あなたを好きでよかった(ジローと忍足)


「ジロー」
 不意にかかった声に、ジローは机の上に伏せていた顔を上げた。
 声の主は、幼なじみである宍戸亮。
 宍戸が、ジローの教室まで訪ねてくるなど滅多にないことなので、ジローはにこーっと笑みを浮かべる。
 つられたように、宍戸が微笑んだ。
「お前、跡ついてんぞ」
「え〜?」
 どうやら、突っ伏して寝ていたせいで、教科書の跡がついてしまったらしい。
 宍戸の手が、ジローの頬を撫でた。
 ジローは、誤魔化すようにもう一度笑うと、
「亮ちゃん、どうしたの? 何かご用?」
と首を傾げてみせる。
 宍戸は、少し困ったような顔になると、あーと言いながら視線を彷徨わせた。
 どうしたんだろう、なにかあったのかなあ?
 理由が思い当たらず、ジローは更に首を傾ける。
「あーっと、あの、うーん」
「亮ちゃん?」
「なに言い淀んでやがる。そのぐらいの使いもできねえのか、てめえは」
「跡部!」
 いつの間に来たのか、跡部が宍戸の後ろに立っていた。
 宍戸はムッとした顔をすると、跡部に食ってかかる。
「っせ! 俺は、てめえと違って色々気を遣うんだよ!」
「はっ。言ってろ、ばーか」
 そのまま口げんかに突入してしまった二人に、ジローはなんだかおかしくなって、声をあげて笑った。
 途端に、二人が真顔で振り返る。
「「なに、笑ってんだよ!」」
 声を揃えて言う二人に、ジローは更に大声を上げて笑った。
 なんて楽しくて、なんて嬉しいんだろう。
 ジローは、幼なじみである二人が大好きで、二人が仲良くしているところを見るのが、とても好きだった。
 喧嘩する程仲がいいって、きっとこの二人のためにある言葉だ。
 笑い続けるジローに毒気を抜かれたのか、二人は喧嘩をやめる。
「来週、お前、誕生日だろ?」
「いつも通りでいいのか、聞いてこいっつったんだ。このあほに」
「誰があほだ!」
 誕生日、という単語に、ジローはそういえば、と思う。
 そういえば、週末から始まる連休の最終日は、自分の誕生日だった。
 決まり事という訳ではないが、三人のうち誰かの誕生日には、毎年三人で集まって祝うという習慣があった。
 大抵は一番広い跡部の家へ集まって、飲み食いして騒いだり、テニスをするようになってからは、庭のテニスコートで試合をしたりして過ごすようになった。
 三人にとっては、当たり前の行事。ジローは、迷わず頷いた。
 そのとき、ジローは浮かれていて気づけずにいたのだ。
 頷いたジローを見て、宍戸が複雑そうな顔をした理由に。
 跡部が、呆れたようにため息をついた訳に。
 これっぽっちも、気づかなかった。
 全く、考えもしなかったのだ。


「忍足忍足、俺今日家から肉かっぱらってきた! 肉食べよう、肉!」
「ジロちゃんは、お肉すっきやねんなー」
 放課後、ジローはいつものように忍足の教室を訪ねた。
 同じクラスの宍戸は、先に帰ったらしい、姿が見えなかった。
 帰る支度をする忍足に抱きつきながら、ジローは持っていた肉の入った袋を振り回す。
「最近暑いからな。肉、いたんでへんか?」
「だいじょぶ! 職員室の冷蔵庫借りたもんね〜!」
 部室の冷蔵庫でも良かったが、そこまで行くのが面倒だったので、職員室に忍び込んだのだ。
 まあ、見つかったところで何とでも言い訳は出来たのだが。
 ジローは、愛嬌のあるキャラクターのお陰か、すこぶる教師受けの良い生徒だったので。
「ジロちゃんは、お得な子やからな。でも、あんまりおうちから持ってきたらあかんで? おうちの人、困るやろ」
「だいじょぶ! お兄ちゃんに、帰りお肉買ってきてってお願いしてきたから〜」
 ジローの兄は、歳が離れているせいか弟には大分甘かった。
 そのことを知っている忍足は、兄貴も大変やなあと苦笑する。
 それから、カバンを持って立ち上がると、そうや、と言った。
「なあに? 忍足」
「ジロちゃん、そないお肉好きなんやったら、誕生日には神戸牛でも実家から送ってもらおか?」
 忍足自身は仕送り生活のため節約を強いられていたが、実家は跡部並みとはいかなくとも、それなりに裕福だった。
 そう言って振り返った忍足に、ジローは、えっ、と足を止める。
「……ジロちゃん?」
 どうしよう、考えていなかった。
 誕生日を、忍足が祝ってくれるだなんて。
 考えてみたら、自分と忍足は恋人同士な訳で。
 それも、なかば自分が力ずくで恋人関係に持ち込んだようなものだというのに。
 誕生日を、他の人たちと過ごすだなんて。
 いくら忍足でも、……怒る、だろうか。
 ジローは、未だかつて忍足を怒らせたことがなかった。
 忍足はいつも優しく、ジローが何をしても笑って赦してくれた。
 ううん、怒らせるなら、まだいい。
 傷つけてしまう、かも知れない。
 優しい忍足を、大好きな忍足を。
 哀しませてしまうのが、他ならぬ自分自身だなんて。
 ああそうか、だからあのとき。
 宍戸は、複雑そうな顔をしていたのだ。
 跡部は、呆れてため息を吐いたのだ。
 全く考えなしに、頷いてしまった自分に対して。
 いつも通りでいいのかという、あの質問は。
 暗に、今年は忍足と過ごすんじゃないのかと、そう問いかけていたのだ。
 わざわざ気を遣って聞きに来てくれた二人に、今更断るだなんて。
 ジローには、出来そうになかった。


 いつもの、帰り道。
 学校近くの、忍足の暮らすアパートまでの道。
 楽しいはずのそれは、今のジローには苦痛でしかなかった。
 なんて、言えばいいんだろう。
 なんて言ったら、忍足は笑ってくれるだろう。
 忍足を、哀しませずにすむのだろう。
 ぐるぐるぐるぐる、頭の中をまわる考え。
 少しだけ前を歩く忍足の背中に、ジローは無性に飛びつきたくなった。
 いつもいつも、何かあったときは忍足に聞いてもらっていた。
 忍足に飛びついて、話を聞いて貰って、よしよしって頭を撫でて貰うのだ。
 そうすれば、ジローは心が軽くなるのだ。
 それだけで、ジローは幸せなのだ。
 でも今は、それができない。
 どうすればいいのかなんて、一人で考えたって絶対わかりっこない。
 それでも、ジローは一人で考えなければならなかった。
 ジロー一人で、答えを出さなければならなかった。
 だってこれは、自分と忍足のことだから。
 大切な忍足のことだから、自分で決めなくちゃいけないんだ。
「お、忍足っ」
「ん? なんやジロちゃん、泣きそうな顔になっとるで?」
 どれ、と手を伸ばしてきた忍足に、ジローは涙ぐみそうになる。
 いつだって、忍足は自分のことを想ってくれているのだ。
 絶対絶対、傷つけたりなんか、したくなかったのに。
「俺、俺ね、忍足。誕生日の、ことなんだけど……っ」
「ああ。せやなあ、どうしよっか?」
 にこにこと、自分のことのように嬉しそうに笑う忍足に、ジローはきゅう、と胸が苦しくなる。
「当日は、予約入っとんねやろ? せやったら、うーん。次の日はがっこあるしなあ。あ、どうせやったら、連休初日から泊まりくるか? 前祝いってことで」
「……へっ?」
 ぽかんと、間抜けな顔で口を開けるジローに、忍足はなんでもない口調で言った。
「やってジロちゃん、ゆうとったもんな? 毎年お誕生日は、跡部んちで三人でお祝いすんねやって。今年も、そうなんやろ?」
「えっ」
 そういえば、言ったことがあったような気もする。
 でも、だからといって、今年もそうだなんて、誰が思うだろう?
「忍足は、それで、いいの?」
「へっ?」
 今度は、忍足が目を丸くする番だった。
「それで、って。やってなあ、それがジロちゃんやろ? 俺は、跡部と宍戸が大好きなジロちゃんが、好きやねんで。たくさん大切なものがあるジロちゃんやから、好きなんやで?」
「忍足……」
 やわらかい笑みを浮かべる忍足に、ジローは先ほどまでとは違う意味で胸が苦しくなる。
 なにも言えず、そのまま忍足にしがみついた。
「ジロちゃん? どないしたん? なあ、もちょっとでおうち着くし、あの、ここ、道ばたやし、皆見とるし、なあ。……ま、ええか」
 何やら言っていた忍足の言葉がやみ、ジローの背に手が回される。
 ジローは、とてもしあわせだと思った。



 なんて、なんてしあわせなのだろう。
 この人を、好きになって良かった。
 この人を、好きでよかった。



 心から、そう思った。



 【完】



 ジローへ、愛を込めて。



2004 05/03 あとがき