13 柳蓮二くんと(柳と幸村と丸井)


 その日、柳は珍しく幸村から呼び出しを受けていた。
 言われなくとも週に一度は顔を出していたので、よほど緊急の用事があるらしいと柳は病室へ急いだ。
 ノックをして扉を開けると、ベッドの上で幸村が身体を起こして待っていた。
「さすが。時間通りだな、柳」
 こちらを向いた幸村の顔には、薄い笑みが浮かんでいる。これは、幸村が怒っているときの癖だ。
 どうやら、相当苛立っているらしいと、柳は内心ため息をついた。
「何があった」
 ベッドの脇へ近寄りながら、柳はそう訊ねる。幸村が、目を細めた。
「それはこっちの台詞だ」
「俺は知らんぞ」
 言いがかりだと肩をすくめてみせると、幸村は楽しそうに窓を指さす。そこは出窓のようになっていて、少しばかりものが置けるようになっていた。
 幸村が示している卓上カレンダーには、○と×が書かれている。○のついた日は丸井が見舞いに訪れた日で、×は来なかった日だ。
 ここ一週間ほど、×が並んでいた。
「ここにも来てなかったのか?」
 柳は、ここ最近丸井の様子がおかしいことに気づいていた。もともと柳は部員の動向に気を配っていたし、幸村が入院することになったとき、直々に丸井を頼むと言われていたこともあった。
 幸村が部活に姿を現さなくなってから、丸井は目に見えて落ち込んでいたが、幸村のいない間勝ち続けるという目標を得たことで浮上したように見えた。その後もたまに元気のないときがあったものの、たいていは幸村に会うことで回復していたようだった。
 だから、丸井の様子がおかしくとも、柳は原因を探ることをしないでいたのだ。
「てっきり、幸村にだけはうち明けていると思ったのだが……」
「ブン太には特に気をつけてくれと頼んだだろう!」
 いつになく声を荒げ、身体がついていかなかったのか、幸村は苦しそうに息を吐く。
 背中をさすってやって、柳はその身体が小刻みに震えていることに気づいた。きつくシーツを握る白い手が、幸村の悔しさを表しているように見える。
「幸村……」
 長引く入院生活が、どれだけのものを幸村から奪っていったことか。体力や健康な身体だけではなく、好きなときに好きな人へ会いに行ける自由すら、いまの幸村にはないものだった。
 幸村が自分に望んでいたことは、本来なら幸村自身の手で行いたかったことなのだろう。そう思って、柳は胸を痛める。
「すまないことをした」
 真摯な口調で謝罪した柳に、はっとしたように幸村が顔を上げた。
「いや。……俺のほうこそ、すまない」
 それを機に、柳は椅子に腰掛ける。
 頭が冷えたのか、幸村はどこか恥ずかしそうに口を開いた。
「おととい、仁王が来た」
 仁王だけではなく、立海の部員はことあるごとに幸村を訪ねるので、それは特別珍しいことではなかった。
 だが数日前、丸井が仁王から逃げ回っていたことを思い出した柳には、それが何か意味を持つ行為のような気がした。
「仁王は何て」
「詳しくは教えてくれなかった。ただ、丸井にひどいことをしてしまったと」
「仁王が?」
 柳は、驚きに声をかすれさせる。
 仁王雅治という男は、いたずら好きで詐欺師などという異名を持ってはいたが、人を傷つけるような真似はしなかったので、柳も注意せずほうっておいたのだ。
「ブン太が」
 すがるような声音に、柳は幸村を見た。
「……ブン太が、俺のところへ来ないのは、もしかすると俺に原因があるのかも知れない」
「幸村に?」
 それから、幸村は話し出す。己が丸井に、とある提案をしたこと。その結果、丸井が泣きながら駆け込んできたこと。それきり、丸井が姿を見せないこと。
 その表情は、許しを請う咎人のように痛々しく柳の目に映った。
「そうか。それで、丸井は仁王を避けていたのだな」
「おそらくは」
 そしてその後、仁王は再び丸井になにかをしでかしたのだ。仁王自ら、「ひどいこと」と口走るような、なにかを。
 目を閉じた幸村に、柳は諭すように話しかける。
「幸村。確かに、きっかけはお前だったかもしれない。だが、実行したのは丸井で、それに乗ったのは仁王だ」
 幸村にまったく罪がないとは言い切れなかったが、それには目を瞑った。
「でも、俺は」
 反論するように、幸村が首を振る。
「俺は知ってたんだよ。ブン太が、俺の言うことに逆らったりしないって」
 断らないことを承知した上での提案は、命令に等しいと言えるだろう。
「俺はそれで構わないと思うぞ。丸井がそれを望んでいるのだから」
 出会った当初から、幸村は丸井を猫可愛がりしていて、また丸井もよく幸村に懐いていた。その関係は、親子のようであり、また主従のようでもあった。無理難題をふっかけては、己のためにそれをこなす丸井を見て、幸村はその愛情を確認しているようにも見えた。
 そしてそれは、幸村が入院することになってから、ことさら顕著になった。日々弱っていく幸村に、最後に残されたものが丸井を庇護するという役目だったのかも知れない。
 恋愛感情になることのできなかった、行き場のない想いがようやくたどり着いた場所のようにも思え、本来なら正してやるべきなのだとわかっていながら、柳はただ黙って見守ることしかできなかった。
 もし幸村に罪があるというのなら、同じだけ自分にもあるはずだと、柳は立ち上がる。
「俺に任せろ」
 力強く言い放った柳をしばらく見上げた後、幸村は今にも泣き出しそうに顔をゆがめた。
「お前は……」
 それだけ口にすると、幸村は顔を伏せる。柳は荷物を持ち、廊下に出た。
 扉を閉める瞬間、ありがとうという声が聞こえたような気がした。


 病院を後にすると、柳はその足で丸井の自宅へ向かった。着いた頃には夕飯時だったが、丸井の家族は快く迎えてくれた。
 丸井の部屋へ通され、まさか柳が来るとは思っていなかったのだろう、丸井が目を丸くしてベッドからはい出てくる。
「夕飯もとらずに寝ていたのか? ご家族が心配していたぞ」
「食欲ない……」
 ぽつりと呟くと、丸井は柳の正面に座って床に視線を落とした。
「幸村に会った」
「えっ」
 丸井が、こぼれ落ちそうなぐらい目を見開く。丸井が幸村に関して何か不安を抱いているらしいことに気づいたが、柳はそれには触れず、幸村が心配していたとだけ言った。
「幸村が……」
「もう会わないつもりか」
「そんなわけないだろっ」
 傷ついたような目をする丸井の頭を、柳は優しく撫でてやる。はじめは身を固くしていた丸井も、次第に甘えるような表情を覗かせた。
「何があった?」
「……」
「皆心配してるぞ」
 その言葉は嘘ではなかった。いつも元気で明るい丸井は、部内で切原と並ぶムードメーカーだった。丸井が騒がないので、切原までもが最近は無駄口を叩くことなくテニスに打ち込んでいるほどだ。
「仁王に、なにかされたのか」
 仁王の名前に、丸井は大きく身体を震わせる。しばらく逡巡するような間があって、丸井は思いきった風に口を開いた。
「俺、仁王に嫌われたみたい……」
「仁王に?」
 聞き返す柳に頷くと、丸井はおもむろに着ていたシャツの裾をめくり上げた。その肉付きのよい肌に残された惨状に、柳は息をのむ。
 誰かに手当てして貰うこともできなかったのだろう、まだ血のにじんでいる傷口もあった。
「これでも、よくなったんだけど」
 何も言えずにいる柳に、丸井が微かに明るい声を発する。気を遣わせてしまったと悟って、柳は丸井の手をとってその身体を抱いた。
「大丈夫だ」
 何が大丈夫なのか、自分でもわからなかったが、柳はそう口にしていた。大丈夫だと繰り返す柳に、丸井がしがみついてくる。
 これは幸村の役目だと頭のどこかで思いながら、柳は慰めるように丸井の頬に口づけた。


 上半身の手当を終え、柳はあえて機械的に下も脱げと告げたが、丸井は首を傾げるばかりだった。
「下は、別にけがしてねえよ?」
 言い出せずに、とぼけているのかと思った。しかし、丸井がそこまで演技に長けているとも思えず、柳は首をひねる。
「仁王は、お前に何をしたんだ」
 直接的すぎるかと心配したが、丸井は躊躇わずに言った。
「床に倒されて、ちゅーされて、噛みつかれた」
「それだけか?」
「それだけって、すげー痛かったんだけど」
 思い出したのか、丸井が顔をしかめる。
「なんか、お前は柳生が好きなんだろうって、……」
 きゅっと口を閉じると、丸井は目に涙を浮かべた。
「俺、なんで仁王に嫌われちゃったんだろ? 柳生をとられると思ったのかなあ」
 小さな呟きに、柳は唐突に理解した。丸井に残された痕は、すべてが仁王の丸井への想いを表しているのだと。まさか仁王に、あの何事にもおどけた仮面をつけて臨む男に、これほどの激情が隠されていたとは。
 気づいて、しかし柳にはどうすることもできなかった。仁王の気持ちを、本人のいないところで勝手に告げるわけにもいかないだろう。
「丸井。仁王は、丸井を嫌ったわけではない」
「でも……」
「仁王のほうこそ、丸井に嫌われたと幸村に相談しにきたそうだ」
「ええっ!?」
 幸村は、丸井にとって絶対だ。幸村が言うことは、たとえどんなことでも丸井にとっての真実となるのだ。あえてその名を口にすることで、柳は丸井の不安を取り除いてやる。
「幸村が、二人を心配していたぞ」
「幸村が……」
「仁王と、これまで通り仲良くできるな?」
「うん。仁王に、嫌われてないなら……」
 大丈夫だと、柳はもう一度頭を撫でてやった。
「丸井があんまり可愛いから、仁王も意地悪したくなっただけだ」
「そうなのかな?」
「ああ」
 柳が頷くと、丸井は安心したように頭を預けてくる。ひとしきり撫で、そろそろ帰ろうと柳が立ち上がったところで、丸井が疑問を口にした。
「なあ。俺って、柳生が好きなのかな?」
 本気で訊ねているらしい丸井に、しばらく思案したのち、柳はこう提案した。


「それは、幸村に相談するといい」
 きっと幸村なら、楽しい答えを用意してくれることだろう。


【完】


2005 01/16 あとがき