ねがい(跡部と宍戸とジローと忍足)


 試合を終え、ねぎらいの言葉をかけてくる関係者へ軽く挨拶をすると、跡部は携帯を開いた。目当ての人物からの着信はなかったが、一通のメールが届いていることに気づく。見慣れないアドレスに首を傾げながら、跡部はメールを開いた。
 ひらがなだけの、たった一言。
 署名もなにもなかったが、跡部にはそれが誰から、どんな目的で送られてきたものなのかがわかった。
 日付に目をとめ、跡部はよく晴れた空を見上げる。はるか遠くにいる人を想い、微かに青い双眸が揺れた。


 交友棟の中央に置かれた緑色の物体に、ジローは歓声をあげた。
「すっげー! 亮ちゃん見て見て! 笹の葉!」
 叫ぶなり駆け寄ると、ジローは葉を掴んで揺らす。
「おいおい、葉が散っちまうぞ」
「あ、そっか」
 手を離すと、寄ってきた宍戸と並んでジローは据え付けられた笹を見上げた。
「そーかー、もーすぐ七夕だもんね!」
「そうだな」
 宍戸が、何かを思い出すような目つきをする。
 笹の近くにはテーブルが置かれ、短冊とペンが並べられていた。誰でも自由に願い事を書いてつるしてよいようだ。
「うわー、なつかし〜! 幼稚舎んときとかやったよね、これ!」
「だな」
 色とりどりの短冊を前に、ジローは目を輝かせる。どれにしようか迷って、大好きなオレンジ色を手に取った。
「なんだジロー、書くつもりかよ」
「え、なんでー! 亮ちゃんも書くでしょ?」
 ペンを取っていざ書き出そうとしていたジローは、宍戸の言葉に驚いて振り向く。宍戸は、どこか淋しそうな顔で笹を見上げていた。
「ガキじゃあるまいし。こーこーせーにもなって七夕かよ」
「だめだよ! お願い事しないと、織り姫と彦星が会えなくなっちゃうよ!」
 宍戸が、はっとしたようにジローへ目を向ける。しまったと思ったが、フォローする前に宍戸は呆れたように笑った。
「なんだそりゃ。そんな言い伝えねえだろ」
 その目がせつなげに揺れて、ジローの胸を痛める。
「それに、俺は他人の手を借りるなんざまっぴらごめんだぜ」
 願いは自分の手で叶えるという宍戸らしい答えに、ジローは何も言えなくなった。
 黙って、自分の願い事を短冊につづる。のぞき込んできた宍戸が、欲のない奴だと笑った。


 放課後、忍足をともなってジローはふたたび交友棟へ来ていた。笹を見つけ、忍足が感慨深げに目を細める。
「ほんまや。こんなん、久々に見た気がするわ」
「ね! すごいでしょう!」
 想像以上に大きな笹だったのだろう、忍足はいつになく興奮しているようだ。
「これだけでかい笹なら、みんなの願いがきっと叶うやろなあ」
「叶うよ! 叶ってくれなきゃ困るもん」
「困るもん、て」
 ジローの子供じみた語尾に、忍足が肩を揺らして笑う。
「ジロちゃんはほんま、昔から変わらんなあ」
「そーかな」
「ああ」
 頭を撫でる忍足の指先が気持ちよくて、ジローは目を閉じた。
 まぶたの裏に、幼い頃の思い出が映る。
 幼稚舎の制服に身を包んだ、宍戸とジロー。それから、跡部の姿もあった。
 跡部に勝つと書き込んだ宍戸の短冊を見て、跡部は鼻で笑う。
 そんなもんの力を借りなきゃ俺様に勝てねえのか、と馬鹿にされた宍戸は、見る間に短冊を破り捨ててしまった。
 あの頃から、宍戸は真っ直ぐで頑なだった。
 そんなことを思いながら開いたジローの目が、黒の短冊に奪われる。
 黒い短冊など、用意された中にはなかったはずだ。
 黒は、──黒は、跡部の好きな色だった。


 ふらふらと、吸い込まれるようにジローは黒い紙切れに近づく。それは、不器用な人間がこしらえたものなのだろう、紙は斜めに切られていたし、つるすための針金も曲がっていた。
 黒い紙に黒いペンで書かれているため、なんと書かれているのか読みとるのは困難だ。
 忍足が、光に透かして読み上げてくれた。
「もっと上にいけますように、やって」
「亮ちゃんだ……」
 直感だったが、絶対にそうだとジローは確信する。
「確かに宍戸の字みたいやけど。上にって、跡部に勝つって意味か?」
 首をひねる忍足に、ジローは違うと言った。
「亮ちゃんは、自分のことを願ったりしないもの」
 これは、宍戸が跡部のことを願ってつるしたものだろう。


 ──あいつが、もっと上にいけますように。
 どんな顔で、どんな気持ちで、宍戸はこれをつるしたのだろう。


「跡部の、ばか……」
 震える声で呟いたジローの頭を、忍足の手が抱き寄せる。
「跡部なんか、跡部なんか、海外行ったっきり帰ってこないで、連絡もしてこないで、亮ちゃんをひとりにして、すごく淋しい思いをさせてさ、」
 それでも宍戸が願ったのは、跡部との再会ではなく、跡部が更なる高みへ上り詰めることだった。
「こんなときぐらい、自分のこと願ったっていいのに……」
 亮ちゃんもばかだと、ジローは目をこすった。
 宍戸のことだから、跡部の邪魔にならないようにと自分から連絡をとることもしていないのだろう。
「いまはメールもあるのになあ」
 あほな奴らやと、忍足がジローの頭の上で嘆息する。メールという言葉に、ジローは顔を上げた。




 高等部へ上がってすぐプロになった跡部は、様々な大会へ出場するため海外へ拠点をおいたので、ほとんど会うことはなくなった。一応休学扱いになってはいるものの、復帰するかどうか怪しいと宍戸は思っている。
 置いていかれたなどとは考えていない。ただ、跡部と同じ道をたどれないことが無性に悔しかった。
 幼い頃からずっと、宍戸は跡部の背を追ってきた。目標を失い、一時はどうすればよいかわからなくなったこともあったが、跡部のいなくなった氷帝は弱くなったなどと言われるのだけは我慢がならなかったので、ひたすらテニスに打ち込んだ。身体を動かしていれば余計なことを考えずにすんだこともあったし、たとえ跡部自身が存在しなくとも、氷帝は跡部の王国だった。そこかしこに跡部の気配が残っていて、この場を守ることが自分の使命のように思えたのだ。
 ジローの声が聞こえた気がして、宍戸は足を止めた。周囲を見渡しても、見慣れた黄色い頭はない。気のせいかと歩き出そうとしたところで、宍戸は目を見張った。
 どうして、こんなところに。
 目の前で、幾度も夢に見た青い目がこちらを見据えていた。


「……跡部?」
「よお。元気そうじゃねえか」
 跡部の、日焼けしない白い頬が、言葉を発するたびに動く。浮かべられた皮肉げな笑みに、夢ではないかと思った。
「なんでお前、こんなとこにいんだよ」
 ここは日本で、氷帝の高等部だ。帰ってくるなどという話は、聞いていなかった。
「ずいぶんなご挨拶じゃねえか。会いたかった、とか胸に飛び込んでくる気はねえのか」
「ばっ、ばかかてめえは! んな対応してほしいなら、他をあたれ!」
 跡部らしい言いぐさに、宍戸は顔を赤くして怒鳴る。ふたりにとっては、ごく普通の会話だった。
 ──一体、どのぐらいぶりだろう。跡部と、こんな風に話すのは。
「ばかだあ?」
 顔をしかめながら、跡部が反芻する。
「俺様にんなこと言えんのは、てめえぐらいのもんだぜ」
 それから、跡部は何かを思い出すような顔つきで、もう一人いたなと呟いた。


 中庭を見下ろして、忍足は目を丸くした。
「ほんまや、ほんまに跡部や……」
「ねー! 俺が言ったとおりっしょ?」
「こんなメールひとつで、よお帰ってきたもんやな」
 携帯に残った送信メールに目を落とし、忍足は首を振る。
 メールにはただ一言、あとべのばか!と書かれていた。
 先日、ジローが忍足の携帯を使って跡部に送りつけたメールだ。
「跡部だからねー」
 跡部になら通じると思ったのだ。ジローの思惑通り、跡部は七夕に帰ってきた。
「よかったあ。俺の願い事かなって」
「ジロちゃんの願い事?」
「みんながしあわせになれますようにーって」
 しあわせそうな表情のふたりを見下ろし、ジローもまたしあわせな顔で笑う。
「ほんなら、俺の願いもかなったんやな」
「えー? そいえば忍足はなんて書いたの?」
 忍足の書いた短冊は、ひみつだと言って見せてもらえなかったことを思い出し、ジローは忍足を見上げる。
 忍足の答えに、ジローはとびきりの笑顔を浮かべた。


「ジロちゃんが、しあわせになりますように」


【完】


2005 07/07 あとがき