
「……っ!?」
 突然のことに、丸井は抵抗を忘れされるがままになる。開きかけた唇を割って、なまあたたかい舌が侵入してきた。キスされているのだと気づいた時には、既に口内を思う存分蹂躙された後だった。角度を変え、深くなっていく口づけに、身体の力が抜けていく。頭の芯がしびれたように、ぼうっとした。不快なのか快感なのか、じんわりと目尻に涙が浮かぶ。
 苦しそうに眉根を寄せる丸井に、ようやく柳生が顔を離した。拘束する力は弱まったが、丸井は自力で立っていられず、柳生にもたれかかった。
 ぽんぽんと、あやすように背中を叩かれ、丸井は涙を浮かべたまま問いかける。
「……なんで、こんなことすんだよ?」
「私を好きなのだと言ったのは、君でしょう?」
「だからって、」
 いきなりこれは、ないだろう。どこが紳士なんだ、どこが。
 シャツの裾から入り込んできた手に背中を撫でられ、ぞくりと身体を震わせる。これから、なにをされるのだろう。たくさんの不安と、ほんの少しだけ期待の混じった目で、丸井は柳生を見つめる。
 柳生が、微かに笑ったような気がした。
 そのとき、些か乱暴に扉が開かれた。入ってきた人物に、丸井は目を丸くする。
「君たちは、神聖な部室で一体何をしているんですか」
 トレードマークの眼鏡こそかけてなかったが、それは、紛れもなく柳生だった。
 それでは、この、今自分の身体を抱きしめている人物は、一体誰なのだろう。丸井は、混乱した。
「仁王くん。私の眼鏡を勝手に持っていかないでください、と言いましたよね? それから、私の姿で私の人格が疑われるような行動をするのは慎みたまえ、とも」
「別に、おんしの評判を落とすような真似をしたつもりはないぜよ」
「……に、おう……?」
 丸井は混乱したまま、自分を抱く腕の主を見上げる。そこには、眼鏡を外し、飄々とした風体の仁王が、いた。そういえば、次の試合で入れ替わり作戦を実行するとかなんとか、言っていたような。
 今の今まで、自分が柳生だと思って接していた人物は、実は仁王だったらしい。そう気づいて、丸井は一気に青ざめる。
 自分は一体、何をしたのだろう。何を、されたのだろう。これまでのことを思い返し、丸井は涙をあふれさせた。
「ま、丸井くん? 泣かないでください、ああ……」
「……の」
「え?」
「仁王のあほ! けむし! お前なんか、大っ嫌いだーーーーーー!!」
 そう叫ぶと、丸井は泣きながら走り去ってしまう。
「けむしっちゅうのは、悪口なんか?」
「……知りませんよ」
「泣いちゅう丸井も、かわいいと思わん?」
「いいから、早く脱いでください。それ、私のユニフォームでしょう」
 柳生にせかされ、仁王は今度こそ自分のユニフォームへと着替えた。


「柳生じゃなくて、仁王だったんだ」
「……そう」
 説明しながらも泣き続ける丸井に、幸村は胸を痛めた。柳生に迫ってみてくれないか、と言ったのは幸村だった。ただちょっと、うっかりそれを目撃した仁王と柳生の仲がぎくしゃくしたりすれば面白いなあ、と思っただけだったのだが。まさか、こんな展開が待ち受けているとは。
 幸村は、泣きすぎてはれぼったくなっている丸井の目元に唇を寄せた。
「幸村……?」
「ブン太は、俺のこと、嫌い?」
「好きだよ!」
 嫌いじゃない、ではなく、好きだと返され、幸村は微笑んだ。なんてかわいくて、なんていとしいのだろう。
「ごめんねブン太。俺が、あんなこと言ったから」
「違うよ! 俺が、仁王だって気づかなかったから」
 本来なら責められても仕方のないことなのに、丸井は自分が悪いのだと言い張った。そのいじらしい姿に、幸村は自然と優しい面もちになる。
「俺も、ブン太が大好きだ」
「う、うん」
 動揺しているのか、丸井は瞬きをくり返した。桜色に染まった頬に、そっと唇を落とす。数回繰り返すと、恥ずかしい、と小さく呟かれた。嫌かと訊ねれば、嬉しいと返される。


 かわいい、かわいい俺のブン太。
 もうしばらくは、誰にもあげるつもりはないんだ。


 だからごめんね、と幸村は胸の内で仁王に謝った。


 【完】




2004 06/26 あとがき