はじまりのお話(氷帝オール)


 先ほどまで静まり返っていた会場が、そわそわと落ち着きを失いだした。そのほとんどが女生徒であることに気づいて、忍足侑士は会場内に掲げられているスケジュールへ目をやる。次に行われる項目が生徒会長の挨拶であることを確認し、やはりと小さくうなずいた。
 昨年のこの時期に行われた自分たちの入学式でも、ちょうどこんな感じのざわめきがあったのだ。


 数日前に実家のある関西から出てきたばかりの忍足は、表面的には平静だったが内心は大きな不安を抱えていた。身を包む制服は、着慣れていないためか重く感じられる。周囲に目をやっても、自分を知る者など一人も存在しない。そういう環境を欲して自らの意思でやってきたとはいえ、ついこの間までランドセルを背負っていたということを考えれば、不安に思うのも仕方がないことだろう。
 行儀よくひざの上に手を置いてかしこまっている少年少女たちに、果たして自分は馴染むことができるだろうか。少しくらい私語をする者がいてもよさそうなものだが、皆一様に黙り込んで壇上に立つ教師を眺めている。
 自分にはとても真似できないと嘆息しながら、忍足も一応は前へ目を向けていた。
 そんな会場内の空気が一変したのは、進行役の教師が「新入生代表、前へ」と言った直後だ。女生徒が急にざわめきだし、慌てたように手鏡を取り出して身支度を整えだした。
 一体、なにが起こったのか。忍足は、ぽかんと口を開けてあたりを見渡す。
 ひとりの少年が、通路側の席から立ち上がった。まるで、そこだけスポットライトを浴びているかのように、きらめいて見える。自分の目がおかしくなったのかと、忍足は度の入っていない眼鏡をはずして目をこすった。だが、やはり少年の周囲だけがきらきらと輝いている。
 会場中の視線を一身に集め、だが気にするそぶりもなく少年は優雅な足取りで歩き始めた。どこからか、跡部様、という声が聞こえてくる。
 そのまま舞台へ上がると、少年はマイクの前でくるりと振り向いた。どこか幼さの残る端正な顔立ちに、会場中からため息が漏れる。
 ハリウッドスターもかくや、という少年の美貌に、女生徒たちの騒ぐ理由がわかったような気がした。幼稚舎からの持ち上がりがほとんどのこの学校で、少年はそれこそアイドルのような扱いを受けているのだろう。少しだけ同情したい気持ちになった。
 通り一遍の挨拶をし、これで終わりかと思われたそのとき、少年は手にした紙を置いて顔を上げた。それまではただ整っているだけのお人形のようだとばかり思っていた顔つきが一変し、にやりと傲慢に微笑んだ。その表情がまた、少年のもつ独特の雰囲気を引き立てるようで、恐らくは誰もが息を呑んで見つめたであろう。忍足も、例外ではなかった。
 会場内をゆったりとした動作で見下ろし、少年はふたたび口を開いた。
「今日から、ここは俺様のもんだ。てめえらの好きにはさせねえからな、覚悟しろよ」
 先ほどまでの丁寧な口調とは打って変わった乱暴な口のききかたに、忍足は唖然とする。今の台詞は、ほんとうにあのおきれいな少年の口から出たものだろうか。
 だが、そういう目で見れば確かに、少年には上に立つ者の風格が備わっていた。彼は、知っているのだ。自分が、生まれながらの支配者であることを。
「きゃ〜! 跡部様ー!」
 感極まったように、あちこちから女生徒の叫び声が聞こえてくる。
 アイドル扱いされているとばかり思っていたが、どうやら自分の勘違いだったらしい。彼は、自らの意思であの地位に立っているのだ。誰にも関与されず、たった一人で。
 誰一人として彼の発言を咎める者はおらず、最後に名前を言って少年──跡部景吾は舞台から降りてきた。すでにその顔に表情はなく、だがどこか楽しそうに歩いてくる。跡部がふたたび座った場所を見て、忍足ははっとした。
 彼が腰を下ろしたところは、自分と同じ列である。クラスごとに並んでいることを考えると、きっと彼は自分と同じクラスなのだ。
 あんな奴と、これから一年も過ごさねばならないのか。そう思って、忍足は頭を抱えたくなった。


 会場内に、忍足と同じ不安を抱えた人間がいた。中等部から氷帝に通うことになった向日岳人は、先ほど行われた跡部のパフォーマンスに、目を丸くしたまま固まっていた。
 一体、なんなんだ今のは。あんなおかしな人間がこの世に存在すること自体にも大層驚いたが、それ以上に驚いたのは自分以外の人間がまったく動揺していないことだった。
 きゃあきゃあとミーハーに騒ぎ立てる女生徒と一部の男子生徒は別として、何事もなかったかのように式は進んでいく。なぜ、誰も疑問を抱かないのだろう。教師や上級生、保護者からも驚いたり戸惑ったりした様子は感じられなかった。
 ここでは、これが普通なのだろうか。自分は、とんでもない場所に紛れ込んでしまったのかも知れない。向日は泣きたい気分になった。
 滞りなく進んでいく式典に、周囲は次第に元の静けさを取り戻していく。張り詰めた空気の中、どこからか寝息が聞こえてきた。視線を向けると、黄色い頭が揺れているのが目に入る。入学式で寝てしまうとは、なんて度胸のある奴だろう。隣に座ったクラスメイトがつついても、全く起きる気配はないようだ。
 ふーん、あんな奴もいるんだな。
 お世辞にも育ちがよいとは言えない向日は、行儀よく並んでいる学友たちに溶け込むことは難しいかも知れないと感じていた。だが、あんな風に寝入っている者もいるのだと思うと、それほど不安を覚える必要はなさそうだ。
 彼と同じクラスであることに安堵し、向日は揺れる頭を見つめた。


 生徒会長として壇上に上がった跡部に、いっせいに会場内から歓声が上がった。そういえば去年もこうだった、とあの時は驚きに固まってしまった自身を思い返し、向日は笑い出したい気持ちになる。まさか、あの男がテニス部だったとは。
 あの時は関わりたくないと思っていたが、味方につけるとこれほど心強い人間もいなかった。相変わらず奇妙な奴であることに変わりはねえけどな。淡々と挨拶をし、最後にまたおかしなパフォーマンスをしてみせた跡部に、向日はため息を吐く。
 ふと前の列に一つ開いた席が目に入り、顔をしかめた。ジローの奴、さぼりやがって。
 宍戸もいないようだし、恐らくはテニスコートにいるのだろう。俺もさぼればよかったと、向日は力なくパイプ椅子にもたれた。


 入学式が終わり、鳳長太郎はクラスメイトとともに教室へ向かっていた。暖房の効いていた体育館から一歩出ると、肌寒い空気に晒され、思わず身震いする。
 他愛もないお喋りをしながら、つい物珍しさできょろきょろと視線をめぐらせてしまう鳳に、幼稚舎から氷帝に通っているというクラスメイトたちがおもしろそうに笑った。外部から受験してきた鳳に知っている人間はいなかったが、これならうまくやっていけそうだ。
 渡り廊下の先で急に歓声があがり、何事かと目を向ける。波が引くようにぱっと人垣が割れ、現れたのは──先ほどの式典で、生徒会長として挨拶をしていた──そう、確か跡部とかいう名前の派手な顔立ちをした男だ。
 ただ歩いているだけで、特別なことをしているわけではないのに、何故か目を離すことができない。ほかの生徒も皆立ち止まり、跡部を振り返っている。
 人目など意に介さない様子でまっすぐ歩いてくると、跡部は鳳の目の前で足を止めた。
 鳳へ目を向けたまま、跡部が口の端を上げる。独特の笑いかたに、周囲の熱が増した気がした。
「待ちくたびれたぜ」
「……えっ?」
 自分に、言っているのだろうか。目を見張った鳳の脇から、のっそりと更に大柄な男が前に出る。跡部の視線が、男に合わせて動いた。 なんだ、自分に言ったわけではなかったのか。一瞬でも勘違いをした自分を恥じて、鳳は顔を赤らめる。
「ようやく、入学か」
「ウス」
 言葉少ない男に、跡部は満足そうに頷いた。身を翻すと、来た道を戻っていく。後から、当然のように男がついていった。
 二人の姿が完全に見えなくなるまで、誰一人として動くものはいなかった。


 集団行動は、あまり好きではない。だらだらと話しながら歩く級友たちについていく気にはなれず、日吉若は違う方向へ足を向けた。特に目的はなかったが、静かなところで落ち着きたいと人のいない場所を選んで歩いていく。
 何かが飛んできたと気づく前に、身体が動いていた。とっさに手で払いのけたものは、黄色いボールだった。
 どうしてこんなところに、こんなものが。疑問に思って顔を上げると、前方から誰かが走ってくるのが見えた。
 長い髪が揺れ、相手が女性であると認識する。無意識にボールを拾って差し出すと、悪いなと小さく謝られた。その声に違和感を覚え、日吉はじっと目の前の相手を見つめる。
「……なんだよ?」
 ボールを放さない日吉に、痺れを切らしたのか相手はぶっきらぼうに言って口を尖らせた。
「男だったのか……」
 呟きは、幸か不幸か相手には届かなかったらしい、首を傾げられる。
 男だとわかっていれば、わざわざ親切にすることもなかったのに。無駄な労力を消費したと、日吉は手にしたボールをふたたび地面に落下させる。
「……てめっ! 何しやがる!」
 一瞬日吉を強くにらみつけ、男は転がったボールを追いかけていった。壁に当たって止まったそれを拾い上げると、長い髪を鬱陶しそうに払いながら振り向く。
「てめー、一年か」
「だったらどうだって言うんです」
 入学式には、新入生だけでなく在校生も全員参加が義務だったはずだ。テニスウエアに身を包んだ男の様子から、自分勝手に欠席したのだろうと推測される。そんな相手に払う敬意など、生憎持ち合わせてはいない。
 日吉をにらみつけていた視線が、ふと逸らされた。
「お前! それどーしたんだ!?」
 せっかく拾い上げたボールを投げ出し、男が駆け寄ってくる。痛いぐらいの力で右手をとられた。先ほどボールを払いのけた甲が、赤く染まっている。
「まさか、当たったのか?」
 急に不安そうな声を出し始めた男に、どうしてか胸がうずいた。あんたのせいだと口にしたら、目の前のこの顔は曇るのだろうか。試してみたい衝動にかられながらも、日吉は否定する。
「別に。大したことじゃない」
 払いのけたといっても、ボールの軌道をそらしたので赤くはなっているが大して衝撃があったわけではない。
「ばっか、怪我を甘くみんなよ!」
 怒鳴られて、呆気にとられた。自分でぶつけておいて、何を怒っているのだこの男は。
「……骨に異常はねえみてーだな」
 日吉の手を触りながら、それを確認していたらしい。念のため保健室へ行けと釘を刺し、男は身を翻した。
「あのさ、」
 背を向けたまま、何事か呟かれる。よく聞き取れなかったが、どうやらぶつけたことを謝られたらしい。
 どう返答すればよいかわからず、日吉は「はあ」
とだけ返した。


 当然のように前を歩く跡部について樺地宗弘が入ったのは、生徒会室だった。窓際に置かれた大きな机──恐らくは生徒会長である跡部の机であろう──に手をつき、跡部が振り返る。何も言わずに、樺地は扉を閉めた。
 今日の仕事は終わったのか、室内に他の役員の姿はない。手招きされ、窓際に立つ跡部に並ぶ。
「俺様はな、ここから眺める景色が好きなんだ」
 そう言った跡部の目がきらきらと輝いているように見え、ほんとうに好きなのだろうと思われた。
 窓から見える景色は、何の変哲もないグラウンドと、テニスコート。なんとなく跡部の言いたいことがわかって、樺地は小さく頷く。
 跡部はきっと、生徒会の仕事で部活に出られない日も、ここからコートを眺めているのだろう。コートに立つ、誰かの姿を。
「この眺めを、お前にも見せてやりたいと思ってたんだ」
 にやりと笑った跡部に、ウスと返事をする。満足そうに腰を下ろした跡部に、まったく不器用な人だと思った。
 ほんとうに伝えたいと思う相手は、きっと自分ではないはずなのに。


 早速仲良くなったクラスメートとともに校門へ向かっていた鳳は、植え込みのかげに誰かが倒れていることに気づいた。具合でも悪いのだろうか。心配になって、クラスメートの制止を振り切って駆け寄る。植え込みの向こうには、桜並木が広がっていた。急に開いた視界に一瞬気をとられたあと、鳳は倒れたままの少年へかがみこむ。
 同じ新入生だろうか、あどけない顔をした金髪の少年が、木の根元に倒れていた。特に具合が悪そうには見えなかったが、まだあたたかいとは言えないこの時期に放置しておくわけにもいかず、手を伸ばしてゆさぶる。
「……う〜ん」
 嫌そうに身体をよじられ、もしかして寝ているだけなのだろうかと目を丸くした。だが、このままでは風邪を引いてしまう。更に力を込めて引き起こすと、ようやく閉じられていた目が開く。ぼんやりとした目が鳳を捉え、きつく細められた。
「なに。昼寝の邪魔しないでよ」
 寝起きのためか、低音で唸るように言われる。人から邪険に扱われたことのない鳳は、反応できずに固まった。しばし無言の鳳を見上げたあと、ぱしっと手を払って少年は再び寝入ってしまう。
「あ、あの……」
「だからほっとけって言ったのに」
「その人はそーゆー人なんだよ」
「一個上のジロー先輩ってゆったら有名だぜ〜?」
「起きてるときはかわいいんだけど、寝てるとこ起こすと凶悪だからやめとけって」
 遠巻きに見守っていたクラスメイトに口々に言われ、どうやらジローなる人物は校内の有名人らしいと知った。
「そうなんだ……」
 促され立ち上がったあとも、でも風邪を引かないかなあと心配していると、お前ってお人よしなんだなと呆れられる。
 そういうわけじゃないんだけど。あんな風に敵意を向けられたのは、鳳にとって初めての経験だった。驚いたけれど、不思議と嫌な気はしない。ジローの、全体的に幼い雰囲気のせいだろうか。
 なんにせよ、ジローという人間のキャラクターは強く鳳の中に印象付けられたのだった。


 ふわりと、風に乗っていい香りがした。芥川慈郎は先ほどのように乱暴にではなく、自然と目を開く。なんのにおいだろう。まだはっきりとしない意識の中、そろりと身体を動かした。
「あれ、起こしちゃったかな」
 少しだけ低音で、でも優しい声音で囁くように笑われる。目を上げると、滝がにこりといつもの笑みを浮かべていた。
「あー、滝だ! おはよう〜!」
 ぱっと飛び起きると、滝がおかしそうに肩を揺らす。
「おはようジロー」
 微笑んで、滝はそばの木を見上げた。
「きれいな眺めだね」
「うん! 俺のとくとーせきっ」
「そう」
 校門まで続く桜並木は、この季節きれいに花を咲かせている。少し強めの風にあおられ、ピンクの花びらが舞い散った。
「きれい……」
「きれ〜だね。食べたら甘いかな?」
「どうかな」
 首をかしげた滝の長めの髪が揺れ、花びらが一枚舞い降りる。きれいだなあと、素直に思った。
「滝は似合うよね〜、桜とかさあ」
 名前が名前なためか、それとも家柄のせいなのか、滝には和風のものがよく似合う。思わず笑顔になると、それはどうもと滝が大げさにお辞儀をした。
「滝は桜を見に来たの?」
 今日は入学式に参加すれば後は帰っていいはずだ。この時間まで校内に残っている者は、もうほとんどいないだろう。
「うん。それと、ちょっと興味があって」
 ちらりと滝の目が校舎の向こうに向けられる。視線を追って、だめだよ、とジローは首を振った。
「邪魔したら、だめだよ」
「ぼくでもだめ?」
「滝でもだめ! 滝は大好きだけど、でもだめなの」
「そっかあ。じゃあやめとこうかな。ジローに嫌われたら哀しいもんね」
 肩をすくめて、でもさ、と滝がジローの前にかがみこんでくる。
「ほんとは、とっても惜しいんだけど」
 その目が悪戯っぽく笑っていたので、ジローも笑った。
「だあめ! 俺だってがまんしてるんだからねー」


 ラケットがすべることに気づき、宍戸亮はサーブの手を止めた。ベンチに戻ると、タオルで汗をぬぐう。
 入学式のため部活は休みだったが、宍戸はこれ幸いとコートを占領していた。普段は部員数が多いため、まだ準レギュラーにあがったばかりの宍戸がコートを使える時間は少ない。
「ったく、ジローはどこ行ったんだ」
 同じく入学式に出席しても寝ているだけであろうジローもついてきていたのだが、途中で眠くなったとどこかへ行ってしまったのだ。
 壁うちに飽き、サーブの練習に切り替えたところだった。 「あーくそ、忍足でも誘えばよかった」
 せっかくコートが使えるのに、一人で練習していては勿体無いような気がするのだ。それでも時間を無駄にすることはできず、ボールを手にふたたびコートへと戻る。
 打ち込んだサーブは、そのまま壁まで跳ね上がるはずだった。  返るはずのないボールが、飛び込んできた男によって打ち返される。とっさに反応できず、宍戸はその場で固まった。
「0−15」
 コートに響いた声に、我に返る。
 ネットの向こうで、ラケットを構えた跡部が無表情にこちらを見ていた。
「てめっ、跡部! なんだよいきなり……」
「悪かったな」
「へ?」
 素直に謝罪され、宍戸は面食らう。跡部が、目つきを鋭くした。
「忍足じゃなくてよ」
「なっ、」
 どうやら跡部は、さきほどの呟きを聞いていたらしい。そして、拗ねているようだ。
「……お前なあ、はははははは」
「何がおかしい」
 跡部にすごまれても、宍戸の笑い声は止まりそうにない。
 笑いながら、そういえば去年も二人でここへ来たことを思い出した。


 退屈だった入学式が終わり、はやる気持ちのまま宍戸はテニスコートを目指していた。
「ガキじゃねえんだから、そんなに慌てるなよ」
「うっせー! 嫌ならついてくんな」
 文句を言いながらもついてくる跡部を振り返らずに、怒鳴って宍戸は走る。目の前に広がったテニスコートは、無人なためか見学で目にしたものよりも広く映った。
 どきどきと胸を高鳴らせながら、コートまで降りていく。中等部は、幼稚舎のクラブと違い、本格的なテニスを教えてくれると聞いていた。見学のときは立ち入らせて貰えなかったコートに立って、宍戸は有頂天になる。
「すげー! ここが、あの氷帝のコート!」
 何度も夢に見た、憧れのコートに自分は立っているのだ。興奮して駆け回っていると、背後から冷たい声がかけられた。
「てめえは、それで満足なのか?」
「あ?」
 振り向くと、跡部が腕を組んだままこちらを見ている。感情の浮かんでいない端正な顔は、怖いぐらいにきれいだった。
 何も言わないまま、跡部はじっと振り向いた宍戸へ目を向けてくる。その目が何かを訴えているようで、読み取ろうと宍戸も黙って跡部を見つめた。
 しばらく無言の時間が続き、不意に跡部が口の端を上げる。俺様は、と形のいい唇が動くのを見つめた。
「俺様は、こんなもんじゃ満足しねえ。もっと上を目指すぜ」
 先ほどの言葉の続きなのだとわかった。そして、跡部の目が語っていた。「お前も、ついてくるだろう?」
と。  わかって、宍戸も笑みを浮かべる。
「ばーか。誰がついてくかよ」
「なんだと」
 顔色を変えた跡部に、指先を突きつけてやった。
「てめーなんか、俺の踏み台だ。誰が追っかけてやるもんか。俺は、てめーよりももっともっと上へいくぜ」
 現状の力の差を考えれば、無謀だといわざるを得ない宍戸の宣言に、だが跡部は相好を崩す。
「そうかよ。まあ、せいぜい足掻くんだな」
 楽しそうに笑う跡部に、なんだかこちらまで嬉しくなった。


 あの日と同じ場所に立って、お互いに見える景色は同じものなのだろうか。──少なくとも、跡部に見えているものは違うはずだと宍戸は思った。跡部は、入部してすぐに一年のなかで唯一正レギュラーを勝ち取ったのだ。
 だが、当然のことだと言う跡部が、あの日ほど嬉しそうには見えなかったのは、自分のうぬぼれだろうか。
「お前は、それで満足なのかよ」
 耳に届いた声に、一瞬一年前に戻ったのかと思った。跡部が、あの時と同じ感情のない顔でこちらを見ている。
 秋に先輩が引退して、ようやく宍戸は準レギュラーにあがることができた。だが、宍戸の目標はそんなところにはない。それは、跡部もよく知っているはずだった。
「んなわけねーだろ」
 答えた声が、低く掠れる。跡部の目が、満足そうな色を浮かべた。
「そーかよ」
 跡部が、ポケットから新しいボールを取り出す。ため息が出そうなほどきれいなフォームで、サーブを打ち込んできた。慌てて追いかけて打ち返す。
「俺様もだ」
 まだ満足していないと、跡部の目が語っていた。
 それは、もしかするとテニスのことだけではないのかも知れない。なぜか、そんな気がした。


【完】

2005 11/27 あとがき