10 なに、いやなの?(仁王と丸井)


 柳の話を聞いて安心した丸井は、手当をして貰ったこともあり、久しぶりにぐっすりと眠ることができた。
 朝起きてご飯を食べに降りていくと、家族から口々にもう大丈夫なのかと声をかけられる。昨日夕飯をとらずに寝てしまったことで随分心配をかけたらしいと、申し訳なく思った。
 元気そうな丸井の様子に安堵したのか、弟たちは嬉しそうにご飯に手をつけている。和やかな雰囲気に、丸井も笑みを浮かべた。


 朝練へ向かう途中、切原に出会った。切原は電車通学なので、寝坊しない限り人より早くやってくる。学校から近い丸井はいつもぎりぎりに家を出るため、かち合うことは滅多になかった。
「あれ、丸井先輩今日は早いっすね」
「お前いきなりそれかよ」
 他に言うことがあるだろうとわざとらしく腰に手を当ててみせると、ノリのよい切原は慌てて頭を下げてくる。
「あー、すんません。おはようっす」
「おう」
 軽く手を挙げ、並んで歩き出した。隣を歩く切原は、どこか嬉しそうに見える。
「なんかいーことでもあったのか?」
「え? いや、なんもないっすよ」
 きょとんとした顔になった切原に、ポケットから出したガムを口に入れながら丸井は眉根を寄せた。
「なんかにやにやしてんじゃん」
「し、しつれーな!」
 切原が、むっとしたように口をとがらせる。
「ただ、俺は」
「俺は?」
 続きを促すと、切原はちらりと丸井の顔を見てから口を開いた。
「丸井先輩に合わせてやっただけですよーだ!」
「はあ!?」
 なんのことかと問いつめる前に、切原は笑い声を残して走っていってしまう。
「ちょっ、待ちやがれ……っ!」
 追いかけようとしたが、弾みで肩にかけていたカバンと制服の中の傷が擦れ、丸井は足を止めた。
「いってー」
 柳に手当てしてもらったものの、まだ触れると痛むのだ。カバンの位置をずらすと、丸井はゆっくりと歩き始める。
 せっかく早めに家を出てきたというのに、これではいつもと変わらない時刻に到着するかも知れない。そう思ったらだんだん腹が立ってきて、丸井は仁王にこの怒りをぶつけてやろうと決めた。


 なんとか校門までたどり着くと、背後から自転車の近づいてくる音がした。もしやと、丸井は顔を上げる。予想通り、やってくるのは仁王だった。
 手を振って合図をすると、自転車置き場へ向かおうとしていた仁王が、丸井の前までやってくる。
「……おはようさん」
 それだけ言うと、仁王は困ったような顔でこちらを見てきた。
 丸井はその場でふんぞり返ると、びしっと右手の人差し指で仁王の顔を指さしてやる。
「今日の帰り、俺につきあえ!」
 指さされた先で、仁王が目を丸くした。策士である仁王が、無防備にこんな顔を晒すことは滅多にない。それに気をよくした丸井は、わかったなと傲慢に笑う。仁王が、こくりと頷いた。


 仁王と連れだって部室へ入ると、中にいた者がみな驚いたような視線を向けてきた。目立つことは大好きだったが、理由のわからない注目に、丸井は一転して不機嫌になる。
「ほーら、俺の言ったとおりでしょう?」
 丸井のいないところでなにを言っていたのか、切原がジャッカルへ胸を張った。
「なんだよ」
 切原をにらむと、着替え終わった柳がロッカーを閉めて丸井のほうへやってくる。
「仁王と、仲直りしたのか」
 それには答えず、昨日はありがとうと柳に飛びついた。
「昨日?」
 仁王が、丸井の背後でいぶかしげな顔をしている。柳は笑みを漏らすと、ちょっとなと言った。
 柳に頭を撫でて貰い、丸井は着替えるために自分のロッカーへ向かう。あざや傷跡が見えないように、頭からユニフォームをかぶってその下でシャツを脱ぐという、女子のような着替えかたをした。
 視線を感じて顔を上げると、何故そんな着替えかたをしているのかわかったのだろう、申し訳なさそうな顔をした仁王と目が合う。
「なーに見てんだよ、仁王のすけべ!」
 おどけて蹴りを入れる真似をすると、仁王が口の端をあげた。
「だってブンちゃん、うまそうなんやもの」
「……食うなよ?」
 先日ここで噛みつかれたことを思い返しながら、丸井はまじめな顔つきになる。仁王が、肩を揺らして笑った。


 まじめに掃除をしている柳生をぼんやり眺めていると、視線に気づいたのか柳生がこちらを向いた。ほうきを片づけ、こちらへ近寄ってくる。
「丸井くん、まだ帰られないのですか?」
 今日は部活がなく、掃除当番でもない丸井はいつもならさっさと帰ってしまうところだ。不思議そうにしている柳生に、仁王を待っているのだと告げると、眼鏡の向こうで目を見開かれたようだった。
「仁王くんと出かけられるのですか……」
 どこか困惑したような声音に、丸井は首を傾げる。
「ふたりきりで?」
 頷いてみせると、柳生は頬に手を当てなにか考えているようだった。
「どこへ向かわれるおつもりですか?」
 丸井が答える前に、仁王に声をかけられる。
「遅うなったのう、すまん」
 丸井はふたりの顔を見比べたが、柳生がなにも言わないのでそのまま仁王と行くことにした。
「じゃーな、柳生」
「まっすぐ帰りんしゃいよ」
 寄り道をする自分たちのことは棚に上げて言う仁王に、慣れているのか、怒るでもなく柳生は手を振る。
「お気をつけて」
 自分に向けて言われたような気がして、丸井は手を挙げた。


 自転車を取りに行った仁王が戻ってきて、丸井は後ろにまたがった。肩に手を置くと、仁王が振り向く。
「お客さん、どちらまで?」
「そうだなあ、とりあえず駅前?」
「りょーかい」
 丸井を乗せ、仁王は自転車をこぎ出した。少し行ったところで、仁王が苦しそうな声を出す。
「なんてゆーか、ブンちゃん」
「なんだ」
「……重い?」
「んだと!」
 ぐいぐいと掴んだ肩を揺さぶってやると、仁王が危ないと慌てた。慌てる仁王というのも珍しく、丸井は声をあげて笑う。
「てゆーか、なにブンちゃんとか呼んでんだよ」
「んん? だめやった?」
「なれなれしい」
「すまんのう」
 ふふふ、となにがおかしいのか仁王が笑い声を漏らした。丸井は上半身を倒すと、仁王の耳元で何笑ってんだよと文句をつける。
「べっつにー。それよりお客さん、そろそろ駅前ですけど?」
「ケーキ屋の前で止めて」
「やっぱり食べるんやね」
「お前のおごりだかんな!」
 わかっちゅう、と仁王はケーキ屋へ向かった。自転車を止める前に飛び降りると、丸井は一目散に店内へ駆け込む。並んだケーキの数々に、どれにしようかと迷っていると仁王がやって来た。
「仁王も食う?」
「そうやのう、おつきあいしましょうか」
 丸井がどれにするか決めかねている内に、仁王はさっさと甘さ控えめのものを選んだ。
「二個買ってもええよ?」
 振り向くと、仁王が優しいまなざしでこちらを見ている。なんだか恥ずかしくなって、丸井は大声で言った。
「三つ!」
「……好きにしんしゃい」
 諦めたような口調で言う仁王に、それじゃあと丸井は店員に選んだケーキを伝える。黙って聞いていた仁王は、丸井が四個目のケーキを指さしたところで口を挟んできた。
「なんか、さりげなく一個増えてませんか?」
「幸村のぶん!」
「幸村……」
 これから向かう先がわかったのだろう、仁王が気の抜けた声を出す。
「なんだよ。いやなのかよ?」
 丸井がにらみつけると、めっそーもありません、と仁王は肩をすくめた。


【完】


2005 02/07 あとがき