11:誕生日(ジローと忍足)


 こんな話は、聞いていない。
 忍足は、立っているだけで汗ばむような陽気に、目の前に広がる光景をにらみ付けた。
 まだ五月だというのに、この暑さはなんだ。連休中だというのに、なぜ部活に出なくてはならないのか。
 確か去年の連休は、テニス部も休みだったはずだ。死んだように寝て過ごした覚えがあるから、間違いない。
 なぜ今年は、連休中も欠かさず練習があるのだろう。連休最終日になってようやく、忍足は疑問を抱いた。
「きゃ〜! お、し、た、り〜!」
 突き飛ばしそうな勢いで、背後からジローが飛びついてくる。なんとか踏みとどまり、忍足はからみついてきた腕を叩いた。
「ジロちゃん、暑い」
 不機嫌さを隠さずに言うと、ジローがますます強く抱きついてくる。
「ジロー」
 暑さだけでなく痛みまでともない、忍足の声は自然低くなった。ジローが、二、三度頭をすりつけた後、手を放す。
「えへへ! 忍足!」
「なんや」
 背中越しの呼び声に、忍足はおっくうで振り返らず応える。だがジローは、用件は言わず嬉しそうに忍足の名前を呼び続けるばかりだ。
「忍足! 忍足! おしたり〜!」
 調子を変え、ジローは何度も何度も同じ単語を繰り返した。いい加減がまんできず、忍足はジローを振り向く。
「なんやねん」
 ジローは満面の笑みを浮かべると、そのまま幼なじみの元へ走って行ってしまった。
「なんやねん……」
 どうして、今日に限ってあの子はあんなに元気なのだろう。
 遠くではしゃいでいるジローの、年の割に高い声が耳につき、忍足は顔をしかめた。


 昼休憩になって、忍足はうだるような暑さから逃れようと部室へ向かった。部室は冷暖房完備で、今日の気温ならクーラーがつけられているはずだ。
「侑士! どこ行くんだ?」
 コート脇の芝生で弁当に手をつけようとしていた向日が、歩き出した忍足に声をかけてきた。立ち止まって、忍足は顔だけ振り向く。
「部室」
 それだけで通じたらしい、自分も行くと向日が立ち上がった。
「侑士、なんか今日きげん悪ィよな〜」
 呑気な口調で、向日が言う。普段ならそんなことはないと笑みの一つや二つ浮かべるところだったが、それすらも面倒に感じ、忍足は僅かに眉を上げただけだった。
「暑い」
「そりゃそーだけどよ」
 頭の後ろで腕を組みながら、向日が首を傾げる。隣を歩く忍足を見上げ、向日は続けた。
「なんか侑士がいらいらしてんのって珍しーっつーか、俺がつまんねえ」
「なんやねん、それ」
 向日の言葉に、忍足の苛立ちが増した。ただでさえ暑いというのに、忍足の住むアパートは二階の、ちょうど西日が差し込む部屋なのだ。夕方部活を終えて帰宅した頃など、まるで蒸し風呂のようになっている。そんな部屋で、クーラーもなく日々を過ごしている自分の身にもなってもらいたい。
 しかも、今年は連休だというのに部活まであって、いっそう疲労が増していた。
 クーラーをつけたまま寝てしまった、などと部活前の笑い話にできるような向日にはわからないだろうが。
 そこまで考えて、忍足ははっとする。いくら暑さでいらいらするからといって、八つ当たりをしてよいはずはない。
 気まずそうに見下ろしたが、向日は忍足の考えになど一向に気づかない様子で、弁当をぶらぶらと揺らしながら歩いていた。
「でもまあ、そーゆー日もあるよなっ」
 さっぱりとした明るい笑顔を見せ、向日が励ますように忍足の肩を叩く。力強い笑みに、忍足の心がいくらか軽くなった。
 向日は、無神経で自己中心的なようでいて、こういうところが上手いと忍足は思う。
 忍足が相手の心を読んでさりげなくフォローするところを、向日は無意識のうちにやってのけるのだ。たまに空気の読めない発言をすることもあるが、それは向日が自分をよく見せようと考えて行動している訳ではないという証拠だった。
 己の損得も見返りも必要としない向日を、まるで別の世界の人間のように感じる。そんな向日のパートナーでいられることを誇りに思ったが、眩しくて見ていられないこともあった。


 部室には先客がいたらしく、中から数人の話し声がした。先ほど耳にした声が混じっていることに気づいて、忍足は小さく溜息をつく。立ち止まった忍足の横で、向日はさっさと扉を開き中へ入っていった。
 向日がやってきたことに気づいた中の者が、歓迎の言葉を発する。続いて、忍足はどうしたのか訊ねる声が聞こえた。向日と忍足はダブルスのパートナーで、部活中は行動をともにしていることが多いため、そんな質問が出るのは当然のことかも知れない。向日が答えるのと、扉の向こうから駆け寄ってくる足音がしたのは同時だった。
 一瞬、忍足は踵を返そうか迷う。結論が出る前に、扉が開いてしまった。中から飛び出して来た者が、勢いよく飛びついてくる。
「えへへ! 忍足〜!」
「……暑いて、ジロちゃん」
 何が楽しいのか、弾んだ声でジローが忍足の名を繰り返した。相手にするのも面倒になって、忍足は抱きついてくるジローをそのままに部室へ足を踏み入れる。中にいた者たちが、一斉に視線をよこした。
 忍足は、あまり注目されることが得意ではない。肩をすくめて、空いている席へ弁当をおく。座るからと、ジローに離れるよう手を叩いて伝えた。ジローはやはり素直には離れず、一度強く抱いてから腕を放す。
 一体、この行動にはなんの意味があるのだろう。ジローが人なつっこいのはいつものことだが、これ程しつこかったことは今までないはずだ。ふと浮かんだ疑問は、涼しい部屋に入って急に刺激された食欲によってかき消された。


 腹がいっぱいになり、涼しい部屋で残りの休憩時間を過ごす段階になってようやく、忍足はなんだかおかしいことに気づいた。暑さで働かなかった頭が、ようやく動くようになってきたのだろうか。
 忍足の視線の先では、ジローが幼なじみの宍戸と戯れてはしゃいだ声を上げている。どうして鬱陶しいなどと思ったのか、いま耳にするそれは、心から楽しんでいるという風で、聴いているこちらまで楽しい気分にさせた。
 思わず目元を和ませた忍足に気づき、ジローがまた舌っ足らずに名前を呼んで手を振ってくる。つられるように忍足が振り返すと、ジローは笑みを浮かべて宍戸に抱きついた。
 今日のジローは、いつにも増してご機嫌のようだ。普段、寝起きは不機嫌なのにと考えて、今日はジローの寝ている姿を一度も見ていないことに気づく。
 先ほど感じた違和感は、これだったのだろう。ジローは放っておくと一日中でも寝ているような人間で、食事中ですら眠り込んでしまい、食べ物に顔を突っ込むことも稀ではなかった。
 連休中ずっと部活で、そろそろ疲れもたまっているだろうに、なぜ今日はこんなにも元気なのだろう。
 ジローに見られていることに気づいて、忍足は微笑みかける。ジローが、うっすらと頬を赤らめた。
「ジロちゃん、今日はご機嫌やんな?」
「えっ! わかる〜!?」
 目を丸くするジローに、自覚していなかったのかと忍足は肩を揺らして笑う。ジローが、照れたように頭をかいた。
「なんやのジロちゃん、そないテニスが好きになったん?」
「うん、大好き! でも忍足はもっと好き!」
 ついでのように告げられた言葉に、忍足は苦笑する。
「そーかそーか。俺もジロちゃんが好きやで〜」
 軽い調子で返してやると、ジローが大きく目を見開いた。宍戸の膝からおりて、身を乗り出すように机へ身体を預ける。
「ほんと!?」
「ああ、ほんまやで」
 頷いてみせると、ジローの顔が輝いた。眩しくて、忍足は目を瞬かせる。ジローの笑顔は、まるで太陽のようだとぼんやり思った。


 休憩時間が終わり、まだ片づけをしている他の部員をおいて忍足は外へ出た。途端に押し寄せる熱気に、顔をゆがめる。少し離れた場所に跡部の姿を見つけ、忍足は歩き出した。
「跡部様〜」
 わざとらしく下手に出て声をかける忍足に、跡部は一瞥しただけでコートへと視線を戻す。
「なんや、つれないな」
 忍足が小さく呟いても、跡部は小馬鹿にしたように鼻を鳴らすだけだった。
「なー、跡部。連休に練習組んだんは、俺への嫌がらせか?」
 なんのことだというように、跡部が片眉を上げる。反応があったことに気をよくした忍足が跡部の肩に乗せた腕は、即座に音を立てて払いのけられた。
「あいた」
 叩かれた手を大げさにさすりながら、忍足は続ける。
「去年も一昨年も、連休は休みやったやん」
 跡部の視線が彷徨って、言おうか言うまいか迷っているのだと忍足は悟った。黙って待っていると、跡部が口を開く。
「今日が何の日か、てめえ当然知ってやがるだろうな?」
「今日……?」
 予想外の問いかけに、忍足は首を傾げた。今日は、五月五日。端午の節句。男子の成長や出世を願い、鯉のぼりや鎧甲を飾る日だ。跡部の望む答えは違うのだろうなと思いながら、忍足は言葉を返す。
「もちろん知っとるよ。こどもの日ー、やろ」
 突っ込みにしては鋭すぎる蹴りが入りそうになり、忍足は慌てて身を引いた。跡部が、舌打ちをして長い足を引っ込める。
「なんやのいきなり! 合うとるやろ!」
 さすがにおびえを隠しきれず、忍足は青ざめた顔で怒鳴った。まだ続けたかったが、跡部の凶悪な目つきに押し黙る。
「今日は、ジローの誕生日だ」
「へっ」
 こどもの日が誕生日だなんて、ジローらしいというかなんというか。そうだったのかと感心しながら、忍足はそれでと跡部へ視線を向けた。
「それやったら、休みにしとったほうがジロちゃんも喜んだんちゃうの」
「だからてめえはトップに立てねえんだよ」
 吐き捨てるように、跡部が言う。
「な、なんでそこまで言われんとあかんの!」
 たかが誕生日のことで、と喉まで出かかったが、跡部の報復が恐ろしかったので無理やり飲み込んだ。
「人より知ってるつもりで、結局お前はなんにも見てねえんだ」
 それだけ言うと気がすんだのか、跡部は足早に行ってしまった。背中を見送って、忍足は誰にともなく呟く。
「なんで、そこまで言われんとあかんの……」
 背後から仲間の声が迫り、忍足も慌ててコートへ向かった。


 暑さと、跡部の言葉が気になって、忍足は午後の練習で集中できずにいた。ラリーをしていた宍戸が、怒りに満ちた顔でラケットを下ろす。
「忍足! てめえ、やる気ねえんなら帰れ!」
 部長でもなんでもない宍戸にそんなことを言う権利はなかったが、忍足は言い返せずに俯いた。しばらくの間、宍戸は忍足をにらみ付けていたようだ。やがて溜息とともに近づいてくる気配がして、ラケットの先で肩を突かれる。
「暑いからって、へばってんじゃねえよ」
 思いの外優しい声音に顔を上げると、宍戸が苦笑しているのが見えた。
「交代して、顔でも洗ってくっか」
 言うが早いか、宍戸が背を向けて歩き出す。今日は正レギュラーのみの練習であるため、このぐらいの融通は利いた。
 水飲み場について宍戸が顔を洗い出したのを、忍足は黙って眺める。タオルを差し出してやると、感謝の言葉とともに受け取られた。
「あー、気持ちいー」
 お前はと振り向かれ、忍足は首を振る。宍戸は気にしない素振りでしゃがみ込んだ。
「宍戸にしては、珍しいんとちゃう?」
「ん? あー、まあずっとこれだとなあ」
 テニスは好きだけどと、照りつける太陽を見上げて宍戸が首を振る。
 宍戸は、知っているのだろうか。跡部の言葉の意味を。
「なあ、宍戸」
「ん?」
 他人から答えを聞くのは卑怯な気がして、忍足は少し躊躇いながら訊ねた。
「今日、ジロちゃんの誕生日なんやって?」
「ああ、そう。よく知ってんな」
 驚いた様子で、宍戸が忍足を見上げてくる。この分では、もしかして知らないのだろうか。
「なんでわざわざ、誕生日に練習入れたんやろな?」
 今年のスケジュールは、全て部長である跡部が組んでいるはずだ。例年通り休みにすることなど簡単だっただろうに。
「あー、なんかジローが」
 思い出したように、宍戸が言った。
「ジロちゃんが?」
 宍戸の口振りから、ジローが言いだしたらしいと忍足は目を丸くする。
「いっつも、誕生日は三人で集まってんだけど」
 宍戸の言う三人とは、跡部と宍戸とジローの幼なじみ組のことだろうと予想がついた。仲良しなことだと、なぜか恥ずかしくなって忍足は目をそらす。
「今年はなんか、他の奴と過ごしてーみたいで」
「他の奴と?」
 跡部と宍戸がいればそれで満足だというようなジローがそんなことを言い出すとは、にわかに信じがたかった。
「そ。でも跡部とも俺とも一緒にいたいし〜、って」
「そんで、部活?」
 宍戸が頷く。
「ふーん。まあ、レギュラーとは仲ええしな」
 三人だけの誕生日もいいが、大勢でテニスをして過ごすのも、それはそれで楽しいのかも知れない。つきあわされる者たちにとっては不満もあるだろうが、相手がジローなだけに仕方ないですむだろう。
 そんな理由だったのかと納得しかけ、忍足は眉根を寄せた。
 それで、何故自分だけが責められないとならないのだろう。跡部は、忍足だけが悪いような言い方をしたはずだった。


「あ〜! いないと思ったら、こんなとこに〜!」
 噂のジローが、部室の陰から顔を覗かせた。宍戸は立ち上がると、ジローの頭を一度叩いてそのまま行ってしまう。見送って、ジローがまだ水飲み場の脇に立ったままの忍足へ振り向いた。
「忍足〜!」
 とても嬉しそうに、ジローが忍足を呼ぶ。今日は何度、その声を聴いただろう。笑いかけると、ジローが両手を広げて飛びついてきた。
「忍足、好き〜!」
「俺も好きやで」
 くっつかれると暑さが増すのは変わらなかったが、誕生日なのだから浮かれるのも無理はないと大目に見てやる。
「ジロちゃんは、いっぱい好きなもんがあってええなあ」
 素直な気持ちで忍足が言うと、ジローがすり寄せていた顔を上げた。
「うん! 俺跡部が好き! 亮ちゃんが好き! テニス好き! お昼寝も好き!」
 頷きながら、忍足は金髪に指を絡ませて頭を撫でてやる。ジローが、気持ちよさそうに頭を下げた。
「そんでもって、忍足が好きだよ」
 急に変わった声の調子に、忍足はあれ、と思う。なんだか、先ほどまでとは込められた意味が違うような。
 まさか、と内心焦りながら忍足は言葉を紡いだ。
「え〜っと、ジロちゃん?」
「ん?」
「ジロちゃんは、……俺のこと、好きなん?」
「好きだよ!」
 ずっと言ってるではないかと、ジローが顔を上げた。
「そ、そっか……」
 何を言えばよいかわからず、忍足は視線を彷徨わせる。頭上の木が風で揺れ、一瞬日の光が目を貫いた。
 ジローのようだと、忍足は目を瞬かせる。
 向日を眩しく感じる以上に、ジローは強烈な光を放っているのだと思っていた。あんまり強烈で、他の存在をかき消してしまう脅威だと。
 その、ジローが。


「……ジロちゃん、今日俺に会いたかったん?」
「うん! いっつも会いたいけど、今日はとくべつ〜」
「そっか……」
「跡部が練習入れてくれてよかった〜」
 もしかすると、ジローが練習を組めと言いだした訳ではなく、跡部が勝手にしたことなのかも知れない。
 ほんとうに、自分はなにも見ていなかったようだ。
「ジロちゃん」
「ん〜?」
 忍足に抱きついたまま、ジローは気持ちよさそうに目を閉じている。微かに笑って、忍足は口を開いた。


「誕生日、おめでとう」


【完】


 ジローに、ありったけの愛を込めて。


2005 05/04 あとがき