70:ポニーテール(滝と宍戸)


「綺麗な髪だね」
 唐突にかけられた声に、宍戸は不機嫌になった。
 親の言いつけで伸ばしていたそれが、男である自分には不似合いだとわかりきっていたので、一体何の嫌味かと、そう思ったのだ。だが、振り返った宍戸の目に飛び込んできたものは自分を嘲笑う顔ではなく、うっとりと自分の髪を眺める穏やかな表情。相手の口元に浮かんだ笑みに、宍戸は言おうとしていた言葉を飲み込んだ。
 宍戸が驚いた顔で見つめていると、相手はようやく髪から視線を移して宍戸を見た。その拍子に、相手の長目の髪がふわりと揺れる。男なのに、よく似合っている。そう思った自分に、宍戸はまた驚いた。
「ぼく、滝萩之介。君は?」
 それが、滝との出会いだった。


「あ〜あ」
「……なんだよ」
 滝の何度目かのため息に、宍戸は何となく見当がついたものの、そう問いかける。滝は面白くなさそうに宍戸を見つめ、再び大きく息を吐いた。
「宍戸の髪、せっかく大事にしてたのに」
「大事にしてたのは、てめーだろ」
 宍戸が滝と出会ってからというもの、髪の手入れについてあれこれ口出しをされてきた。やれシャンプーはあれがお勧めだの、リンスじゃなくてトリートメントやコンディショナーを使えだの、ちゃんと乾かしてから寝ろだの、少しでも言いつけに背けば、ちくちくと遠回しに嫌味を言われる。それがまた、上手い具合に宍戸の良心に訴えるような言い回しをしてくるのだ。お陰で神経をすり減らした宍戸は、いつしか滝に言われるがまま行動するようになっていた。
 そんな、宍戸の懸命の努力と、滝の助言によって保たれていた宍戸の美しい髪が、先日の一件で失われてしまった。レギュラー復帰の際、滝を蹴落とす形になった宍戸としては、あまり強くでられずにいる。それをいいことに、滝は毎日しつこく責めてくるのだ。
 まだ、テニスのことで言われるのなら耐えられた。滝が再戦を望むなら、受けて立つつもりでいた。だが、滝の口から出る言葉は、宍戸の髪に関してばかりだった。
「お前なあ、いい加減にしろよ」
「何。宍戸、怒ってんの? へえ、怒る権利があると思ってるんだ?」
「……だから、髪は、別に好きで伸ばしてた訳じゃねえし、その……」
 滝の強い視線に、宍戸はもごもごと口の中で呟いた。チクショウ、どうして俺は滝に弱いんだ。何故か昔から、テニス以外で滝に勝てた試しがない。俯いた宍戸の手を、滝の手が捕らえた。
「……滝?」
「宍戸が嫌いでも、ぼくは好きだったんだ」
 ぎゅっと、握られた手に力が込められる。宍戸が顔を上げると、滝の顔にいつもの笑みはなく、今にも泣きそうなぐらい歪められていた。
「ぼくは、好きだったんだよ……」
 滝は空いている方の手を宍戸に向かって伸ばすと、そっと何もない空間を撫でるように動かした。今はもう、そこにはない髪を、慈しむかのように。それから、滝は両手で宍戸にしがみついてきた。この細腕のどこにそんな力があるのか、痛いぐらいに掴まれ、宍戸は息苦しさに咳き込む。それでもまだ抱きついたままの滝の背に手を回し、さすってやった。その身体が微かに震えていることに気づいて、宍戸はやりきれない想いで口を開いた。
「また、伸ばすから」
「……」
「もう、勝手に切ったりしない」
「……」
「めんどくせーけど、ちゃんと手入れもするし。だから、……」
 それ以上何を言えばいいのかわからず、宍戸は言葉を切った。滝の身体が、ひときわ大きく震えた。小刻みに揺れる身体に、宍戸は滝が泣いているのだと、そう思った。
「……ほんとだね……?」
「あ、ああ」
 宍戸が、ようやく喋った滝に安堵していると、滝はするりと宍戸の腕を抜け出した。その顔に浮かんでいたのは、予想通りの涙ではなく、満面の笑み。
「ふふっ。絶対だからね! 嘘ついたら、ひどいよ?」
 少しして、宍戸は我に返った。もしかして、今の、滝の殊勝な態度は、自分にもう一度髪を伸ばすと言わせるための、演技……? そう思い当たって、宍戸は怒りに肩を震わせた。
「滝、てめえ! 今のは撤回だ! 冗談じゃねえ!!」
「へ〜え。宍戸ともあろうものが、そんな男らしくないこと言うんだ? 自分から口にしたことを、なかったことにしたいって? 宍戸ってば、そんなに器の小さい男なんだ」
「なっ、そ、それはっ」
「また結べるぐらい、綺麗に伸ばしてよねっ」
 そう言って鮮やかな笑顔を見せる滝に、宍戸はやれやれと肩をすくめた。ほんとうに、どうして自分はこうも滝に弱いのだろう。その答えは、知らない振りをしていただけで、とうにわかりきっていたこと。


 だって、滝が好きだって言ってくれるなら、伸ばしてもいいかなって思ったんだ。
 滝に言うつもりはねえけど、きっとこいつのことだから、言わなくてもわかってるんだろうなあ。


 嬉しそうに笑う滝に、宍戸も笑みを返した。



 【完】



2003 12/23 あとがき