10:教室(ジローと忍足)


「忍足!」
 背後からかかった声に、忍足はなんだか嫌な予感がした。
 聞こえなかった振りをしようかとも思ったが、そんなことをしたら後で何をされるかわかったものではない。
 忍足は、神妙な面もちで振り返る。
 予想通り、そこには険しい顔つきの跡部が立っていた。


「それで〜?」
 まだ寝たりないのか、ジローが寝ぼけた声でそう聞いてくる。
 忍足は、ため息を吐きながら手元の書類を整えた。
「それで、や」
「はあ、それで、これ」
 ジローは、やはり寝ぼけ眼のまま忍足が揃えた書類に目を落とす。
 黙って見つめた後、ぽんぽんとその上を叩いた。
「ああ! せっかく綺麗に揃えてん、触らんといて」
 几帳面な忍足は、少しでも束がずれることを嫌がって、ジローの手を遠ざける。それから、二回目のため息を吐いた。
 ジローは、そんな忍足と、机の上の書類を交互に見つめる。
「あは、跡部に押しつけられたんだ〜?」
「せや。明日までにまとめてこいやって! 俺部長でもなんでもない、ただの平部員やのに〜」
 忍足がさめざめと泣く真似をしてみせると、ジローは楽しそうに笑った。
 その、花がほころんだような笑顔を、忍足は内心うらやんだ。
 ジローは、宍戸と同じく跡部の幼なじみで、大切な友人として扱われている。
 だから決して、自分のように無理難題を押しつけられたりはしないのだ。
 別に忍足は、跡部に好かれたいと思っているわけではない。
 あの跡部に優しく微笑まれたりしようものなら、あまりの気色悪さに卒倒してしまうかもしれない。
 ただ。
 ただ、友人としてとまではいかなくとも、同じ道を志すものとして、同じテニス部員として、対等に扱って貰いたいと思っていた。
 跡部は、ほとんど全てのものに対して、傲慢である。己に絶対の自信を持っているから、それが自然と立ち居振る舞いに現れるのだ。
 だが、他者に対するそれと、忍足に対するそれとでは、全く違う性質のものであるように感じられる。
 少なくとも、忍足にとっては。
 跡部は、忍足以外のものに対して、特別つらくあたったりはしない。(跡部の焦がれる相手に手を出すような輩は別として)
 忍足は、何故跡部が自分に対してのみ冷たい態度をとるのか、その理由が知りたかった。
 だが、本人に直接聞ける筈もなく、今でも原因不明のまま、忍足は跡部から冷たくされている。
「はー。なんで俺ばっかり……」
「あー。忍足、りゆうわかんないんだ?」
「え?」
 ジローの言葉に、忍足は目を丸くした。
 今目の前にいるこの人は、何でもお見通しという顔で微笑んでいる。
 ジローには、理由がわかるというのだろうか。
 ジローなら、わかるのかも知れない。
 だって、ジローだから。
 そんな理由にもならない理由で納得し、忍足は問いかけた。
「ジロちゃん、理由知ってるん? 俺に教えてくれへん?」
「いいよ〜。でも、俺がゆったって内緒だよ?」
 悪戯めいた笑みを浮かべると、ジローは忍足の耳元へ口を寄せる。
 一体何を言われるのだろう。
 緊張に身体を強ばらせる忍足の耳に、全くもって予想外の言葉が届いた。
「跡部はね、忍足が怖いんだよ」
「……はあ!?」
 怖い? 跡部が? 俺を? どうして?
 忍足は、驚きのあまり口をぽかんと開ける。
 そんな忍足を、ジローは嬉しそうに笑いながら見つめた。
「跡部はねえ、絶対口には出さないけど、忍足のこと怖がってるの。だってね、忍足だけなんだよ」
「な、なにが?」
 自分は一体何をしでかしてしまったのだろうかと、忍足は胸に手を当てて考える。
 だが、答えは見つからなかった。
「跡部以外で、忍足だけなの。亮ちゃんの心を射止められるのは」
「……宍戸の?」
 またもや予想外の名前が飛び出し、忍足は更に目を見開く。
「忍足にその気はなくっても、跡部はね、そう思ってるんだよ。もし、もしも、亮ちゃんが自分以外の誰かを好きになるとしたら、それは忍足しかいないって。だから、跡部は忍足に冷たいの。怖いから、そばに寄りたくないって思ってるの。おっかしいよね〜」
「俺が、宍戸を?」
「うん」
 跡部が、自分を恐れている。大切な思い人を奪われるかもしれない脅威として、自分を遠ざけている。
 それは、つまり。
「ってことは、俺は跡部に嫌われとるんやなくて……」
「忍足は凄い奴だって思われてるんだよ、跡部に」
 つまり自分は、跡部に認められているのだ。跡部と、肩を並べられるぐらいの人間として。
 だから、わざと冷たい態度を取って、遠ざけている。跡部自身から、常に跡部の傍らにいる存在から。
「そう、やったんか」
 あまりのことに、忍足は何とも言えない不思議な高揚感に包まれていた。
 ある意味、感動していると言ってもよいのかも知れない。
 そんな気持ちのまま、忍足はジローに向き直る。


 ジローは、微笑んだままこう続けた。
「跡部、意外とかわいいとこあるよね」
「……ジロちゃんは、やっぱり大物やわ」
 忍足は、しみじみとした口調でそう呟いた。



 【完】



2004 02/15 あとがき