30:忘れ物(滝と宍戸)
階段を上り一番上の階までたどり着くと、滝は廊下の窓から差し込む橙色の光に目を引かれた。
あと少しで太陽が沈み、辺りは暗くなってしまうのだろう。
そう考えると、なんだかとても淋しい気持ちになる。
滝はそのまま足を止め、暫し夕陽に見入った。
幾人かの生徒が通り過ぎていく足音に、ようやく目的を思い出す。
自分は、忘れ物を取りに来たのだ。
滝は、廊下の突き当たりにある教室を目指し、再び歩き始めた。
下校時刻はとっくに過ぎている。
誰もいないだろうと思われた教室には、だがとある生徒の姿があった。
電気のついていない教室で、一番後ろの机に行儀悪く腰掛けながら窓の外を見ているのは、滝の良く知っている相手だ。
「宍戸?」
滝の声に、宍戸は驚いた様子で振り向く。
「滝?」
「なにしてるの」
「お前こそ、珍しいじゃねえか。こんなとこまで来るなんてよ」
宍戸が、軽く笑いながら言った。
最上階の突き当たりの教室は、宍戸のクラスである。
だから、何故こんなに遅くまで残っているのかは別として、宍戸がいること自体は何らおかしいことではない。
むしろ、教室の離れている滝がこんな時間にやってきたことのほうが、不思議だと言えるだろう。
宍戸が驚くのも、無理はなかった。
「ぼくは、忘れ物を、ね」
「忘れ物? うちのクラスに?」
宍戸がきょとんとした顔をするので、滝はなんだかおかしくなってくすりと笑みを漏らす。
「……なんだよ」
「別に? ジローにね、貸してたんだ」
それだけ言うと、滝はとある机から自分のノートを取り出してみせる。
あらかじめ聞いておいたその机は、宍戸のクラスメートである忍足の机であった。
「……ジローに貸したノートが、なんで忍足の机にあるんだ?」
宍戸の至極まっとうな質問に、滝は笑顔で答える。
「ジローがね、ノートを持ったままここに遊びに来て、そのまま置いてっちゃったんだって」
「あいつは。ったく、仕方ねえな」
「ねえ。でも、ジローらしいよね?」
「だな」
宍戸が、くくっと喉の奥で笑い声を漏らした。
滝の位置からは、逆光で宍戸の表情がよく見えない。
どんな顔で笑っているのだろう。
気になって、滝は宍戸の元へ歩み寄った。
「……滝?」
けれど、近づいたときには既に宍戸の笑顔は引っ込められてしまっていて。
なんだか不安そうな表情で、滝の顔を見上げてくるばかりだった。
「ねえ、宍戸」
「な、んだよ?」
宍戸の、意外と大きな瞳に怯えの色が見え、滝は少しだけ愉快な気分になる。
宍戸が、自分を蹴落とす形でレギュラーに戻ったことを気にしていることは、滝も気づいていた。
そのせいで、宍戸が無意識に自分を避けていることにも。
滝は、それを淋しいと感じた。
それから、少しだけ嬉しいとも思った。
追いつめられた子猫のような態度で、それでも宍戸は滝から視線を逸らそうとはしなかった。
いつもそうだ。宍戸は、どんな窮地に陥ったときだって、決して逃げたり、誰かに助けを求めたりはしない。
一生懸命、自分の足で踏ん張って立っているのだ。
「もう、髪伸ばさないの?」
「あ? あー。別に、好きで伸ばしてたんじゃねえし」
「ふーん」
滝の口にした話題がテニスのことではなかったことに、宍戸はあからさまにほっとして見せた。
正直というか嘘をつけないというか、……微笑ましいっていうべきかな。
「髪、さわってもいい?」
宍戸が返事をする前に、滝は素早く頭へ手を伸ばす。
切りたての頃より長くなったそれは、それでもまだ触るとちくちくして痛かった。
ざらつく感触が心地よくて、滝は宍戸の頭を撫で回す。
手のひらの下で、宍戸が居心地悪そうにもぞもぞと動いていることに気づいて、滝は手を引っ込めた。
ようやく終わったのかと上げられた宍戸の顔に、滝は瞬間目を奪われる。
微かに和んだ目元に惹かれるように、そっと唇を落とした。
「……なっ、なにすんだよ!」
「なにって、キス?」
「そうじゃなくって、」
それ以上言葉が出てこないのか、宍戸は顔を真っ赤にして俯く。
耳まで赤いように見えるのは、決して夕陽のせいだけではないのだろう。
背中を丸くして顔を背ける宍戸が、なんだかとても愛おしいもののように感じられる。
護ってあげたい、なんて柄じゃないんだけど。
宍戸だって、そんなことを望んだりはしないだろうけれど。
滝は、ぼんやりとそんなことを考えながら、呟いた。
「キス、しちゃったね」
「お、お前なあ!」
滝の言葉に、宍戸が勢いよく顔を上げる。
「どーゆーつもりなんだよ?」
「うーん?」
「おい……」
「なんか、してみたくなったんだよね」
滝がそう言うと、宍戸は一瞬ぽかんと口を開け、それから脱力してみせた。
「もっかい、してみる?」
そう尋ねたところで、がらりと後ろの扉が開く音がして、跡部が入ってきた。
滝がいることに気づき、跡部は訝しげな視線を向けてくる。
相変わらずの態度に、滝はこっそりと苦笑した。
「待ち合わせ?」
問いかけると、宍戸は頷きながら立ち上がる。
カバンを背負い、跡部の隣に並んだ。
「滝、帰らねえの?」
「うん。せっかく最上階まで来たから、もう少し外を眺めていくよ」
「ふーん」
じゃあなと踵を返しかけ、宍戸は立ち止まる。
「ジローに、ゆっとくよ」
「え?」
「ノート、借りたまま置いてくんじゃねえよって」
「ああ……」
ありがとう、と礼を言いながら、滝は夕陽を見たときのように、いや、それ以上にどうしようもなく淋しい気持ちになった。
跡部と宍戸とジローは、幼なじみだから。
自分の立ち入ることの出来ない場所に、ずっと三人でいるのだ。
ひどく胸が痛んで、滝は咄嗟に去りゆく背中に声をかける。
「宍戸! ……また、しようね?」
「あ? ……な、なに言って……!」
何を思ったのか、宍戸が頬を染めた。
「テニス、しようね?」
「あ、ああ! テニスね、テニス! ああ、いつでも受けてたってやるぜ?」
誇らしげに腕をあげながら、宍戸は扉の向こうに消える。
何かあったのかと訊く跡部に、なんでもねえと言い返す声が聞こえた。
だんだん遠ざかっていく足音に耳を澄ませながら、ああ、と滝は思う。
どうしてあんなに淋しく思ったのか。
どうしてあれほど、胸を痛めたのか。
その理由が、わかったような気がした。
そうか、ぼくはきっと。
宍戸に、恋をしているのだ。
【完】