28:夏(跡部と宍戸とジロー)


 跳ねるように走るジローを追って、宍戸もまた走っていた。何かに気づいたように、ジローがスピードを緩める。どうしたのかと見ていると、ジローは自分の服に手をかけ、勢いよく脱ぎだした。
「ジロー!?」
 一体なんのつもりかと焦る宍戸をよそに、ジローは走りながら次々脱いでは辺りに放り投げていく。
「おい、ジロー」
 宍戸がいくら声をかけても聞いていないらしく、ジローはそのまま走っていってしまった。後に残された宍戸は、仕方なく落ちているジローの服を拾い集める。
「なんで俺が……」
 気持ちはわからなくもないのだがと、宍戸は手にした服についていた草を払った。
「何してんだ」
「跡部」
 後からのんびり歩いてきた跡部が、木陰から顔を覗かせる。宍戸の手にある服を見て、跡部が顔をしかめた。
「ジローか」
「ああ」
 頷いた宍戸の隣にやって来ると、跡部が大きく息を吐く。
「まさか、全部脱いでったんじゃねえだろうな」
「や、さすがにそこまでは……」
 ジローなら、あり得るかも知れない。そんな考えが、宍戸の語尾を弱めた。
 もう走る気にはなれず、宍戸は跡部と並んで歩いていく。
 立ち止まったせいで一気に吹き出した汗を、手のひらでこすった。それだけでは足らず、シャツの裾をめくって額を拭う。
 少しだけすっきりして顔を上げると、跡部が睨んでいた。
「なんだよ?」
「腹を出すな。ガキかてめえは」
 吐き捨てるように言われ、宍戸はむっとする。
「別にいーだろ。こんだけ暑いんだから、腹出したって風邪引くわけねえし」
 歩調を早めた宍戸の後ろで、跡部が何か呟いた。
「そーゆー意味じゃねえよ」
「あ?」
 よく聞こえず、宍戸は顔だけで振り向く。
「なんでもねえ」
 肩をすくめると、跡部はさっさと行くぞと宍戸の肩を小突いてきた。


 放課後、約束したとおり宍戸とジローは跡部の屋敷へ来ていた。先ほどまでコートで打ち合っていたのだが、あまりの暑さにプールが恋しくなったのと、体調が万全ではない跡部を気遣って早々に切り上げることにした。
 テニスコートからプールまでの道のりは、ちょっとした散歩コースのようになっていて、敷かれたレンガの上を辿りながら木々の間を通り抜けていくことになる。
 プールに目のくらんだジローが走り出したので、宍戸も後を追って駆けだしたのだ。


 ジローはもう、プールに着いただろうか。少し悔しかったが、隣を歩く跡部の穏やかな表情に、これでよかったのかも知れないと思う。
 ずっと、この時間が続けばいいのに。このぐらい穏やかで、のんびりとした時間が、いつだって跡部を包んでくれればいい。柄にもなくそんなことを願って、宍戸は木立の間から空を見上げた。
 跡部の置かれた立場を考えれば、きっとそれは無理なことなのだろう。跡部は人より多くのものを学び、身につけていかねばならない。どれだけ忙しなく、困難なことであろう。
 周囲の期待を一身に受け、全てをなんでもないことのように完璧にこなしてみせる跡部は、けっして愚痴を言ったり弱音を吐いたりしない。
 それが跡部景吾という人間で、宍戸はそんな跡部のことを誇りに思っていた。
「跡部」
「ん?」
 坂の手前で足を止めた宍戸に、跡部も立ち止まる。青い双眸に見つめられることを、素直に嬉しいと思った。
「手、引いてやろーか?」
 ふざけて宍戸が片手を差し出すと、跡部は目を見張る。一瞬の後、きゅっと眉根を寄せた跡部に、怒らせたかと思ったが、にやりと口の端をあげられた。
「ご親切にどうも」
 跡部の白い手が、宍戸の手を掴んだ。驚いて引っ込めようとしても、がっちりと握られていて振りほどけそうにない。
 冗談だったのにと戸惑いながら、宍戸はどこか喜んでいる自分に気づく。跡部が自分の提案に乗ってくれたことが、嬉しかったのかも知れない。
 わざわざ手を引いてやる程の坂道ではなかったが、宍戸は跡部を引っ張りながら上っていった。


 プールの入り口まで来たところで、二人は無言で立ち止まった。足下に落ちている縞模様の布きれには、見覚えがある。
「……」
「……」
 信じたくない気持ちで、二人はお互いに握った手を引っ張った。交わされた視線に、同じことを考えているのだとわかる。盛大に息を吐いて、宍戸は地面に転がっている布きれへ手を伸ばした。
「あー、やっぱり」
「ジローのか」
 宍戸が拾い上げたのは、ジローが愛用しているトランクス。抱えていた服の上に乗せると、宍戸は水音のするほうへ目をやった。跡部邸のプールは、フェンスと木でぐるっと囲まれている。この中に素っ裸のジローがいるのかと思うと、どんどん気分が沈んでいった。
 何が楽しくて、男の裸など見なくてはいけないのか。
 立ち止まったまま動こうとしない宍戸に、いつになく躊躇いながら跡部が口を開く。
「どーする」
「どーするって」
 目を向けると、跡部は嫌そうな顔で口をとがらせていた。跡部がそんな子供じみた顔をするのも珍しく、宍戸は思わず吹き出す。
「なにがおかしい」
 声音から不機嫌なことが伝わってきたが、フォローする気にもなれず、宍戸は笑い続けた。
「あれ、ふたりともやっと来たの〜?」
 ぱたぱたと入り口のほうへ駆けてくる足音がして、やがてジローが姿を見せる。跡部と宍戸は、一斉に溜息をついた。
「お前なあ」
「水着くらい履け」
 無駄だと思いつつ苦言を呈すふたりに、ジローが明るく笑う。
「えへ! だってすぐ入りたかったんだもん!」
 早く、とふたりをせかそうとして、ジローは目を丸くした。何に驚いたのかと目線を追って、宍戸は顔を引きつらせる。ジローの視線は、繋がれたままのふたりの手に注がれていた。
「ち、ちがっ、これは、」
「宍戸がどーしてもつないでくれって言うから仕方なく、な」
 焦るあまり言葉の出てこない宍戸とは対照的に、跡部は落ち着き払っている。
 ジローが、にっこりと笑った。
「よかった! 跡部と亮ちゃんが仲良しで、俺嬉しい!」
「だ、だからっ」
「そーかよ」
 皮肉げに笑いながら、跡部が繋いだ手に力をこめてくる。にこにこと、心から喜んでいるジローの愛くるしい笑顔に、宍戸は何も言えなくなった。


 ジローを脱衣所まで引っ張って用意してあった水着を履かせると、宍戸も着ていたテニスウエアを脱ぎ捨てた。ジローは再びプールへ行ってしまったが、冷房の入った室内は心地よく、宍戸は下着姿のままぼーっとしてしまう。ふと視線を感じ、振り向くと跡部と目があった。
 泳ぐ気はないのか、跡部は着替えようともせず壁際に立っている。
「泳がねえのか?」
「もう少ししたらな」
 炎天下の水泳は、案外体力を使う。もしかすると、まだ打ち合いをしたときの疲労が残っているのだろうか。つきあわせてしまったことに罪悪感を覚え、宍戸は表情を曇らせた。
「ばかかてめえは」
 眉根を寄せた跡部に、反射的に言い返しそうになった口を閉じる。跡部が、小さく息を吐いた。
「余計な気、遣ってんじゃねーよ」
「余計かよ?」
 跡部の何気ない言葉に、どうしてこれほど胸が痛むのだろう。自分など必要ないと、そう言われた気がした。
「そういう意味じゃねえ」
 知らず俯いた宍戸の肩へ、躊躇いがちに跡部の腕が置かれる。
「俺は」
 耳元に届いた声が思いの外真剣で、宍戸は顔が上げられなくなった。
「俺はただ、お前が」
 吐息のかかる耳が熱をもっていくのがわかり、恥ずかしさに宍戸は身を引こうとしたが、肩から背に落ちた跡部の腕に阻まれる。まわされた腕が逃げるなと言っているようで、宍戸は跡部に身体を預けた。
 跡部が、ほっとしたように宍戸へ頬を寄せてくる。触れた頬の冷たさに、自分ばかり動揺しているようで、ますます恥ずかしくなった。
 こんなことは、ジローとしょっちゅうしているはずなのに、何の意味も持たないただのスキンシップなはずなのに、どうしてこんなにも緊張してしまうのだろう。
 固く目を閉じて、宍戸は跡部の肩に額を押しつける。いま、自分の頬は赤く染まっているはずだ。どくどくと落ち着かない心臓に、このままではどうにかなってしまいそうで怖くなる。
 すがるように、宍戸は跡部の服を握った。跡部が僅かに身じろいで、ひときわ強く身体を抱かれる。
「宍戸、俺は……」
 ようやく続きを紡ごうとした跡部の声が、ぱたりとやんだ。
「何してやがる、ジロー」
「へ?」
 急に変わった声音に、宍戸は慌てて顔を上げる。脱衣所の扉から、ジローがのぞき込んでいた。
「え? あ、やべー、見つかった!? えへへ、ごめーん。浮き輪借りようと思って!」
 しまったと頭をかきながら浮き輪を手に取ると、ジローはそそくさと出ていく。
「ごゆっくり!」
 手を振って、ジローが扉を閉めた。
 無言で、ふたりはお互いの身体を解放する。跡部が何を言おうとしたのか気になったが、もはや聞ける雰囲気ではなかった。
 跡部に背を向け着替えをすますと、宍戸は置いてあったビーチボールへ手を伸ばす。
「お前もはやく来いよ」
 ビーチボールを指の上でまわしながら、出ていこうと宍戸は扉を開けた。
「俺はただ」
「え?」
 先ほどの続きかと振り向くと、予想外に跡部の顔が近く、宍戸は動けなくなる。無表情に見つめてくる跡部に、やっぱりきれいだと見とれた。
「お前がいれば、それでいい」
 言葉とともに頬へ触れた唇に、宍戸は呆然と目を見開く。
「あと、べ……?」
 笑って、跡部が宍戸の背を押した。プールサイドへ押し出され、宍戸は我に返る。
「あ、跡部!」
 振り向くと、閉まりかけた扉へ向かって叫んだ。
「俺だって、お前がいてくんなきゃ困る!」
「困るのか」
 意外そうに、跡部が片眉をあげた。大きく頷いて、宍戸は続ける。
「だから、逃げたって無駄だからな。どこまでだって、追っかけてやる」
 一瞬きょとんとした顔をして、跡部が声を上げて笑った。
「そりゃあ、ずいぶんと熱烈なストーカー宣言だな?」
「……は?」
 笑われた宍戸は、自分の言葉を思い返して顔を真っ赤にする。
「そ、そーゆーんじゃねえって!」
「楽しみにしてる」
 愉快そうに笑ったまま、跡部は扉の中へ消えた。
 残された宍戸は、なんだかとてつもなく恥ずかしいことをした気がして、誤魔化すようにプールへ飛び込む。ジローが、亮ちゃん達らぶらぶ〜などとはやし立てるので、ますます顔が赤くなった。
「うっせーぞジロー!」
 ジローにビーチボールをぶつけると、宍戸は泳ぎ出す。水の冷たさに跡部の冷たい唇を思い出し、宍戸は逃げるように水をかいた。


【完】


2005 05/22 あとがき