38:奇跡(鳳と宍戸)


 想いを寄せるあの人が、いつか自分を好きになってくれること。
 それを奇跡と呼んだら、人は笑うだろうか。


 部活が終わっても、鳳はいちばん端のコートに残っていた。壁打ちをしながら、ある人の到来を待つ。程なく、足音が聞こえてきた。
 鳳が顔を上げると、向こうも気づいて手をあげた。その顔に微かに笑みが浮かんでいることに気づき、鳳も顔をほころばせる。
「こんばんは宍戸さん!」
「よお。元気いいな、練習の後だってのに」
 宍戸さんに会えましたからとは言えず、鳳は笑って誤魔化した。宍戸も気にしていないようで、何も言わずにベンチに荷物を降ろした。
 関東大会が終わり、三年生は引退した。だが宍戸は、部活が終わる時間になるとコートへやってくるようになった。相変わらずコントロールの悪い鳳の練習につき合ってくれているのだ。
「すいません、毎日のようにつきあわせちゃって」
「いいって。俺の練習でもあるんだし」
 ずっとラケットに触らないでいると鈍っちまうからなと言って、宍戸はラケットを取り出した。振り返って鳳と視線が合うと、始めようとコートに入っていく。
 宍戸は気づかなかったようだが、宍戸が振り向く前からずっと、鳳は背中を見つめていたのだ。──いや、もっと前から。きっと、初めて鳳が宍戸亮という人間を認識した瞬間から、ずっと。鳳は、宍戸を見つめ続けてきた。宍戸はちっとも気づかなかったし、きっとこの先も気づくことはないのだろう。
 自分が行動を起こさない限り、気持ちに気づいてもらうことなどできないだろう。それはわかっていた。けれど、鳳には何も口にすることができなかった。
 どちらかというとあまり社交的ではない宍戸に、ここまで心を開いてもらうだけでもかなりの時間を要したのだ。ここから更に発展させるには、どれだけの年月が必要になることか。それに、せっかくいい後輩というポジションにいられるようになったのに、それを自ら壊すことは恐ろしかった。
 告白したからといって、受け入れてもらえる可能性は、ほとんどないと言っていいだろう。
 自分たちは男同士で、たとえば自分が女の子のように愛らしい外見だったら、まだ可能性はあったかも知れない。けれど、鳳は宍戸より十センチ以上高い大男なのだ。そんな男に告白され、喜ぶ男はいないだろう。
 コントロールを見てもらいながら打ち合いをし、二時間ほど経ったところで休憩になった。
 隣に腰掛け、鳳は汗を拭う宍戸を盗み見る。すっかり短くなってしまった髪は、宍戸が男であると主張しているように感じられた。それでも、これほど自分の心を捕らえて離さないものは、なんなのだろう。どこがそれほど好きなのかと聞かれても、明確な答えは見つからなかった。
 何となく会話が途切れ、二人の呼吸だけが辺りに響いた。不意に訪れた沈黙に、鳳は居心地の悪さを感じる。
 宍戸は意に介さない様子で、脱いだ帽子を抱えて前を見ていた。何を見ているのか気になって鳳もそれに倣ったが、目の前に広がるのはテニスコートだけだった。
 宍戸は、一体何を見ているのだろう。これだけ近くにいるのに、そんなことすらわからないことが、もどかしくてたまらない。かなしくて、たまらなかった。
 自分が隣にいることも忘れていそうな宍戸に振り向いてほしくて、鳳は口を開く。
「宍戸さん」
「……ん?」
 ワンテンポ遅れて向けられた視線に、鳳は一瞬たじろいだ。何を言おうとしたのか忘れて、言葉に詰まる。それでも何か言わなくてはと咄嗟に口にしたのは、こんな言葉だった。
「奇跡って、あると思いますか?」
 言ってからしまったと思った。こんなことを聞いて、どうしようと言うのか。リアリストの宍戸には、鼻で笑われるのがオチだというのに。
 それでも、宍戸は少し首をかしげただけで、笑うことはなかった。
「どうかな。どっかには、あるんじゃねえ? 宝くじが当たるとか、奇跡みてえなもんだけど、誰かは当たるわけだし」
「……はあ」
 適当に流されなかったのはよかったものの、まさかお金の話をされるとは。
 なんだか自分の宍戸への想いを汚されたような気がして、鳳は内心不愉快になった。自分でも勝手だとは思うが、仕方がなかった。
「奇跡ってのは、それを願ってる奴のとこには起きないと思う」
 宍戸が、ぽつりと漏らした。
「むしろ、自分で引き寄せるぐらいに思ってねえと、起きねえんじゃねえの」
 よくわかんねえけど、と言って宍戸は首を振った。
 もしかして、宍戸は自分の気持ちに気づいていて、そのうえで牽制しているのではないだろうか。そんなはずはないのに、そんな考えまで浮かんでくる。
 そのぐらい、鳳は宍戸の言葉に動揺していた。
 ただ待っているだけでは駄目だと、宍戸は言う。何も告げずに、宍戸が気づいてくれるのを待っているだけの自分を責められているようで、つらかった。
 宍戸は顔を上げると、鳳を見て笑った。
「なにお前、奇跡が起きたらいいって思ってんの?」
「……宍戸さんは、そんな風に思ったり、しませんか……?」
 痛む胸をおさえて、鳳はそう訊ねた。宍戸も、奇跡でも起きない限り叶うことのない願いを、抱いていたりするのだろうか。
 鳳の問いかけに、宍戸は考え込む仕草をした。その目が先ほどと同じ場所を見ていることに気づいて、視線を辿る。
「俺は……、勝ちたい、かな」
 さっきはわからなかった視線の先が、鳳には見えたような気がした。
 宍戸が見ているのは、きっと。誰よりも強く、誰よりも気高いあの人の幻。


 自分は、宍戸に自分を好きになってもらうことが奇跡だと思う。
 宍戸は、あの人に勝つことが奇跡だと言う。
 自分が宍戸を想う気持ちと同じぐらい、宍戸はあの人にこだわっているのだ。


「けど、俺は奇跡なんか待たねえ。いつか、なんて言わねえよ。必ず、あいつに勝ってみせる」
「……はい」
「見てろよ、長太郎」
「はいっ」


 返事をしながら、鳳は泣きたくてたまらなかった。
 胸の内で、宍戸に問いかける。
 それでもまだ、奇跡を信じていても、いいでしょうか。
 いつか起こることを、願っていてもゆるされるでしょうか。


 返事は、なかった。


 【完】



2004 07/12 あとがき